第九小節「音楽を好きになった日」
符楽森が小学校2年生の夏頃、各国の巡業で忙しかった響、そしてその妻
*
午後9時過ぎ、彼らは符楽森少年を預かっている由美子の妹の家に着くと、どっと疲れたようにソファーに腰を掛けた。
「拆音、楽しかったかい?」
今にも息絶えそうな声で、響は拆音に
「うん、とっても!人生で一番楽しかった!」
拆音は遊園地で買ってもらったクマのぬいぐるみとキラキラした目で戯れながら言った。その様子に響と由美子は目を細めた。その目は喜びとも、そして悲しみとも取れる色をしていた。
「拆音は本当にパパ達と一緒に来ないのか?」
響は、さっきよりかは生気を取り戻した声で零す。由美子は「こんなときにやめなさいよ」と言いたげな顔をしていたが、しかしゆっくりと符楽森少年の顔に目を向けた。
符楽森少年は戯れていたクマのぬいぐるみをそっと膝の上に置き、少し俯いたかと思うと、両親の方に顔をやった。
「僕、パパもママも大好きだけど、やっぱり外国に行くのはこわい。ごめんなさい。」
やっぱそうだよなぁ〜と響は笑いながら言った。由美子もそれを見て微笑む。
符楽森少年がなんで笑っているの?とキョトンとしていると、由美子が口を開いた。
「いや、パパもね?なんでかずぅぅぅぅっと外国に行くのが怖かったのよ。大人になってからもずっとよ?やっぱり拆音はパパ似なのね。」
「でも今はちゃんと海外で仕事してるだろ?それに僕の海外嫌いのお陰で由美子とも出会えたんだから。」
「まぁそれはそうね?」
由美子はそう言って響に軽くキスをした。
「お姉ちゃん、拆音の前でそういうことやめてくれる?」
「
「入るも何も…ここ私ン家なんだけど…」
明は呆れ顔で3人に近づいてくると、響と由美子にワイン、符楽森少年にオレンジジュースを差し出した。由美子はそれを見て明に泣きながら抱きつこうとしたが、すぐさまソファーに押し戻された。
*
「で?何の話ししてたのさ。」
明はソファーの横の椅子に座り、缶ビールの栓でプシュッと小気味良い音を鳴らしながら言った。
「拆音に一緒に海外に来ないかって響が言ったわけ。」
由美子は少々呆れ顔で明に言った。明は「こんなときにやめなよ」と響を呆れ顔で見ると、そのすぐ後に拆音の方を向いた。
「拆音は多分、海外怖いから一緒に行けないよね。」
符楽森少年はコクリと頷く。やっぱりなぁ、と明は背もたれに寄りかかった。
「でもそれで良いんだよ?
そう言いながら明は符楽森少年に抱きついた。符楽森少年は苦しそうではあったが、その顔に嫌悪の色はなく、寧ろ嬉しそうであった。
「その代わりパパたちは寂しいんだぞ〜」
ワインでほろ酔いになったのか、頬を少し赤らめながら響は言った。
「じゃあ日本に残ってばいいのにね〜。ね?拆音。」
明はそう言いながらより強く拆音に抱きついた。
「そうしたいのは山々だけど、海外でしかできない演奏、作れない音とかが一杯あるの。それに響の作る演奏のファンが世界にはたっくさんいるんだから。生きてるうちにそういう人たちに演奏を届けるには、やっぱり海外に居なくちゃいけないの。」
由美子は少し寂しげにワイングラスを見つめながらそう言った。
「パパの…」
それに呼応するかのように符楽森少年は呟いた。
「パパのお仕事って、そんなにすごいの?」
符楽森少年以外の3人は驚いて顔を見合わせた。というのも、今まで符楽森少年が響の仕事に興味を持ったことは一度としてなかったのだ。
「知りたいか?パパのお仕事が。」
響は少年のように輝いた瞳で符楽森少年に問いかける。符楽森少年は、少し悔しそうに、しかし、響と同じように輝きのある瞳でコクリと頷いた。
そこからは長かった。響がコンサートでした失敗談、逆に大成功を収めた演奏、どんな成り行きで今の仕事をするようになったかなど、気がつけば2時間を超えるほど響は熱中して話し続け、符楽森少年は熱中して聞き続け、由美子と明は大きな
*
口も酒も回りすぎた響は、「良いもの聞かせてやる」と言うとヨロヨロと立ち上がり、明が一度として触れたことのないレコードラックを物色すると、1枚のレコード盤を取り出し、これまた明が一度として触れたことのない埃の被ったレコードプレーヤーにそのレコード盤をセットした。そしてゆっくりとレコード盤に針を落とすと、ポツンポツンとピアノの音色が聞こえ始めた。
ハッキリ言うと、符楽森少年は音楽が嫌いだった。音楽そのものが嫌いだったという方が正しいのだろうか。しかし符楽森少年は今確実に、音楽というものを好きになりかけていた。
その理由の一つは父と母の仕事の話だ。この世で唯一の父と母は、自身を日本に置き去りにして音楽のために海外に移住し、音楽のみを愛しているのだと思っていた。だからこそ父の仕事のことは聞くことはなかった。自身よりも音楽のほうが好きだということが証明されてしまいそうだったから。だがしかし、今回始めて父から仕事の話を聞いて、父と母が自身を置いて音楽に傾倒するのも、まぁ仕方のないことかもしれないと思ったのだ。だってその仕事があまりに魅力的で、あまりに美しく、そしてあまりに誇らしかったから。運動会で実の親が応援に来ることよりも、夏休みの思い出で皆が家族旅行の話で盛り上がっていることよりも、もしかしたら父の仕事の話の方が皆が羨ましがるものなのかもしれないと思ったから。符楽森少年は今なら音楽を許せるかもしれないと思ったのだ。
そしてもう一つの理由は。
「ねぇ、パパ。」
符楽森少年は薄っすら涙を浮かべて響に言った。
「この音楽は、生きてるよ。」
符楽森少年は気付いてしまったのだ。音楽の美しさに。
*
あの日の情景をありありと思い出した符楽森は、声を殺して号泣していた。
「君が音楽を好きになったキッカケは、ゴルトベルク変奏曲だったそうじゃないか。」
第九は符楽森を優しく見つめながら言った。
「なんでそれを…?」
符楽森はもう前が見えないほどの涙が溜まった瞳で第九を見つめる。
「なんでって…響がある時あまりに嬉しそうに言ってきたから。”拆音が音楽を好きになってくれた”って。」
符楽森はハッと息を呑む。
「父さんが、僕の話を…?」
第九は符楽森を不思議そうに見る。
「響が君の話をしない日なんてなかったが?」
自身よりも音楽を取った。符楽森はそう信じて疑わなかったし、別にそれは仕方のないことだとあの日気付いた。しかし、事実はそうではなかったようだ。
「響、それに彼の話しぶりを見るに由美子さんも、ずっと君のことを思っていたし、愛していたよ。勿論、今現在もそうだろうがね。」
父さんと母さんの中で僕はちゃんと存在していたんだ。そして、愛されていたんだ。
符楽森はその場に崩れた。そして大声を出して泣いた。僕と父さんと母さんの数少ない思い出を、音楽が呼び起こしてくれた。僕はちゃんと愛されていたんだと、音楽が教えてくれた。僕と父さんと母さんを、音楽が繋げてくれた。
僕はまた、音楽が好きになった。
Musica*Classica 弘瀬海 @KaiHirose
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