はじまりのはじまり

『名前を決めてやらないとねぇ』

『そうだなぁ……』


 大昔にぼくを助けてくれた人たちの懐かしい声が耳によみがえる。

 ユキと一緒にいるようになってから、過去の出来事を夢に見たり、ふとした瞬間に思い出すことも増えた。


 それも何故か楽しいことが多い。

 夕暮れの河原でネコジャラシを見付けてじゃれ付いたこととか、初めて煮干しをもらって美味しさに感動した時のこととか。


『そう、ナオ。お前は今からナオだ』

『にゃあ?』


 辛かったり悲しかったりすることだって、あったはずなのにな?

 記憶って不思議に出来ているんだね。


 ◇◇◇


 花盛りの時期が過ぎると、急速に雨の気配が近付いてきた。


「梅雨……」


 リビングで一緒にテレビを見ていたユキが困り顔になる。テレビの天気予報によれば、もうすぐ梅雨に入るみたい。


「雨が降るとれて気持ち悪いもんね」


 外に出なくても毛が湿気でバクハツするし。気を付けないと、怒ってもいないのに普段の1.5倍に増量しちゃう。

 念入りにブラッシングしてもらわないとな。


 でも、素敵なことだってある。

 水の玉をためてピカピカ光るアジサイを見たり、ケロケロ鳴くカエルの声を聞いたりするのは楽しい。

 ユキも笑顔になって、「しとしと、ポツポツって雨の音は好きかな」と言った。


 二匹でそんなことを話している時だ。

 中学生になり、慌ただしく朝の支度をしていたショータがふいに食事の手を止めた。黒い学生服もだいぶサマになってきたね。


「ナオって、どうしてナオって名前なんだっけ?」

「それは、ご先祖さまがそう名付けたからだな」


 タカヤがトーストにかじり付いてから応える。

 きちんと教えてあっただろう? と。


『にゃ~』

「う、ちょっとだけだぞ」


 ぼくたちはテーブルの上にピョンと飛び乗ってじーっと見詰め、見事、パンの耳のカケラをもらうことに成功した。

 一匹でやるより成功率が高いんだよね。


 カリッと焼き上がっているし、バターも付いて香ばしい。ユキも目をキラキラさせながら「おいしいおいしい」と食べている。

 これはタカヤの朝ごはん、消滅の危機かも……?


「そうじゃなくて、ご先祖さまが『ナオ』って名付けた理由」


 どうやら、学校で「自分の名前の由来について調べる」という宿題が出て、その流れでぼくの名前についても知りたくなったみたい。

 先に食べ終わって荷物チェックをしていたルカも、子ども部屋からヒョッコリ顔を出した。


「そういえば私も聞いたことないなぁ。ね、どうして人間みたいな名前なの?」

「――ほらほら、早くしないと二人とも遅刻するわよ?」


 キッチンからママさんの優しい注意が飛び、姉弟はハッとした。テレビの左上に表示された時間を確認して、声をそろえて『わっ』と叫ぶ。

 そのままカバンの持ち手を掴んで、外へすっ飛んでいった。


『にゃあ~(いってらっしゃーい)』

「俺ももう行かないと。行ってきます」


 ついでに、少し遅れて出勤するスーツ姿のタカヤも見送る。その大きな手でぼくたちの頭をガシガシと撫でた。

 ちょっと乱暴な仕草が、かつての記憶を再び呼び覚ます。


『「ナオ」はなぁ、次に子どもが生まれたら付けようって決めてた名だ。結局使い損ねちまったから、お前にやろう』

『我が家の小さな小さな末っ子ってわけだねぇ』


 その「末っ子」が、こんなに長生きして沢山の子どもたちと出会うことになるなんて、あの二人もきっと思っていなかっただろうな。


「ニャア」

「にゃあ」


 ユキがまっ白な体をすり付けてくる。ぼくは応えつつも、梅雨の向こうに待っているはずの暑い夏を思った。

 どこまでも高い空、わき上がる白い雲、深く青い海――。


 風が運ぶ水の匂いは、そう遠くないところまで来ていた。



《完》



 これにてナオの物語はひとまず終了です。

 最後までお読み下さり、ありがとうございました!

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