第21話 交錯する夏の線 12

 病院を出てから、しばらく、僕はこれからどうしようかと考えた。

 時刻はもう夕刻に近く、今どれだけ急いでも、もう色原は家に帰っているだろう。では、家に直行するのが、僕の選択肢にしかないのだが、どうも今はそんな気はない。どこか、今の僕は高揚感と言うか、そういう気持ちが非常に高ぶっている。だから、この稀に出る感情、いやもしかすると人生で初めてのこの感情を無駄にしたくはなくて。

僕はふと遠くに浮かぶ積乱雲を見る。その雲は非常に分厚くて、真っ黒で、今にも雨と雷が降りそうだ。高低差から見下ろす街並み。そこはまだ、雲が覆っていなくて、光の反射で街全体が眩しい。

僕は自分のやるべきことが分かったので、急ぎ駆け足で街に下りて行った。


 町に下りると、僕は花屋で献花を一セット買った。

 花の種類はわからないが、どれも色鮮やかで綺麗だった。けど、匂いはない。

 花の入った袋を持って街を歩くと、どこか懐かしい気持ちになった。僕はその気持ちを零れ落ちないように保ち、ひたすらに街に沿って北側へと歩いて行く。

 普段、なんとでもない街並みにはどこか美しさがあった。側面に並ぶポプラの木々も、高層な建物も、電信柱も、電線に乗るカラスも、アスファルトも、なぜか、それらすべてが何年もかけて、巨匠が作り上げた芸術品みたいに、完全さを感じて、見ていて飽きなかった。

 なのに、すれ違う人たちは誰も街に目をくれないで、忙しそうに歩いていくことに、僕はもったいないなぁなんて思った。けど、その反面、僕もずっとそうだったし、明日からもそうなるのかもしれないなんて思って、言及するのはやめた。

 歩き始めて、十分ほどしてから坂井霊園と書かれた看板が目に入った。大きな看板で、そこらのフード店の看板よりも大きい。

 僕はその看板に書かれた矢印に向かって歩いていく。やがて車一台分しか通れない細い道を抜けると、少し道は広くなり、横に長い鉄門が見られた。

門の近くには警備員がいて、くぐる際に、営業は夕方五時までだから、なるべく早く出てきてくださいねと丁寧に笑顔でそう言われた。

 久々に来た霊園は広く感じた。テレビで見たアメリカの農園と同じくらいの広さがあるんじゃないだろうか。ただ、農園と違って、墓の群は基盤の目に並んでいるので、少し前の記憶を頼りに目的の墓にまでたどり着くことができた。

 灰鼠色の直方体にはほんの少しの情報が刻まれている。僕は刻まれた文字列をなぞるように見て、自分がここに来たのがいかに久々であったことを実感した。

 墓の全体を眺め終えると、僕は花が入っていない花立を持って、水道場へ向かう。花立の中は長いこと水が溜まっていたせいか、水場へ流すと緑色の液体が流れ出た。僕は近くに置いてあった、清浄用のブラシで空洞を懸命に磨き、付着した苔をすべて洗い流した。

 満足いくまでに花立の中を洗い終えると、僕はブラシを元の場に戻し、水桶にある程度の水を入れて、その中に浮かぶように柄杓と花立を入れた。

 ふと空を見上げると、先ほど遠方に見えた積乱雲がもう頭上の方に浮かんでいた。

 僕は空を見上げながら、墓に戻ると、花立を元の場所に戻し、そこに献花を挿した。灰鼠色に、彩が加わる。柄杓でてっぺんの平面に水を流すと、水は外側に滑りゆき、やがて重力に従って落下し、水しぶきを作った。

 柄杓で水を掬えなくなる程度にかけ終えると、僕は中腰になって、手を合わせる。そして、瞑目して、長く来ることできなくてごめんと、ずっと向き合えなくてごめんと、心の中でそう言った。

 どこからか湿気を孕んだ生温い風が吹く。その風からは雨の匂いがした。


 霊園を出て、家路に就く途中、悲壮なほどにどす黒い鉛色の空からついに冷たくて、細かな雨が降りそいできた。それは、やがて大粒へと化して、激しい夕立となった。

 突如のスコールで、ある人はモールに入って、ある人は持参した折りたたみ傘を取り出して、ある人は革製の鞄を防雨具にして走りだしたりして、街は流れていた。

 その中で僕は特に急ぐわけでもなく、激しい雨に打たれて、街を歩く。

 しばらく止みそうにない雨はなにもかも流しだしてくれる気がした。だから、僕はまた泣いた。泣いて、雨に流した。そして、昔のことを思い出した。それはなんとでもないただの思い出。ただの日常の断片。

雨の激しさは増していく。やはり、思い出だけは雨に流れていきそうにない。

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