第19話 交錯する夏の線 10

 ようやく、自制を取り戻し、さらに先を進んでいけば、そこには意外な風景があった。

広大な草原、いくつかの民家、小川、一本の大木、また完全に日を覗かせる夏の空。

どこかで見たことがある気がした。

どうしてかノスタルジックになった。

 僕はそんな素晴らしき景色に釘付けになっていると、暁は「よっ」と言う声を出して、車いすから降りた。

「行こっ、灰ヶ崎君」

 僕は無意識にこくりと頷き、暁の後ろについていく。

「きれいなところだ」

「そうだよね。何か秘境みたいに感じるよね」

「子供に戻ったみたいだ」

「灰ヶ崎君はいつも子供でしょ」

 くすりとそんな笑い声が聞こえる。

「灰ヶ崎君」

「どうしたの?」

「あそこまで競争しよ」

 暁は大木に指を差して、走り出した。

 暁の全力疾走はフォームがすごく綺麗で、まるで陸上選手の手本みたいな走りだった。でも、速さはなかった。それは過去形であったかのような、風化したかのような、あくまで病的な色白の少女の全力疾走だった。

 だから、僕は遅れてスタートをしても、すぐに追いついた。その真っ白な背中を追い、彼女の流れる髪を通り越した。

 やがて、大木の下にたどり着くと、僕は息を切らせて、暁の後着を待つ。暁は僕の数秒後にゴールをした。

「もぉー、灰ヶ崎君は遠慮なさすぎだよ。私、病的で運動もろくにしてない可憐な少女なんだよ? もっと、気づかってくれてもいいんじゃないの?」

「生憎、僕は気遣いのない男だからね」

 僕が皮肉そうに微笑んでそう言うと、暁は「そうだった、そうだった」とさらに、皮肉で返すように笑った。

 僕らは息を切らせながら、大木を背にして座り込む。

 ここから見える景色はさっき見た景色と違い、さらに青い芝生が目立ち、蒼い空が目立った。

「どうしてここに来たの?」

 僕は目に映る光景を見つめたままに言った。

「ここはね、よくお姉ちゃんと来たの」

「お姉ちゃんと?」

「そう、お姉ちゃんと。いつも夏休みになると、帽子をかぶって、水筒をもって、お菓子をもって、自転車を必死に漕いで、漕いで、ここに来たの。いつも汗をかいて、倒れそうになって、足も重くなって、もう無理だってぐらいになって。いつも無理しながら、ここに来てたの」

「思い出の場所なんだね」

「うん、思い出の場所。でもね、今日は懐かしむためにここに来たわけじゃないの」

「そうなの?」

「うん。って、灰ヶ崎君は忘れん坊すぎだよ。最初に私、目的を言ってたでしょ」

 言ってたっけ? と、少しばかりの近い過去を回想してみたが、あぁ、言ってた。

「お墓参りだ」

「うん、お墓参りだよ」

「でも、お墓なんてどこにもないよ?」

 僕はあたりを見渡す。でも、そこには霊園も、お墓も見当たらない。あるのは陽炎と夏の風景だけ。

「ここにあるの」

 暁は首を捻り、大木を軽く叩いた。

「僕には大木しか見えないけど」

「この大木がお墓なの」

「えっ?」

 思わず僕は大木から背を離した。そりゃあそうだ、お墓に背を乗せるなんて、縁起が悪すぎるからだ。

「ははは、れっきとしたお墓じゃないから大丈夫だよ」

「えっ、そうなの?」

 僕はその言葉に胸を下す。

「うん、なんていうかな、観念的な? 私、ちょっと語彙力ないからわかんないけど、別に骨でも埋まってるわけでもないし、石碑でもあるわけじゃないの。私とお姉ちゃんが勝手に決めただけで」

 あぁ、なるほど。そういう感じなのか。

「えっと、じゃあ、失礼なことを聞くけど、ここはお姉さんのお墓になるのかな?」

 暁はほんの少しだけ間を置いてから「うん、そうなるね」と言った。

「でも、お姉さんは海外で行方不明になっているだけでしょ。まだ、死んだとは限らないんじゃあ……」

 ないの? と聞く前に、暁は首を横に振った。

「うんうん、死んだ。死んだの。私、お姉ちゃんから直接、聞いたから。『あたしは向こうで死ぬ』って。『他の人には言わないでね』って。『でも、あの大木のお墓にはたまにでいいから見舞いに来てね』って。それだけを言い残して」

 暁は膝を抱えて、遠い景色に目をやった。その姿は白く、淡く、儚く、美しい。

「でも、どうして死のうとしたんだろう?」

 僕は何かに合わせて、どうしても聞かずにはいられなかった。

「わからない。わかんないの。ずっとずっと考えてたけど、それでもわからなかったの。どうしてなんだろう。いくら考えてもわかんないの」

 暁は流れていく雲に目をやって、その後に僕を見た。

「それでね、ここで三つ目のごめん」

「いきなりだね」

 思わず僕は聞く。

「うん。今の話と関係があるから」

「そっか」

「あのね」

 暁は立ち上がり、こぶしを握り締め、僕を見下ろすように視線を向ける。蓄積した疲れからか、暁の足は少しだけ、ほんの少しだけ、小刻みに揺れている。

「私は、君を、灰ヶ崎君をずっと、姉に照らし合わせていました。最初に君を見た時に、どこか姉と同じような雰囲気があって、姉と似た面影があって、思わず君を姉に重ね合わせました。それから、私が病気になって、しばらくしてから、この夏休みにどうしてか姉のあの時の心情のことをまた知りたくて、君を呼びました。そして、君をより知ることで姉のことがわかるんじゃないかと思いました」

 暁の表情は少しずつ崩れ落ちてきて、そこには彼女のいつもの面影はなかった。

「でも。でも、何もわからなかった。何にもわからなかったの。

なんだか、近い感じがするのに、それでいて離れている。ただ、あやふやで曖昧になっただけなの。

けどね、これは当たり前なの。当然なの、だって誰も他の人にはなれないから。誰も完全にその人にはなれないから。

私は、わかってた。ほんとはわかってた。でも、それをわかっていたのに、君をずっと、それでも姉と似たところがあって、あの時の姉のことがわかるんじゃないかと思いました。それで、ずっと君のことを呼んで、他愛のない話をして。無駄な徒労を繰り返して。それで、君の大事な青春をひたすらに浪費して、私を気づかわせて、惑わせて、勝手に、ほんとに色々と勝手に君のことを踏み倒して。

私はただ、利用していただけだった。そこにはギブアンドテイクはなかった。君は損ばかりしていた。

でも、君は文句を何一つ言わないからさ。誠実な人間を演じるからさ。だからね、私はいつのまにか君の隠している素性を暴きたくなって。目的が変わって。君といるのが楽しくなって。次第に、姉のことを忘れて。君のことだけを考えていて。そこにはもう姉の面影はなくて。私の目に映るのは灰ヶ崎君、君だけでした。姉でも他でもない、君でした。

だから、最後に謝りたいのはね。私のエゴにずっと付き合ってくれてありがとうってこと。って、あれ、これだと謝ってないよね……」

暁は最後の言葉を告げると、嗚咽をしながら、自分の服の袖でこぼれ始めた涙を拭い始めた。もう、そこにはいつも大人特有の余裕さを保っていた彼女はいなくて、ただただ泣きじゃくる単純で、純粋で、粋な少女しかいなかった。

 僕は立ち上がり、さっき彼女が僕にしてくれたことと同じ様に、今度は自分の手を彼女の頭に乗せた。すると、彼女は僕に抱擁をし、僕の胸の中で泣いた。僕は余った手で、彼女の背を巻くようにして抱きしめた。どうしてこんなことをしたのかはわからない。でも、温もりが欲しかったのは僕自身もそうだったからだ。

 僕は彼女に聞こえる程度の声で「感謝をしたいのは僕の方だよ。ありがとう」と言った。この言葉が彼女の耳に届いてたのかはわからない。でも、届いていても届いていなくてもどうでもいい気がした。

 あれほど雑木林の中ではうるさかった鳥の声も、蝉の声も聞こえない。この空には飛行機もヘリも通らない。今、響くのは、ただ少女の慟哭だった。そして、鼻をつくのは甘い香水の匂いと消毒液の匂いだった。


 大木に向かって、手を合わせ終えると、暁は僕に聞いた。

「人生って、全然ドラマチックじゃないよね」

 僕は答える。

「そうだね。人生は合理主義と言うか、単純と言うか、すごく淡々としている」

「なんか、求めている答えじゃないなぁ」

 暁は微笑む。

 僕はその顔を見て、暁に聞いた。

「ねぇ、暁は僕のことが好き?」

 暁は舌を出した後に、微笑みながらこう言った。

「もちろん、大嫌い!」

 その言葉を聞いて、なんとなくか、生きよう、そう強く思った。


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