第8話 重ね合わせ 1

リビングで、僕は皿に並べられたナッツを口に運び、モシャモシャと咀嚼しながら、そろそろ迫り来る重大なイベントについて考えていた。

 このまま行けば、普通に高校入試をパスできるだろうが、どうも変な部分に不安が湧き出てくる。

 そういえば、塾の講師はこれまでした努力は裏切らないとか、口酸っぱくして僕らに言っていたが、どうもそんなありがちな台詞では中学生である僕の心には響かない。もっと、こう何というか、心の持ち方を易しくしてくれるようなそんな台詞が欲しかったのだ。

 それにしても寒いな。

 僕はシャツにパーカーを重ね、さらに毛布にくるまっている状態にいるが、それでも隙間という隙間から冷気が入り込んでくる。

 リビングにはエアコンは設置されてはいるのだが、どうもこの部屋の番人(母)は暖房を使用することを許してくれないのだ。だが、その変わりと言うべくか、より光熱費を抑えた床暖房だけは春先になってもなお、つけることは許可されている。別に、足下が暖かくなったところで、どうせスリッパを履けば暖かいのだから、床暖房こそ光熱費の無駄だと思う。と、そんなことをいつしか母に言ったことがあるが、論理破綻攻撃で撃沈された覚えがあるので、それ以来は一切、口にしていない。

 僕は最後の半割れのナッツを大事に摘まみ、口に入れる。

 さて、そろそろ部屋に戻って、最後の一息頑張りますか。

 そんな心意気を持って、立ち上がり、皿を洗面台に置くと、洗い物をしていた母が僕に何かを咎めるような表情で僕を見た。

「悪いんだけど、カナに、もう少しボリュームを下げてって言っといてくれる?」

 僕は頷いて、「わかった」と、そう返事をした。

 階段に足を掛けると、上の部屋から鮮明にポップスな音が聞こえる。リビングにいたときは、それほど目立って大きな音は響いてはいなかったのだが、段を上り、二階近づく度に、確かに音の大きさは目立つなと感じてきた。

 冷たい手すりを掴みながら、布団の端に足を引っかけぬよう、二階に登り切ると、僕は手前の部屋を数度かノックした。

 しかし、中からは音楽が聞こえてくるだけで、何も肉声は聞こえてこいない。

 再度、さっきよりも、より力を入れて、ノックしたが、返ってくるのは、誰かのバラード。そして、ギターの音。

 やれやれと、僕はノックで向こう側に気づかせることを諦め、許可なくノブを捻った。

 ドアを開けば、そこには全くもって女子中学生らしくない部屋がある。本棚に羅列された数百冊の本。部屋の隅に置かれた二本のギター。積み重ねられた何十もののレコード。そして、古めかしいレコードオーディオ。

 僕が部屋に踏み入ると、ようやく気づいたのか、丸椅子に座っていたカナはこちらの方へと顔を向け、にっこりと微笑んだ。

「どうしたの、お兄ちゃん?」

 カナはギターを持っている。そして、僕の声を聞くためか、ギターの音は鳴らさず、左の指だけを動かしている。

 けど、別段に、この部屋がうるさいのはカナのギターではなく、その後ろから響いているレコードオーディオだ。

 だから、僕は手短に要件を伝えるために、それに指を差しながら。

「母さんが、音量をもうちょい下げろだって」

 僕の声を聞くと、カナは「ははは、ごめん、ごめん」と笑いながら、音量のつまみを半回転ほど左に回した。今、この部屋に響くのは、カフェのバックミュージックよりも小さな音。 

僕はそれを確認すると、感謝を述べる必要もないとは思ったが、一応「ありがとう」とだけ言って、踵を返した。

 が、僕がカナの部屋を出ようとしたときに。

「お兄ちゃん、ちょっとだけ、弾けるようになった曲を聴いてくれない?」

 僕はそう言われたので、思わずにまたカナの方へと向きを変えた。

 さて、その後の返事なのだが、正直に言って、迷ってしまうものだ。

 というのも、現に僕は今、受験を近くに控える学生。故に、一秒ですらも惜しい。

 ただ、カナの朗らかな表情を見ていると、どうも断るのは難しい。それに、振り返ってみれば、僕は一度もカナの要望を断わったことはない。

 なので、僕は今まで通りに「じゃあ、お願いするよ」とだけ言って、そこらスペースの空いた床に座り込んだ。

 カナはそれを確認すると、嬉しそうな表情をして、下に置いてあったかわいい柄の入ったピックを拾い、合計三曲を披露してくれた。

 正直言って、僕は全くもって、音楽には詳しくないので、カナがどんなアーティストの曲を弾いているのかもわからない。ただ、英語圏のアーティストの曲であることはわかった。

 三曲目を弾き終えた後、満足そうな顔をしたカナは僕の方に視線を向け、どうだったと感想を求めた。

 僕は素直に、すごくよかったよ、と感想を述べ、その後に、拍手も加えた。

「私ね、この三曲がすごい好きなの」

 カナはそう言うと、積み重ねられたレコードから、二枚ジャケットを取り出し、僕に見せた。

 一つは僕でも知っている有名バンドで、もう一方の方は名前も聴いたことがない。

「さっき弾いたのは、このアルバムの中の曲なんだけどね」

 カナはジャケットを裏返し、いくつも並べられた唄のタイトルに指を差し、説明した。

「なんでこの曲が好きなの?」

 カナの説明が終えると、僕はつい気になり、聞いてみた。

 すると、カナはうーんと、顎に人差し指を添えながら。

「理由はないかな」

 さっぱりと言った。

 まぁ、好きなものに理由などはいらないだろう。僕だって、ピーナッツは好きだが、別に理由はない。

「けどね、この曲を聞いてると、なんて言うかな、自分のことが理解できるというか、何かを忘れられるというか、なんかこう本能的な……。うーん、ちょっと、私の語彙力じゃ、説明できないなー」

 カナは、はははと笑う。

 そして、視線は僕の方へ向けたままで。

「まぁ、音楽って、個人の理解だからね」

 音楽は個人の理解。

 わかったようで、わからない。

 でも、僕はこれ以上、考える気にはならなかった。なにせ、試験に無駄なことは必要ないからだ。 

「なるほど」

 僕は適当にそれだけ返事をすると立ち上がった。今度こそは、もう時間を割いてはいられない。

「あっ、待って」

 カナは僕を呼び止めると、すぐさま手に抱えた二枚のジャケットを僕に渡した。

「これあげる」

「あげるって、大事なもんなんだろ?」

「うん。でも、もう私には必要ないから。お兄ちゃんが持ってて」

 僕の部屋には英語のリスニング用のCD再生機しかなかったが、もうそんなことは一切、考慮せずに、そのジャケットを受け取った。きっと、焦っていたのだろうと思う。

「ありがとな」

 一応、礼だけ言って、ノブに手を掛ける。

「お兄ちゃん」

「ん?」

 僕は振り返らず、視線をドアの木目に向けたまま返事をする。

「受験頑張ってね。後ね、忙しいのに聴いてくれてありがと」

「おう」

 僕はそう単調な返事をして、カナの部屋を出た。

これから、待ち受ける後悔も知らずに。

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