第9話 重ね合わせ 2
黒と夏の相性は悪い。
いや、黒と夏というよりかは、黒と真夏の暑い日差しは相性が悪いと言うべくか。まぁ、どうでもいい。とにかく、僕はそんな相性の良くない組み合わせを背負いながら、いつものように、病室へと向かっている。
汗をかきながら、通学路を歩く度に、夏休み前の小学生の頃を思い出す。
コツコツと道具箱の中身を持って帰れば良いのに、面倒くさいが勝って、最終的にとてつもなく重く、行動が不自由になるあの日を。僕はいつも肩が壊れるのではないかと思いながら、重量に負け、下の熱されたアスファルトを見つめていた。けど、そこには数々の出会いがあった。アブラゼミの亡骸、干からびたミミズ、時々、5円玉に見せかけた銅色のナット。
けど、いつしか、荷物をそれほど持たなくなってから、下を見ることはなくなった。かといって、上を見ているわけではない。ただ、まっすぐ見ては、誰かを気遣うように歩いていた。
なのに、今年の夏はやけに下を見ながら歩く日が多い。まるで熱気の一つ、一つがかなりの重力を持つように、僕は真っ黒な髪のつむじから一点に、下へとベクトルを与えられている。
しばらくぶりの下の世界はあの日と違い、何もない。ただ、税金で綺麗に舗装されたアスファルトが続くだけ。坂道も、ビー玉やダンゴムシは転がっていない。ただ、熱気を孕んでいるだけ。
ふと耳を澄ませば、どこかの遊び場からは少年少女の元気溌剌な声が聞こえる。さらに、耳を澄ませば、ブランコの金属部分が軋む音や、砂の城が崩れる音までもが聞こえる気がした。
やがて、自動ドアの隙間から冷風が入り込むと、僕は顔を上げ、いつもの角度でその光景を眺める。
そこには相変わらずに、喫煙室でたばこを吸う老父や、スマホを見て時間を潰す学生、こくりと頭を揺らし眠っている子供がいる。
僕はいつもの流れで、無愛想で眉の太い看護師に見舞い許可をもらい、北棟へと向かった。
北棟までの道中、僕は連絡廊下の窓から院内の遊び場へと目を向ける。そこには、誰もいない。保護者も、その子供もいない。ただ、寂しげにブランコが風に揺られているだけ。
そのせいか、今日は余裕を持って、自動ドアの存在に気づけた。
日差しと蛍光灯にあたった203号室の前で、僕は立ち止まる。
いつものように行けば良いのでだろうけど、どうしてか今日はそのような気分にはなれない。無論、僕は寝不足だとか、不機嫌だとかそういうわけではない。ただ、何かによって、気分を落としているのは間違いない。
僕は初めの時と同じように、一呼吸置いて、扉をスライドした。扉は当然、軽々しく、音を立てないで開く。
「うっす」
僕は一挨拶を口にし、真っ白のベッドの方へと目を向ける。
そこにはいつものように暁がこちらを見て、それから微笑みながら。と思っていたのだが、どうもそうではなく、大層に僕は驚いた。
それはそうだ。なにせ、いつも横たわっている暁がそこにはおらず、誰かが代わって、そのベッドに座り込んでいたからだ。
ベッドの軋む音と同時に、誰かが僕の方へと目を向ける。
その姿は暁とは全く似ておらず、髪は根本まで金色に染まっており、大きく開かれた目の色は茶に近い。そして、鼻は高く、唇は薄い。また、線が細く、きっちりジーパンとシャツを着こなしており、女性誌のトップでも飾っていそうだ。
おそらく、大学生で、ハーフかクォーターだろうか。大人びている。
まぁ、そんなことはどうでもいい。
とりあえず、目があったからには何か声を掛けなければならない。
で、どんな風に声を掛けるべきか。
あはは、暑くて参りますね。
いひひ、暑い、暑い。
うふふ、暑苦しゅうございますね。
えへへ、暑いね。
おほほ、暑いことでして。
さて、どれがいいか。……いや、どうも僕は体内に蓄積した暑さのせいで、前頭葉あたりがとろけてしまっているようだ。そのせいで、立派な思考ができない。もう少し涼しくなくならなくては頭の脳みそも煮こごりのように固まってはくれないのだ。
そんなことで、頭を蒸発させながら、無駄な取捨選択をしていると、金髪の美女は大人びた微笑みを見せて、近くの椅子をたぐり寄せ、その上をポンポンと叩いた。デジャブな光景だ。
僕は小さく頷いては、緊張しながら、いつものように安い移動式の椅子に座り込んだ。こんな時に限って、椅子のネジの緩さに気がついたりするのだ。
僕はおぼつかない態度で、どぎまぎと背負った大きな荷物を床に下ろしていると、金髪さんは僕の靴先から額までじっくりと眺めた。というのは、緊張による過度な自意識によるもので、ほんとは普通に僕のことを見ただけだと思う。
とにかく、金髪さんが僕のことを見終えると、また不敵に微笑んで、次は口を開いた。
「君が、灰ヶ崎君?」
とりあえず、僕は灰ヶ崎なので、そうですと言って頷いておく。どうも、これまでの所作を振り返ったところ、僕は年上の人間が苦手なのかもしれない。この人が年上なのかは知らないが。
僕の返答を聞くと、金髪さんは表情を変えないで。
「そっか。ちょっと妬いちゃうな」
やいちゃうな。
(じゃあ、今からお前を)焼いちゃうってことだろうか。
だとしたら、恐ろしい。けど、残念なことに、僕は燃えないゴミ(志望)なので、焼くことはできない。よって、せいぜいされるのは金属板に圧力を掛けられ、極小になるまで、プレスされるぐらいだ。いや、そっちの方が嫌だ。やっぱり、僕は焼かれる方が良い。
とりあえず、どちらにせよ、金髪さんの言葉に対しては謝っておく必要がありそうだったので、僕は会社の不祥事を謝罪する社長のように深々頭を下げ、『すいません』と言った。
ありがたいことに、僕はこの手の謝罪は慣れている。なんなら、そこらのメディアから、彼ほど、謝罪に対しての誠意を持つ人間はいないと新聞の見出しにされてもおかしくないほどだ。無論、こんなことを考えてる時点で誠意など微塵にも掛け持ってはいないのだが。
僕はしばらく頭を下げた後、ちらりと金髪さんの様子を伺った。
そこには変わらずに大人びた微笑が一つ。
「んー、どうしようかな」
なんと。僕の謝罪はどうも印象が良くなかったのか。
とにかく、許すか処すかの選択に至っているようなので、これ以上は謝罪の必要はない。無駄な謝罪はかえって、悪い印象を与えるのだ。
そういうわけなので、僕は顔を上げようとした。が、いや待って欲しい。それ以前に、なぜ僕は初対面の彼女にいきなり頭を下げて、謝ったのだろうか。僕はこの頃に悪いことをした覚えはない。せいぜい、悪いことをしたと言えば、母と父が不在の時に、リビングでガンガンにクーラーをつけ、さらに扇風機の強を加えて、アイスを囓り、肌寒いという理由で窓を開けたということぐらいだ。こんなもの愛でたいほどにかわいい悪である。あまりにもかわいすぎて、お小遣いをもっと増やしてくれてもいいぐらいだ。
僕がしばらく顔を上げるか、上げないかの境界で変に思考を張り巡らせると、誰かの笑い声が聞こえた。当然、この病室には僕と金髪さんしかいないはずなので、向かいに座る彼女の声なのだろう。
「冗談だよ、灰ヶ崎君。君が謝る必要性は一つもないから、顔を上げなよ」
「はぁ」
とのことなので、僕は大して状況を理解できないままに顔を上げた。
「ねぇ、君のことを灰ヶ崎君って呼ぶとさ、暁とダブっちゃうから、灰君って呼んで良いかな?」
灰君。もはや、僕の名字の体を成していないように感じるが、そういえば色原も僕のことを君付けではないが、灰ちゃんって呼んでいたな。
まぁ、慣れていないわけでもないし、最初から別に呼び名などなんでもいいので、僕は頷く。
「そっか、じゃあ灰君ね。灰君」
その後も、何度か金髪さんは灰君という言葉を口にしては、どこか楽しそうに微笑んだ。その姿は記憶の中で、何度も見ているような気がした。
「あの。あなたは暁と知り合いなんですよね?」
答えを知っていながら僕は聞いてみる。
当然、金髪さんは何度も首肯した。
「うん、そうだね」
「暁とは仲はいいんですか?」
沈黙を妨げるためか、好奇心によるものなのかは自分でもわからないが、僕は口を止めず開く。
「仲は良いね。互いに理解者だと思っているよ」
金髪さんはその返答を告げた後、僕の目をじっと見つめた。その目の先にあるレンズには僕に対して何かのメッセージでも込めているように感じ取られた。無論、それはいつものような年上に対する過剰な反応かもしれないが。
「そうですか」
僕は金髪さんからの視線を逸らし、また同じ言葉を返しては、子供よりもひどい相槌をする。
そして、その後に、「それはいいですね」と言おうとした。けど、無意識に喉のどこにその言葉は引っかかり、声には出せなかった。
けど、僕はすぐに他の言葉を探しては単語を紡いでいく。
「暁は夏休み、おそらく高校生にとっての夏休みだと思うのですが、それが終わるまで死んでしまうと言っていたのですが、どう思いますか?」
なんて質問をしているのだろうか。僕は新米のニュースキャスターにでもなってしまったのだろうか。それに暁との約束があったというのに。
僕はすぐに自身の発言の過ちを訂正しようとしたが、金髪さんにはそれほど深刻に受け止められていなかったのか、平然と涼しい顔をしている。
そのせいで、僕は少し固まってしまい、自分が口を開く前に、金髪さんが口を開くのを看過してしまった。
「そりゃあ、悲しいよ。死ぬほど悲しい。でも、私はどうするか決めてあるから。あの子がいなくなっても、耐えられるかな」
やはり、返ってくるのは死が前提された答え。
そうですか。
また、単調で味気のない返事をしてしまう。
今の今まで、暁とこの病室にいても、外の音は何一つ聞こえなかったのに、今は車のエンジン音や鳥の鳴き声、廊下に響くハイヒールの音。そんな細かな外の音が聞こえる。
やっぱり、今日はどこか、暑さでおかしいのかもしれない。
しばらく、互いに何も話さない空間が続くと、病室のどこかから学校のチャイムによく似た周期的な音が流れた。
その音と同時に、金髪さんは「よいしょ」と言うかけ声で立ち上がった。
そして、僕の顔を見て、微笑み。
「灰君、良いことを教えておいてあげる。人間はね、誰しもがエゴイストなんだよ」
金髪さんは僕にそう告げ終えると、小さな足をたてながら病室のドアへと向かった。
僕は何度か金髪さんの言葉を脳内で反芻し、その後に、立ち去ろうとするその後ろ姿を見ては一つ声を掛けた。
「すいません。今更で悪いんですが、暁はどちらに?」
ようやくにして、ここで僕は金髪さんにまともな質問をすることが出来た。
金髪さんは振り返る。その表情はとても柔らかい。
「暁は検査に行ってるよ。もうすぐ、帰ってくると思う」
僕は今度こそ、「そうですか」とは答えなかった。
ドアの静かな閉開音が小さな部屋に響く。そして、ぽつんと残された僕と病室。
僕は持ってきた大きな黒いバッグを開け、中を取り出し手に取り、少し指を動かしながら、その白い無機質な扉が開かれるのを待った。
指の先が徐々に暖まってきた頃合いに、暁は病室に戻ってきた。いつもの白い院内服に、艶やかな長い黒髪で。
「おやー、私の病室になんかパリピな人がいるな~」
暁は僕を見て、からかうように微笑む。その見慣れた笑顔を僕は確認すると、どこか凝り固まった緊張感がほぐれたような気がした。「どうも。原宿辺りから、君の心を揺らすために来た似非パリピだよ」
下らない自己紹介を兼ねて、僕が軽くお辞儀をすると、そのおかしさに耐えきれなかったのか、暁は「ははは、なにそれ」と腹を抱えて笑いながら、ベッドへと腰を掛けた。
「ねぇ、灰ヶ崎君。原宿の人ってパリピなの?」
まだ、微笑みを顔に浮かべながら、浮いた足をぶらぶらさせ、暁は首を傾げる。
「多分そうなんじゃないかな。知らないけど」
「ははは、なにそれ。偏見ってやつだ」
「そうだね、偏見ってやつだ」
慣れたやりとり。いつもと似たやりとり。
そして、彼女の明るく、眩しい笑顔。
そんな光景を深く考えて、深く見つめる度に、僕は焦燥感を覚えてしまう。なのに、彼女を見る度に安堵をして、何かを錯覚して、結局、先を見ることを忘れてしまう。
おかしな話だ。
頭ではしっかりわかっているのに。
まるで、ストレスを忘却するために吸う煙草みたいだと思う。どこか寂しくて、わかってるのに、それでも意識をしながら、手を出してしまうような。
「ねぇ、灰ヶ崎君」
いつもの声が聞こえる。
「どうかした?」
僕はまた深く意識してしまっていたことを自覚しながら、暁に呼応する。
「わざわざ、そんな大きな荷物を持ってきてくれたんだからさ。弾いてくれるんだよね?」
暁は両眉を上げながら、僕が手に持っている物に対して指を差す。
「まぁ、せっかく持ってきたからね」
「へぇへぇ、かっこつけたい年頃だもんね。せっかくだから、聞いてあげるよ」
「なんか上から目線だなぁ。君が聞きたいって言うから持ってきたんだけど」
「そうだったかなー? この頃、勉強してないから、記憶力悪いんだ~、私」
「一昨日の話だったと思うんだけど」
「昨日の夜ご飯すらも覚えていないから、仕方ない!」
「仕方ないのかなぁ」
まぁ、いいか。
そういうことなので、僕は足を組み、ギターを自分の足台に乗せる。
あぁ、そういえば今更だけど、言い忘れていた。僕が持ってきたのはギターだ。種類はアコースティックで、色は焦げ茶色。メーカは知らない。多分、マイナーなところではないだろうと思う。
僕は音が合っているかどうかの確認のために、軽く一弦から六弦まで鳴らした。
その音の響きと共に、暁は珍しい物をみるかのように「おぉー」と感嘆を漏らし、手を叩いた。
六弦から出た音の余韻がまだ病室の片隅に貯まっているかのように、小さくうなりを残している。
そんな音に耳を澄ませていると、僕は重大な事を一つ忘れていたことに気がついた。
何をか?
「そういえばさ。病室でギター弾くとか、御法度じゃない?」
冷静になって考えてみれば、一体この世の誰が病室でギターを鳴らすと言うのだろうか。誰でもわかるように、静の象徴である病院に、騒は全くもって、相性が悪いのだ。
しかし、暁はそんな憂慮は不要だと言うべくに、ふふんと笑みながら声に出して。
「大丈夫だよ、灰ヶ崎君。君は一体、この病室に何度来てるのかな?」
「な、なに、いきなり」
突如な質問形式に僕は戸惑いを見せてしまう。
「ほらっ、思い出して、灰ヶ崎君。ここの病室の配置を」
「えぇ、病室の配置か……」
そう言われたので、自慢できない記憶力をあてに回想してみる。が、思った以上に、時間を掛けずにして思い出すことができた。
「あー、もしかして、ここの病室だけ他の部屋から隔てられているから?」
「ピンポン!」
今までにない拍手が送られた。
「けど、シャワールーム横の部屋に聞こえない?」
「大丈夫、大丈夫! あの部屋は今は誰もいないから!」
まぁ、それなら、アンプを使うわけじゃないから、この部屋でギターをかき鳴らしても大丈夫だろうか。
「わかった。じゃあ、弾かせてもらおうかな」
「うん。お願い、お願い」
暁は身を乗り出すように、僕の方へと体を向ける。
僕はその姿勢を確認すると、いくつか忠告することを忘れていたことに気がついた。
「ちなみにだけどさ。前にも言ったように、僕は弾ける曲が三曲だけしかないから、リクエストとかは聞けないよ」
「うん、わかってるよ」
「結構、君にとってはマイナーだと思うよ」
「大丈夫だよ」
それでも、構わないと言うように、暁はじっとギターの方へと目を向け、顔に微笑みを広げた。
じゃあ、早速。
なにから、弾こうかな。
ということで、最初の曲は比較的に、僕にとっては弾きやすい、サイモン&ガーファンクルの『水曜の朝、午前3時』を弾くことにした。
僕は一呼吸置いて、ピックを手に持つ。そして、頭を空っぽにして、六本の弦に触れた。 小さな病室には、拙い旋律とどうしようもない下手な日本人の英語が聞こえる。その音に抗議するように、窓辺の木々に止まった鳥が高い声で鳴いている。
僕は薄く目を開けながら、口を開き、指を動かしながら、暁の様子を伺う。
しかし、マルチタスクを得意としない僕にとっては、彼女の表情から心情を読み取ることはできず、ただ彼女は目を瞑っては静聴しているのかもしれないという反射的な感想が頭を支配する。
やがて、ゼンマイのねじが止まるように、僕が弦から手を離すと、暁はゆっくりと目を開き、しばらく黙ってから拍手をした。
部屋の中に残った僕の低音の声は暁の拍手に相殺されたように、何も音が残っていない。
「すごいじゃん、灰ヶ崎君!」
暁は白い歯を見せて、賞賛した。
僕はその賞賛に対して、無意識にそんなことはないよと、自虐の言葉を並べて、答えようとしたが、どうしてか今はまだそんな気にはならず、僕はただ首肯して、ありがとうと言った。
「さて、残る二曲は暗いのと明るいのに分かれてるんだけど、どっちが先が良い?」
「えぇー、選択式か。そうだねぇ、やっぱ最後は明るく終えたいから、暗い曲が先かな」
「わかった」
そういうことなので、指先がまだ上手く間に、二曲目に入ることにした。
僕はギターバッグからカポタストを取り出し、特定のフレットに装着させる。そして、音の確認をするや否や、歌詞を鮮明に思い出せる間に、早速、弦に触れた。
次の曲はまた同じくサイモン&ガーファンクルの今度は、『サウンドオブサイレンス』だ。
寂しげな音律から始まり、有名なフレーズが口走る。『ハロー、暗闇よ』。
この歌は僕が一番好きな曲だ。この歌を聞きながら、暗い部屋でぽつんと座っていると、どこでもない非現実な場所に行けそうな気がするのだ。そして、やがて『静寂』に呑まれ、考えも不安も緊張も、すべてが忘れ去ってしまいそうになる。
ぽつぽつ浮かぶ歌詞をなぞるように声にだし、その歌詞の意味を考えてみる。その度に、この歌の歌詞を書いたポール・サイモンはすごい人だと思う。
短い曲に終わりが見えてくる。
それを実感したときに、なぜか昨年の三月と色原の事を思いだした。
けど、三月の記憶は目覚めた後の夢のように曖昧で朧気のせいか、色原との記憶が強く蘇った。
確か、僕は中々に英語の成績が伸びない色原にこの歌の歌詞で文法を教えたのだ。なぜ、この曲の歌詞を用いて教えたのかは知らないが、そのおかげで色原の成績が幾分かに上がって、赤点を免れたのを覚えている。さらに、深く思い返してみれば、そのおかげで僕は色原と仲を深めることができ、僕の中にある静寂が廃れていった記憶もあった。
他に色々な記憶があったのかもしれないが、やがて脳内の無意識が破られ、鼓膜に拍手が響いた。どうやら、いつのまにか曲は終わっていたみたいだ。
「すごく良い曲だね。なんだか、誰もいない世界を一人で歩いてるみたい」
「その感想は的確だと思うよ」
僕は暁の感想に頷きながら、カポタストを外し、左指を軽く揉んだ。堅い弦のコードを抑えていたので、どうも左指の腱が痛いのだ。
「ねぇ」
僕は暁の顔を見ないで、まだ少しだけへこみと温もりを残しているベッドの端を眺める。
「どうしたの?」
今は関係ないけど、さっき金髪のハーフみたいな人がいてさ。あの人は誰なんだろう。
そう言おうとした。
けど、金髪さんの顔色や言動を思いだして、口に出すのをやめた。
だから、すぐさまに空いてしまった間を埋めるように、僕は言葉を紡いだ。
「そのさ。暁は僕の歌なんか聴いて楽しい?」
愚問かもしれないが、それでも聞いておきたかった。こんな拙い歌など聴いて、誰が楽しいのだろうか。ましてや、暁の身となれば、なおさらだろう。
僕は暁の顔色を覗く。
暁は聞き取れなかったような顔をして、首を横にして傾げる。まるで、意味がわからないとでも言いたげである。
よって、僕は説明を加えるために、再度口を開いて。
「いや、だってね。僕が弾いてる曲はそれほどメジャーなわけじゃないし、さらに言えば、歌もギター弾くのも下手だしさ」
と、同調を求めるようなトーンにして言った。
それほど意識はしていなかったが、僕がこうして自身を批判しているのはおそらく、本当に自分の歌が下手であるからだとか、そういうことではなく。無理な姿合わせをしようとして、そこから改め、理解を求めようとしている自身に対して、憐憫さを感じているからだと思う。だから、普段は自分を叩いて叩こうと思わない自身も、今日はメッタメッタにたたきのめしたいのだろうと思う。そう考えてみれば、金髪さんに対して、どうもギクシャクして対応してしまったのも、おそらく家を出る寸前から、ギターバッグを手に取った瞬間から、既にわかっていたことなのかもしれない。
僕は逃げるように、真っ白のベッドから、視線をずらし、窓辺に目をやった。そこにはただ、真緑色の葉が温風に揺られ、その後ろにはハワイアンブルーより濃い宇宙色の空がある。まさに、夏がこの病室の外にはあった。
そんな光景を眺めながら、自身の思い悩みと暁の事を思うと、どうして彼女は死ななくてはならないかという思いと、自分のしつこく執拗な性格が生み出した悩みがいかにもちっぽけでつまらないものであるかのように感じてしまう。けど、それらは度量でも、レベルでも言い表すことはできず、僕にとっては自分の思い悩みがつまらないものであっても、あくまで僕の思う暁の立ち位置に対しての思いと一切ひけを取ることはない。つまり、僕にとっては互いの思いは同じ重さなのだ。
改めて、金髪さんの言葉が強く蘇る。
『人は誰しもがエゴなんだよ』。
本当にその通りだと思う。
静かな空間。柱時計の針の音すらも聞こえそうな部屋から沈黙を打ち破るようにベッドの軋む音が響き、突如僕の左手は強く握られた。
僕は当然驚き、無意識に目線を暁にやった。そこにはいつものように満面な笑みを浮かべている。
「私はね、灰ヶ崎君。君といれば、なんでも楽しいの。話すことも楽しいし、お昼ご飯を食べることだって楽しい。もちろん、静かな場所で君と過ごすのも楽しいし、君の歌を聴くことだって、すごく楽しい。正直に言って、自分でもわからないんだけど、君といることはすごく楽しい。とにかく楽しいの。どうしようもないぐらい楽しいの。合計で何回『楽しい』という単語を使ったでしょうかって言う問題を出したいぐらいに楽しいの。だからさ、灰ヶ崎君は私といるとき、退屈かもしれないとか、不謹慎かもしれないとか、そんな気を使う必要は一切ないから」
淡々と語り、暁は僕の手をさらに強く握った。
そんな風に言われてしまえば、僕も笑わない他はない。
「なら、三曲目を弾かせてもらおうかな」
「うんうん。さっきから思ったより下手な英語で驚いてるけど。お願いしよかな」
「うわー、モチベーションが下がるなー」
「ははは、冗談だよ、冗談!」
おそらく冗談ではないだろうけど、まぁいいか。拙い英語であれども、楽しんでもらえているのなら何よりだ。
そういうわけで、僕はピックを手に取り、最後の曲を弾くことにした。
最後の曲はビートルズで『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』。
この歌は明るくポップで、ビートルズにしては似つかわしくない独特な曲調の歌だ。そして、また歌詞も独特で、デズモンドとモリーが恋をしてから結婚するということをただ唄ったものだ。
オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ。僕は声に出す。
実はこの謎めいたフレーズには意味がある。
確か、ナイジェリアのどこかの民族が、オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダと言う言葉には『人生は続くんだ』というポジティブな意味合いを持つと言っていたらしい。真偽はわからないけど、僕は『人生は続くんだ』と言う意味合いでいいと思う。そのほうがどこか楽しい。
タイミングが外れた手拍子と僕の声が病室に響く。
僕はそんな空間を吟味しながらも、暁の先のことを考えてみた。でも、そこには何もない。本当に何もない。真っ白な世界が続くだけ。
そこには誰かがいるのだろうか。そこはどんな世界なのだろうか。
全く、見当もつかない。
では、僕の先のことは?
考えるまでもない、きっと、暁と同じ答えが出るはずだ。誰にも、先のことなどわかりやしないのだ。
だから、端的に、そして曖昧に『人生は続くんだ』。今はその言葉だけでいい。
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