第18話 交錯する夏の線 9
今日ほどに重力を恨んだ日はない。と言っても、あくまで僕が恨んでいるのは重力そのものではなく、どちらかと言えば、重力加速度の値に対してだ。せめて、今日は月ぐらいの重力加速度であればいいのに。
そんな方向性のない愚痴を吐きながら、僕は重荷を前押しにするように進む。どこかからは、そんな非力な僕に対して、嘲るように鳥の声や蝉の声が聞こえる。さらには、飛行機のジェット音までもが僕を笑っているような気がして、やっぱり自分は暑さに弱いと改めて実感した。
そういえば、暁は暑くはないんだろうか。さっきから、暁は何も話さない。さすがに、この道が木蔭であろうとも、外に慣れているはずの僕ですらも暑くて倒れそうなのに。
ただ、今は暁の顔色を窺えない。と言うのもここから彼女の顔色を覗くために、片手でも手を離せば、きっとそのまま車椅子はバランスを崩して転倒するか、そのまま勢いを乗って下降していくからだ。では、ストッパーはと思ったが、どうもこの車椅子にはそれがついていない。今は車輪つきのストッカーですらも、ストッパーはついているのに、とんだ配慮のない車椅子だと思う。年式が古いのだろうか。そういうわけだから、さすがに暁が何も話さないことが気になったので、僕は頭を下げながら大丈夫? とでも声を掛けようとした。が、ちょうど僕が声を発しようと思った矢先に、暁が先に声を出した。
「ねぇ、灰ヶ崎君」
僕は暁の声を出すタイミングに少し動揺し、呼応するまでにほんの少し時間がかかった。
「どうしたの?」
「今日ね。君に、謝らないといけないことが三つあるの」
「三つもあるの?」
思わず僕は聞いた。
「うん、三つもあるの」
暁の声は笑っているのかそうでないのかがわからない。ただ、いつもの声のトーンでないところを見る限り、少なからず笑ってはいないのだろう。
「まず一つはね、今こうして車椅子を押してくれていることに対してだね。ほんとね、君はどうしていつも否定をしないの。こんな暑いのに、車椅子を押すなんて酷たることでしかないでしょ?」
暁はどこか僕を揶揄するような、それでいて呆れたような口調でそう言った。
「そうだね、確かに極暑の中で、しかも急な坂道に車椅子を押すなんて、少し前の自分じゃ想定もできやしない出来事だよ。なにせ、僕は極度なめんどくさがりな上に、完全なインドア派だからね。そもそも、夏休みに家に出るなんて、普通は考えられないぐらいだ。けど、それでもなお、否定しない理由は簡単だよ。否定する理由がないからだ」
僕は暁の言葉に対して、どうしてか無性に腹が立ってしまい、すぐさまに彼女の言葉を合わせ重ねて否定するように声を出した。おそらく、僕がこういった感情的になったのは最初に暁と会ったとき以来だと思う。ただ、今と以前は自身の持つ感情は大いに違う。あの頃の僕はもう今の僕ではない。
「じゃあ、私と死んでって言ったら君は死んでくれるの?」
「もちろん、いいよ。それも否定する理由はないからね。君が要望すれば、首つりだって、一酸化炭素中毒死だってやるよ。ただ、飛び降りと投身自殺は人様に迷惑がかかるから、遠慮させてもらうかもしれないけど」
自分でも驚くくらいに、僕は悠々と話した。ただ、悠々と話した割には僕の心はどこか痛む。おそらく、それは言葉の不慣れから来ているのだろう。だからか、その不慣れに僕はそわそわしてしまい、つい視線を逃げるように、ガードレール越しの舗装路に目を向ける。すると、そこにはちょうど後方から、上り詰めてきた逆転ランナーのように、窓にひびが写る軽トラックが今にも止まりそうなエンジンを唸らせながら、アクセルをふかしさらに上っていった。今、軌跡に残るのはディーゼルが出した真っ黒なスモークだけだ。
僕は少しばかり咳き込みをしながら、また前を見る。そこには暁の長く綺麗な黒髪が葉の間から出た光を浴びて、南島の海のように輝いては一つさらりと流れている。
僕はその後ろ姿を見て、改めて、この世界は理不尽だと思った。
「灰ヶ崎君」
「どうしたの?」
今度は遅れなかった。
「とにかく、ごめんね」
「いいよ、全然。後、僕も言い方が悪かったことに対してはごめん。実はかっこつけたかったんだ」
「ふふふ、そうだよね、灰ヶ崎君も女の子にかっこつけたい年頃だもんねぇ」
前方からは暁の上品な笑い声が聞こえる。
僕はその声を聞いては「その通りだよ」と答え、その後に、彼女のためならなんでもしてやりたいと思った。彼女に代わってやれるならどれだけ良いだろうと思った。
けど、仮に暁と代わってやれたとしても、暁は今のように笑いながら「そんな同情はいらないよ」と言って話を流すんだろうと思う。きっと、何事もなかったかのように振る舞い続けるんだと思う。
だから、僕はそんなそもそもの理想論が端から無駄であることに気づき、「それよりも暑くない? 大丈夫?」と聞いた。
暁は首を振り、髪を揺らしながら「暑くないよ、大丈夫」と答えた。
僕はそれを確認すると、前方の果てない坂を眺め、まだ続くんだろうかと考えながら、力一杯車椅子を押して進んでいった。
何が書いてあるか一切読めない錆びたブリキの看板が目に入った頃合いに、坂道の傾斜角度は緩やかなものになった。おかげで、自分自身の従来の力を戻したかのように、すいすいと車椅子は進んでいく。
「もう着くのかな?」
僕は見慣れないあたりの木々を眺めながら、確認のために聞いてみた。
「うん、もうすぐだよ」
「そっか」
僕がその言葉を聞いて、ふと安心していると暁は重々しい口を開ける様に、声を出した。
「ねぇ、灰ヶ崎君」
「ん?」
「二つ目のごめんはね、君を呼び出しことに対してなの」
重量のあるトーンが耳に届く。
僕はその言葉を聞くと、色原のことを思い出し、本当に彼女に申し訳ないことをしてしまったと思った。けど、それを暁に悟られないように、その感情を押し殺して、平然を取り繕う。そして、しまいには、色原のような素晴らしい人間が僕のような下等な人間と仲を紡ごうとすること事態が間違っているのだと自らに言い聞かせ、自身の一連の行動を正当化した。そう、色原は少なからず、もっと素晴らしい人間性を持つ人と付き合うべきなのだ。僕なんかに似合ない。
僕はとにかく自分にそう言い聞かせ自信の愚弄さを取り戻すと、暁に対して「暇だったから全然構わないよ」と言い、その後に病院に着くまでの時間が普段と違ったことに対しては「母から買い物を頼まれていたから、それを先に済ましたせいで遅れたんだ」と告げた。
けど、暁にとってはそれが見え透いた嘘だとわかっていたのか、僕の言葉にしばらくは反応しなかった。そのことに僕は母親に初めてうそをついた子供のように、どこか罪悪感と焦燥感を覚え、居ても立っても居られない状態に陥ってしまう。そんな心情の中で、どうしても好きになれなかった鳥の声も、蝉の声も、今だけはそれが逃げ場のために措置されたスポットのように感じて、安心感を覚えた。そして、理不尽な暑さもまた、救いになった。
ただ、やがて蝉の声も、鳥の声も、聞えなくなり、山の隙間から清涼な風が吹き始め、とうに自分の逃げ場がなくなってしまうと、暁はそれを見計らったかのように。
「とにかく、ほんとにごめんね。私のせいで」
と言った。
僕は無性に泣きたくなった。
泣けば、すぐに夢から醒めるのではないかと思った。
でも、それはただの逃げに過ぎない。どうせ、ここで逃げても、また波がやってくるのだ。そして、今度こそは僕を呑み込んでいくだろう。
だから、僕は泣かなかった。
泣く代わりに、「暁は何一つ悪くないよ。それにそもそも君が謝る必要なんてない」と言い、徐々に雲が覆い始めてきた空を見た。木々の隙間に見える東の空には大きな積乱雲が一つ、浮遊している。
「灰ヶ崎君は、さ……。灰ヶ崎君は、不器用だね」
その声はからかうような声ではなく、ひどく淡々としていた。
「……そうだね。僕は不器用だ。さらには鈍感だからさ、いつも大事なものをなくしてから、後悔するんだ。あぁ、僕はなんてことをしたんだろうって。でもね、鈍感だから、すぐに忘れようとする。そして、学習せずに、反省を活かさない。最低な人間だよ、僕は。でも、そうじゃないと僕は破裂してしまいそうになるんだ。膨張し続ける風船みたいに、指先の爪に触れるだけで割れてしまいそうになるんだ」
砕けそうな思いで僕はそう言った。
「でもね」
僕は言う。
「でも?」
暁は反応する。
「君と会ってから、僕は自分と少しだけ向き合ってみた。ほんの少しだけだけど、それでも僕は向き合ったんだ。これは他の人からすれば大したことないかもしれないけど、僕にしてはとてつもなく大きな一歩だったんだ。もちろん、君が言うように僕は不器用だし、愚弄だし、下等だし、最低だし、くそ野郎だし、鈍感だし、不愛想だし、非情だし、超インドア派だし、とにかくどんなくそのような形容詞をのせても表現しきれないくらいにどうしようもないやつだ。でも、そんなくそ野郎な僕がほんの少しだけ向き合えたんだ。もちろん、それはドラマのような、フィクションのような向き合いじゃない。夢に出たわけでもないし、その過去を良く知る人に会ったわけでもない。ほんの些細な日常の瞬間を連想して、気づかないくらいに向き合う程度だ。人からすれば、それは向き合ってもないし、なんなら目をそらしてるに妥当してると言われるぐらいかもしれない。でも、それでも、僕にとっては向き合えたんだ。消すことすらも難しいはずの記憶を一部、消せてしまったあの自分が向き合えたんだ。これって、僕にとってはとんでもないことなんだ。隕石がちょうど僕の頭上に寸法狂うことなく振ってくるぐらい、すごいことなんだ。買った一枚のくじで、大富豪になるぐらいすごいことなんだ。だからさ……」
「だから?」
「……なんて言おうとしたんだろう」
徐々に悲しくなってきて、本当に何を言おうとしたか忘れてしまった。
そのせいで、独特な沈黙が蔓延し、それを笑うように、鳥たちはまた合唱を始めた。
「ははは、なにそれ」
暁からは乾いた笑い声が聞こえる。
「ちょっと、笑いどころじゃないよ。真面目なことを言おうとしてたんだから」
僕は真面目な顔をしながらそう注意しようとすると、暁は鋭い棘のある声でいきなり。
「仮にそうだとしても、しゃべりすぎだよ。なに灰ヶ崎君は歌手にでもなりたいの? 詩人にでもなりたいの? 臭いセリフも多すぎるし、長々しいし、くっそうざい構ってちゃんレベルに自虐もするし、なに傷つきやすい乙女なの? 後、最後の比喩は何なの? 何が、隕石が寸法狂うことなく振ってくることぐらいなの? 何が、一枚の宝くじで大富豪になるぐらいなの? なに、カッコつけたいの? 後さ、前から思ってたんだけど、古い音楽を聴くことがなんかカッコいいと思ってるの? 誰かに憧れてるの? まぁ、それは百歩譲って、いまさら言うけどさ、なんでギターで弾ける曲が三曲だけなの? こだわりがあるか知らないけど、三曲弾けるなら、普通に他の曲も弾けるでしょ? なんか、あの三曲を自分の持ち曲みたいにしてたけど、灰ヶ崎君は歌わないほうがいいレベルだよ。ジャイアンよりもひどいよ? あんなの普通に女の子の前で演奏したら、灰ヶ崎君のギターを取り上げて、それで思いっきり頭を叩かれてもおかしくないよ。それで傷害罪で訴えても、余裕で灰ヶ崎君が敗訴するレベルだよ? あとね、あとね、灰ヶ崎君って、ほんとに暗すぎない? 闇の住民なの? 光を浴びたことないの? ビタミンD、体の中にあるの? 私は、まぁ、中学生ぐらいまでは普通に過ごしてきたけど、灰ヶ崎君レベルの暗い人は見たことがないよ。ほんとに、絵に書いた陰キャよりも、陰キャだよ? 他にも、灰ヶ崎君って考えすぎじゃない? 哲学者になりたいの? だとしたら、灰ヶ崎君は不向きだからやめほうがいいよ。絶対に大成しないから。どうせ、三流どころが、一般人にちょっとだけ箔ついたレベルで留まるから。でね、次はね……」
と、長々しく話した。
「あ、あの、暁?」
僕は暁の言葉を制止しようと、ほぼほぼ涙目と赤面で出したことのない声を出す。
だが、暁はそれに応じる気もないのか。立て続けに。
「灰ヶ崎君にはいっつも、いっつも、見舞いに来てくれるたびに、言ってるけどさ。一体、いつになったらフェアに接してくれんの! 私、何十回も言ってるよね! ひどい時なんか、君にお願いして、『わかった』ってしみじみな顔で言った五分後にはもうフェアに接していないし、なに早期的な認知症なの? 学習能力がないの? おつむがおかしいの? フェアの意味を知らないの? 一週間ならず、一瞬間フレンズなの? 仮にそうだとしても、君はヒロインじゃないんだよ? そこらへんのエキストラだよ? なんなら、無機物のオブジェクトだよ? 存在価値あんまりないんだよ? 後さ、君に会ってから、結構私の性格も暗くなったんだけど、どうしてくれんの? 私、なんか、君に会うたびにこういうキャラでいんないと行けない気がして、ずっと合わしてたんだよ? いや、最初の方はさ、私もちょっとドラマ見すぎてて、変に演技してたところもあってたけどさ、まさか君が演技派みたいな話し方するからさ、『えぇー、こんなキャラの人って、この世にいんの?』って、超びっくりしたんだよ。でも、まぁ、最初はしょうがない、私の病気も重いし、寿命もそれほど長くないから、そのことでさすがにしんみりはするだろうと思う。
だから、こういう話し方は最初の方はしょうがないなーって思ったわけ。けどさ、けどだよ、さっきから話してるけど、日を重ねても変わらない様子を見る限り、私は『それが素の話し方なの⁉』って、驚いたわけ。『これが素の性格なの⁉』って、驚いたわけ。それでも、そのことを指摘するのは可哀そうだし、さすがにそこまでは私には権限がないって思って、結構私も君に合わしてたけど、もう我慢の限界。君はさっき自分でも言ってたけど、ほんとに気がなさすぎる、くそすぎる、暗すぎる。最低の3K揃いだよ。ほんっと、乙女の短い寿命、返してもらえる?」
暁は完全にそう言い切ると、息をぜぇぜぇと切らし、呼吸を整え始めた。
そして、僕は何をしていたかと言えば、まぁ、放心していた。あまりの罵詈雑言の浴びたせいで、キャパシティオーバーしたのだ。
こ、これ、泣いていいんかな? 少しずつ、気を取り直すと、そんな気持ちがぽつぽつと湧いて出てきた。
「で?」
暁はようやく息を整えることができたのか、また棘のある声でそう言った。
「えっと、で? というのは……」
「さっきのこと。これで、何を言い忘れてたか思い出したでしょ?」
さっきのことと言うのは、僕が結論付けようとしてた、『だからさ……』の言葉の続きだろう。暁は、今、その言葉の先を求めているのだ。
それで、改めて、僕は彼女に何を言おうとしたのか。きっと、それは感謝だとか勇気づけてもらったとか、そんな言葉の群だろう。けど、彼女は今、きっとそんな言葉だけを欲してはいないのだ。そんな、安い言葉などを求めていないのだ。
では、彼女はどのような言葉を欲しているのか。
これは考えるまでもない。さすがに、気がなくて、くそのようで、暗い性格の僕でもわかる。
僕は無性に、縛っていた感情を解放すようにして、口を開く。その瞬間は自信を支配した群青が晴れ晴れにコバルトブルーになったように、澄んだ気持ちになった。
「だからさ……。だからさ、君はデリカシーがなさすぎるんだよ! 君は夏休みが終わるまでに死ぬんだろ! なんで、そんな平然を保って、普通の日常を過ごせる? おつむがおかしいのは君の方だろ! それに、家族の話を聞いていて思ったんだけど、どうしてそんなぐちゃぐちゃな環境の中を笑い話にできるんだ! 君には良心がないのか!
あとね、君は自分の素性を隠して、演技をしていたみたいだけど、そんなこととうに僕は知っていたからな! だから、余計に可哀そうになって、僕が同情してやったんだ。後ね、これも黙ってたけど、君は自然に僕をディスりすぎだ! 僕は精神がもろいんだ、だからもっとオブラートに言えよ! 僕は何気ない顔してたけど、ほんとはめちゃくちゃ裏では傷ついてたんだからな!
けど、これは君の事情があるから、ずっと我慢してきたんだ! もし、君が単なるクラスメートだったら、僕は君がいくら可憐で、清楚で、おしとやかな女子で通っていても、グーでパンチをしていたからな! 椅子を君にぶん投げていた! いいか、僕はドラマの主役のような人間性はない!
君が言うように、屑だし、くそだし、気遣いもない。けど、それを露出したら、嫌われるのはわかっていたから、必死に蓋をかぶせて隠してたんだ! いいか、隠してたんだ。もちろん、それは蓋の隙間という隙間から漏れ出ていただろうと思う。
けど、それでも隠して、平然と普通を装ってきたんだ! ほんとは僕だって、自分を曝け出したいよ。
でも、今更はそんな気にならないんだ。だって、そのキャラで生きてきたからね。
けどね、こんなくそのような性格でも、僕は一人の知人ができたんだ。ほんとに優しくて、明るくて、男子の誰もが持つ理想的な子と知り合いになれたんだ。ほんとにその子といるのは楽しくて仕方がない。ほんとに僕なんかと知り合いになってもいいのかって、問い詰めたいぐらいにその子といるのが楽しいんだ。本当に時間も何もかも忘れるぐらいに楽しいんだ。
でも、君がそれをぶっ壊した。もう一度、言うけど、君がそれをぶっ壊したんだ! 夏休み前に君が大した理由もないくせに僕を呼んだからだ! おかげさまで、思い返したくないことも思い出して、また、ただでさえ、暗い性格の僕にさらに黒を付け足したぐらいに暗くなって、ただでさえ、くそ野郎な僕が、さらにくそ野郎になって。それから徐々に立ち向かはないといけないっていう気持ちになって、君に少しずつ勇気づけられて、それでもどこか変な矛盾点に気づいたり、隔たりが出てきたり、わからないことも出てきて、正しいこともわからなくなって、吐き出し方も忘れて、おかげさまで僕の体内は常にパニックが起きているよ!
しかも、僕は何度も言うように、不器用だからさ、上手く折り合いができないんだ!
だから、君の世界と僕の本来の世界の境目がぐちゃぐちゃなんだ! どっちを僕は生きるべきかもわからないんだ! 僕は優柔不断だから選べないんだ! とにかく、とにかく、君のせいで、僕の世界観は大きく変わってしまったんだ!
君は乙女の寿命を返せって言ったけど、なら僕の大事な青春と価値観と世界観と感情と平安を返せ! ついさっき一時間前くらいに君が呼び出したせいで、店に置き去りにしてしまった惨めで、悲壮で、泣きたいぐらいに可哀そうなあの子の心情をどうにかしろ! 自分のもどかしい感情をどうにかしろ! 自分のくそのみたいな性格をどうにかしろ! どっちを選べないこの優柔不断な僕をどうにかしろ! 何も残さず死んでいった妹をどうにかしろ! 世界の理不尽をどうにかしろ! この蝉の声を、この暑さを、この夏をどうにかしろ! どうしようもなく君のことをほっとけない気持ちになる僕をどうにかしろ! 君のことを何やっても可哀そうだと思う僕をどうにかしろ! 君が死ななくてはいけない理由を説明しろ! 僕なんかじゃなくて、君が先に死ななくてはならない理由を説明しろ!」
僕は今まで、ずっと溜めていた感情を吐き出すように、すべての老廃物を流しだすように、膝を屈して、泣きながらそう言った。どうしようもないくらいに零れ落ちる涙は、アスファルトに降って、そのまま重力に従って、流れていく。
支えている車いすの重量は軽くなる。
でも、どうしてか軽くなったのか、僕は考えなかった。考えることができなかった。
頭上に誰かの手のひらの温もりを感じる。
でも、どうして温もりを感じたのか、僕は考えなかった。考えることが出来なかった。
理由なんてない。それでいいと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます