トーキョー忍び猫
タキコ
第1話
明治三〇年、
階下から、
女郎のザクロは、
「先生、しばしお休みになられたら。お疲れのご様子」
森之助先生は筆を止めて、ザクロをちらと
「それは、ほとほと
「そうではなくって、ご心労が体に
森之助先生は、娘ほども歳の違うザクロを柔らかに見つめた。
「散歩に出よう。秋の夜長は、散歩がいい」
ザクロはくすっと笑った。
「
森之助先生の
「あれは! 見事だった。露の玉が草の葉をコロリ落下。瞬時、ザクロさんの
「しっ。先生、声が
「ザクロさん、散歩に出よう」
「ししーっ。朝戻りは、こっぴどく叱られました」
「忍びの姿は、星空の下が美しい」
ザクロの祖父の
廊下に足音がして、着物の
「
「なーに、銭は済ませたから、問題無し」
「そうではなくって、ここは
「どんな場所だって」
「うちは女郎ですって。
「ほほう、忍者は易も兼ねると。吉祥寺の易、多大なる御利益」
「お
「
「先生、今晩は、何を思いあぐねていらっしゃるの」
「今書いている主人公」
「確か、猫。
「手裏剣を持たせることにした」
「まぁ、
「猫には
「そりゃもう、肉球ですわ。うちだったら、肉球を剣に変えさせますわ」
「なんと。てのひらを刃物に変えるとは、忍法敵無しだな」
「ようやっと、先生がお笑いになった」
すぐそばの
「ザクロさん、散歩に出よう。階下が騒々しい。
「ならば、先生も、
「それはどうかな。よっぽど騒がしくなりそうだな」
「御庭番は、将軍の
「
「そうではなくって、忍術は使いません」
「無念。忍びの塩漬けだな」
「うち、お腹がすきました。先生と、そばを食べに参ります」
「お見事! 合点。姐さんに言ってきなされ」
「月は出ておらんな」
「やっぱり、今晩は、座敷でお休みされていたらよかったんですわ」
「川に入ろう」
ザクロは、暗がりに、森之助先生の真意を探る。
「先生は、何を思いあぐねていらっしゃるの。うち、手裏剣は持って出ていないですわ」
「手裏剣不要。多摩川丼をご賞味あれ」
「多摩川丼? 深川飯とは違うのでしょうか」
驚くザクロに、森之助先生
多摩川のしじみ。
ザクロは、森之助先生に付いて川沿いを行く。街道を行く。合い間の森林を行く。
けれども、住居をぬって、寺社を抜けて、橋を渡っても、宿場が見えない。
武蔵野の迷路。
令和二年、秋の名月に照らされて、ザクロは森之助先生に並んで歩いた。
歩くたび林を抜け、歩くたび野に出る。
自然界と生活域が行き来する町並み。
トーキョーは善福寺公園。
池に浮かぶ
「ザクロさんに、
「どうしてまた。秋の
「この池に潜ります。素のまま潜りたい」
森之助先生は、水面を
「忍び猫が、お月見するのですか」
「
「つまりは、先生の書き物で、忍び猫が潜水するということですわね」
「御名答! しかし、私は、素潜りを知らない。描写不能」
「素潜りでしたか。先生の今晩のお悩みは、それでしたか」
「
「それはいけませんわ。忍びは、潜ります。三毛丸乃も潜りましょう」
「ザクロさんに伝授いただいた術で、海底に忍ぶとしよう」
池の端で、おもむろに着物を脱ぎ出す森之助先生。
「ザクロさんの着物は、重量がかさむだろうに」
21世紀のトーキョーまで時間軸を超えてきたというのに、森之助先生は相変わらずだ。慌てているし、細々したことを気になさる。
ザクロの口調が
「ここはどこですの? 吉祥寺村ですか」
「確か、杉並区吉祥寺。否、武蔵野市善福寺か。はて、
遠くで、アスファルトに反射するクラクション音が聞こえる。
ザクロは、耳を澄ます。
川のせせらぎと、虫の声が懐かしい。
「ザクロさん、着物はどうする」
「自然と、水の中で溶けましょう」
森之助先生は、
「仮にだ、私が水面に浮かばない時は、私は過去の存在となる」
森之助先生の目に、ふと、ザクロの胸元が覗いた。
猫のようなフサフサした毛並みが見えた気がした。
「うちが水面に上がる時、全身を大きく
「引き上げの時分、朝日が差しているだろうか」
森之助先生は、お
「先生の潜水次第ですわ」
ザクロはそう言うと、静かに水に入った。
一瞬、水を掻き回す音。泡ぶくが立って、池が静寂になった。
「……ただ秋の夜の夢のごとし……」
つぶやくと、森之助先生は大きく飛び込み、
ザクロの声が、水流となる。
「皮膚が呼吸します
肌毛が浮き具です
自然に生かされます」
森之助先生の心が、
「水の流れと一つになる
私自身が空気
ここに生かされる」
鳥のさえずりに、森之助先生は
頭上の空に広がるは、黄緑の小さな葉っぱたち。
そこは、善福寺緑地の街路樹。
「はて。時空は何処」
辺りを見回す。森之助先生にも、分かりかねる。
樹樹の香り。空には、秋の雲。
果たして、水面に上がらなかったのはザクロ。
がさごそと音がして、振り向くと、黄金の
森之助先生は、両掌を伸ばして、三毛に触れる。
「鳴いてごらん」
森之助先生に言われて、三毛猫が背筋を伸ばす。間延びした悠長な鳴き声。
「ザクロさんは、過去を選ばず。トーキョーに忍ぶ」
トーキョー忍び猫 タキコ @takiko
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