トーキョー忍び猫

タキコ

第1話

 明治三〇年、北多摩郡きたたまぐん吉祥寺村きちじょうじむら遊郭ゆうかく二階の女郎じょろう座敷。

 格子こうしの目から宵闇よいやみの秋風。

 階下から、三味線しゃみせんがシャンシャンと鳴り、下足番げそくばん木札きふだをカランカランと響かせる。

 花街はなまちにぎわいが始まっている。

 女郎のザクロは、文机ふづくえに向かう森之助もりのすけ先生の顔をのぞき込んだ。

「先生、しばしお休みになられたら。お疲れのご様子」

 一糸いっしも乱れていない着物を整えて、ザクロは、正座し直した。

 森之助先生は筆を止めて、ザクロをちらと見遣みやる。

「それは、ほとほと疲弊ひへいしたこの物書きの様相が、爺様ということ」

「そうではなくって、ご心労が体にさわるといけませんわ」

 森之助先生は、娘ほども歳の違うザクロを柔らかに見つめた。

「散歩に出よう。秋の夜長は、散歩がいい」

 ザクロはくすっと笑った。

散歩三昧さんぽざんまいは、ザクロには至福しふくでございます。確か、夏の朝露あさつゆも、散歩でしたわね」

 森之助先生の瞳孔どうこうが、きらり開く。

「あれは! 見事だった。露の玉が草の葉をコロリ落下。瞬時、ザクロさんの手裏剣しゅりけんの立ち回り」

「しっ。先生、声が大仰おおぎょうです」

「ザクロさん、散歩に出よう」

「ししーっ。朝戻りは、こっぴどく叱られました」

「忍びの姿は、星空の下が美しい」

 ザクロの祖父の生業なりわいは江戸の御庭番おにわばんだったという。つまり、ザクロは、忍者の血筋を引いている。


 廊下に足音がして、着物のすそが床をすべってくる。

あねさんが、目を光らせています」

「なーに、銭は済ませたから、問題無し」

「そうではなくって、ここは岡場所おかばしょだって言われましたわ」

「どんな場所だって」

「うちは女郎ですって。易者えきしゃとは違うって」

「ほほう、忍者は易も兼ねると。吉祥寺の易、多大なる御利益」

「おしゃべりが過ぎるんですわ、先生は」

他言無用たごんむよう瞑想推奨めいそうすいしょう思考困憊しこうこんぱい

「先生、今晩は、何を思いあぐねていらっしゃるの」

「今書いている主人公」

「確か、猫。三毛丸乃みけまるのと言いましたわ」

「手裏剣を持たせることにした」

「まぁ、しのび猫をお書きになるのですね」

「猫にはたもとがない。手裏剣をどこに持たせようか」

「そりゃもう、肉球ですわ。うちだったら、肉球を剣に変えさせますわ」

「なんと。てのひらを刃物に変えるとは、忍法敵無しだな」

「ようやっと、先生がお笑いになった」


 すぐそばの軒先のきさきで、夜鷹よたかそば売りが〝そーば うぅぅー〟と、高らかに歌う。

「ザクロさん、散歩に出よう。階下が騒々しい。すきをついて抜け出そう。ザクロさんには朝飯前」

「ならば、先生も、回廊かいろうから飛び降りますか」

「それはどうかな。よっぽど騒がしくなりそうだな」

「御庭番は、将軍のめいを受けて動いたそうです。祖父が言っておりました」

小生しょうせいの命では動けないと」

「そうではなくって、忍術は使いません」

「無念。忍びの塩漬けだな」

「うち、お腹がすきました。先生と、そばを食べに参ります」

「お見事! 合点。姐さんに言ってきなされ」


 善福寺川ぜんぷくじがわに散らつく星の光。森之助先生は、心許こころもとなく川面かわもを眺めている。

「月は出ておらんな」

「やっぱり、今晩は、座敷でお休みされていたらよかったんですわ」

「川に入ろう」

 ザクロは、暗がりに、森之助先生の真意を探る。

「先生は、何を思いあぐねていらっしゃるの。うち、手裏剣は持って出ていないですわ」

「手裏剣不要。多摩川丼をご賞味あれ」

「多摩川丼? 深川飯とは違うのでしょうか」 

 驚くザクロに、森之助先生 いわく、お隣りの井荻村いおぎむらに、しじみ飯を食わせる宿があるという。

 多摩川のしじみ。

 ザクロは、森之助先生に付いて川沿いを行く。街道を行く。合い間の森林を行く。

 けれども、住居をぬって、寺社を抜けて、橋を渡っても、宿場が見えない。

 武蔵野の迷路。


 令和二年、秋の名月に照らされて、ザクロは森之助先生に並んで歩いた。

 歩くたび林を抜け、歩くたび野に出る。

 自然界と生活域が行き来する町並み。

 トーキョーは善福寺公園。

 池に浮かぶ睡蓮すいれんの葉に、月光が乗って揺れている。

「ザクロさんに、もぐりの忍術を教わります」

「どうしてまた。秋の涼風りょうふうに潜りですか」

「この池に潜ります。素のまま潜りたい」

 森之助先生は、水面をとおして月を見たいというのだ。

「忍び猫が、お月見するのですか」

にもかくにも、水面の下から月を見たい」

「つまりは、先生の書き物で、忍び猫が潜水するということですわね」

「御名答! しかし、私は、素潜りを知らない。描写不能」

「素潜りでしたか。先生の今晩のお悩みは、それでしたか」

猫掻ねこかきでもさせておけばよいのだが…」

「それはいけませんわ。忍びは、潜ります。三毛丸乃も潜りましょう」

「ザクロさんに伝授いただいた術で、海底に忍ぶとしよう」

 池の端で、おもむろに着物を脱ぎ出す森之助先生。

「ザクロさんの着物は、重量がかさむだろうに」

 21世紀のトーキョーまで時間軸を超えてきたというのに、森之助先生は相変わらずだ。慌てているし、細々したことを気になさる。

 ザクロの口調が悠長ゆうちょうなのも、変わらずだった。

「ここはどこですの? 吉祥寺村ですか」

「確か、杉並区吉祥寺。否、武蔵野市善福寺か。はて、何処いずこ

 遠くで、アスファルトに反射するクラクション音が聞こえる。

 ザクロは、耳を澄ます。

 川のせせらぎと、虫の声が懐かしい。

「ザクロさん、着物はどうする」

「自然と、水の中で溶けましょう」

 森之助先生は、両掌てのひらで、ザクロの手を包んだ。

「仮にだ、私が水面に浮かばない時は、私は過去の存在となる」

 森之助先生の目に、ふと、ザクロの胸元が覗いた。

 猫のようなフサフサした毛並みが見えた気がした。

「うちが水面に上がる時、全身を大きく旋回せんかいさせますわ。水の流れが大きく揺れたら、引き上げの合図ですわ」

「引き上げの時分、朝日が差しているだろうか」

 森之助先生は、お天道様てんとうさまの光を浴びながら地に上がりたいという。

「先生の潜水次第ですわ」

 ザクロはそう言うと、静かに水に入った。 

 一瞬、水を掻き回す音。泡ぶくが立って、池が静寂になった。


「……ただ秋の夜の夢のごとし……」


 つぶやくと、森之助先生は大きく飛び込み、飛沫しぶきが散った。


 ザクロの声が、水流となる。

「皮膚が呼吸します

肌毛が浮き具です

自然に生かされます」

 森之助先生の心が、気泡きほうとなる。

「水の流れと一つになる

私自身が空気

ここに生かされる」

    

 鳥のさえずりに、森之助先生はまぶたを開けた。

 頭上の空に広がるは、黄緑の小さな葉っぱたち。

 そこは、善福寺緑地の街路樹。銀杏イチョウの葉がかすかに揺れる。

 「はて。時空は何処」

 辺りを見回す。森之助先生にも、分かりかねる。

 樹樹の香り。空には、秋の雲。

 果たして、水面に上がらなかったのはザクロ。

 がさごそと音がして、振り向くと、黄金の絨毯じゅうたんを掻き混ぜて遊んでいる猫が一匹。

 森之助先生は、両掌を伸ばして、三毛に触れる。

「鳴いてごらん」

 森之助先生に言われて、三毛猫が背筋を伸ばす。間延びした悠長な鳴き声。

「ザクロさんは、過去を選ばず。トーキョーに忍ぶ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トーキョー忍び猫 タキコ @takiko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る