第7話 夏と音 2
校門を抜けると、垢ぬけた声が大きなボリュームで聞こえる。
その音源へ目を向けると、そこにはグラウンドがあり、その上で土埃を舞わせながら何十人ものプレイヤーが服の色を半々に分け、白黒模様のボールを追いかけている。
ただ、どうも見ていると、騒がしいのはそのプレイヤーたちではなく、ベンチに座る顧問の方が騒がしい。
『あほんだら』
『まぬけ』
『ダボ』
よく聞くと、あの顧問はこの三つの単語しか使っていない。
これだけで、一体、何を伝えれるんだ……。それに、言語のチェックが厳しい現代で軽くパワハラ疑惑と言われかねない言葉を羅列してる当たり、改めて根性論は役立たないように感じる。いや、これは根性論でもないか、ただの罵倒に近い何かだ。
僕はただでさえ暑い最中に、体を酷使し、罵倒され続ける彼らを眺めながら、『きっと、君たちは立派で、頑強な社畜になれる』と敬意を込めて、せめて心の中で敬礼をした。頑張って、社会の歯車になってくれ。
そんな適当に募らせた尊敬の感情を抱えつつ、僕は校舎の中へと足を掛けた。
校舎の中は節電のためか、窓から差し込む光のみで全体が薄暗い。そんな空間の中で、校舎から外へ、女子テニス部が誰かの愚痴を言いあい、首元に日焼け止めクリームを塗りながら、出て行った。それと同時に、入れ替わるように、陸上部が校舎内に入り、冷たいコンクリートの下足場に座り込み、熱を冷ましている。
お疲れ様なことでして。
僕は下足場で靴を履き替えると、てくてくと本校舎の連絡橋を目指していく。
わが校には本校舎と東校舎がある。
確か、十年ほど前は東校舎が本校舎だったのだが、かなりの年季があるために、本校舎が設立され、そこが勉強の場となったのだ。
では、学舎の役目を終えた東校舎は現在、どのような役割を担っているかと言う話だが。なんと。いや、別になんと、とかいうほどでもないが、部室屋敷と化したのだ。
まぁ、もとより謎に部の多いわが校では、そうなるのが当然と言えば、当然なのだろうと思う。
連絡橋に通じる扉を開けると同時に、むわっとした熱気が体に纏わりついた。
思えば、なぜ連絡廊下ではなく、連絡橋にしたのだろうかと思う。せめてもの屋根でもつけてくれるだけでも、暑さも寒さも雨も緩和されるというのに。とりあえず、校長恨む。
こうして思い違いの感情を募らせ、短くも過酷な橋を渡り終えると、また程よい涼しさが戻った。
僕は廊下側に溜まる学生たちの合間を抜け、階段を上っていく。ステンドグラスでできた窓からは奇妙でカラフルな斜陽が差し込み、影は踊る。
ようやく、最上階へと昇り詰めると、ほんのりと独特な匂いがした。
それは良い匂いでもなく、悪い匂いでもない。
おそらく、夏休み前の大掃除でどこかの学生が手抜き掃除をして、未だワックスがヒノキのタイルに染みついているのだ。だから、ヒノキとワックスの混じり合った独特の匂いが漂っている。
まぁ、そのうちには慣れて気にならなくなるか、匂いが消えるだろう。
そんな思いで、目的の場所まで歩を進める。
廊下を歩いていると、どこかの部室からは活動音と言うべくか、電子音や人の声が聞こえる。この校舎の各々の教室は錆によるものか、朽ちによるものかは知らないが、所々に隙間がかなり多くみられるので、音が外に漏れやすいのだ。だから、一部の部室はガムテープを貼って隙間を埋めたり、部費で修理作業をするなどで、遮音策を施しているが、四階の全部室はそんなことはしていない。よって、この階だけは築七十年のおんぼろアパートの隣人若カップルの生活音ばりにうるさい。そのうちに、近隣乗り込みとかありそうで怖いものだ。
やがて、目的の場所へと到着すると、僕はノックもせずに、躊躇なく扉をスライドさせた。
中は少しだけ埃が光を浴びて舞っていて、小さな町図書館のように、いくつもの大きな本棚にCDがずらっと並んでおり、部屋の角には数台のコンポや、レコードが積み置きされている。
そんな音楽家の廃屋のような部屋に足を踏み入れると、誰かが僕の目前で背後を見せ、椅子に座り、ヘッドフォンを耳につけていた。いや、誰かとは誤謬である。単に、同じ部の人間だ。
僕がドアを閉めると、背後を見せていた者はその音に気付いたのか、こちらをばっと振り向き、ヘッドフォンをとって、笑顔を見せた。その笑顔は眩しい。
「あっ、灰ちゃん! おはよう!」
「うっす」
僕は片手を挙げ、いつものように、適当に挨拶を済ますと、空いたもう一つのパイプ椅子に腰を掛け、手に持った手提げの鞄を机に置いた。
「灰ちゃん、今日はぴったりな時間に来てるね!」
「いつもぴったりな時間に来てると思うけど」
「えぇー、そんなことないよ。いつも五分ぐらい遅れてくるじゃん」
そうだったかなーと僕は軽く答える。すると、向かいの彼女は「そうだよ、そうだよ」なんて言って、いたずらしく微笑んだ。
さて、ここで紹介しよう。誰をか? 当然、向かいに座る彼女だ。
僕の向かいに笑顔でちょこんと椅子におさまり、茶髪のボブショートで朗らかな雰囲気を持つ彼女の名前は色原光。僕の数少ない(唯一の)知人だ。去年の夏休み明けに、僕が教室で音楽を聴いている時に、話しかけてくれ、色々あって、この部に勧誘してくれたのだ。無論、当時の僕など、一切部に入るつもりなどはなかったのだが、今も僕に見せている何もかも優しく包んでくれそうなその朗らかな笑顔を見ていると断ることなどは出来なかった。僕は案外、単純な男なのである。
「いやー、今日も暑いね~」
色原は第二ボタンまで開けたブラウスの襟元をパタパタとさせながら、季節に愚痴を言った。ただ、思春期真っただ中を生きる僕にはそんな愚痴など全く耳に入らず、ついついちらりと色原の胸元へと目線をやってしまう。僕は案外、エロスが好きな男なのである。
しかし、ずっと彼女を見ていてはエロスの極みだとか、色欲の権化だとか、言われかねないので、目をそらし、鞄から薄いフレームのノートパソコンを取り出す。そして、電源をオンにし、立ち上がるまでしばし待った。
「あっ、そういえば、灰ちゃん」
足をパタパタさせながら、色原は首を傾げる。僕はパソコンから顔を覗かせて、「どうしたの?」と聞く。
「あのね、これなんだけど」
色原は座ったままに腰だけを屈んで、足元に置いてある段ボールを持ち上げ、机の中央にドンっと遠慮なく置いた。僕はなになにと、少し立ち上がり、その段ボールの中を上から覗く。どうも段ボールの中にはレコード、テープ、CDが左から順に音声記録の歴史でも物語るようにきっちりと綺麗に並べられていた。
「これまた、大量なことで……」
僕は今後起こる面倒くさい事態を予想し、ついついため息をついてしまう。
そんな僕の様子を見た色原も、僕と似たようなため息を微笑にのせて。
「夏休みは、これ全部の広報をお願いだってさー。後、音源装置とか、ディスク、教室とかの掃除もお願いだって」
「あの、じじい……」
おそらく、ほとんどの人が僕たちの部に関しても、課せられている業務に対しても、なんなら僕が今発言した『じじい』と言う単語すらも理解できないと思う。まぁ、それも当然である、何も説明していないのだから。
よって、まずは僕たちが今いるこの部に関しての説明からしよう。
僕たちの部はさきほど色原も少しばかりか口にしていたが、言わば音楽広報を目的とした部。そのままとって、音楽広報部と言う。まぁ、ようするに、徐々に右肩下がりになりつつある音楽業界に活気づけでもしようというマーケティング目的で作られた部だ。おそらく、全国の部を見ても、こんな目的と名前を持った部は珍しいと思う。
次に、僕たちが課せられている業務のことだ。今僕の目の前に置かれている段ボールの中身、もしくはそこらに積み重ねに放置されているレコード、棚に入ったCDなんかもそうだが、これら全部は僕らのものではない。当然だ、こんな大量のアナログ、もといデジタル媒体など学生の身分が買えるものではない。では、誰のものかとなると、既に多くの人は察しだと思うが、それは次にでも説明しよう。とにかく、僕たちはこの部屋に置かれてあるすべての音声記録媒体に対して、ある業務を行わないといけないのだ。ヒントとしては、先ほどの説明と今立ち上がりの音を出したパソコン。まぁ、もったいぶるつもりなど一切ない。単に、音楽を聴いて、感想を述べ、独自で評価し、新聞形式で学校掲示板に載せたり、特設サイトに投稿したりするということだ。これが僕たちの業務。
さて、この部にあるすべての物に対しての持ち主についてなんだが、まぁ説明するまでもない、じじいのだ。本名などは説明不要だろう。そろそろ定年が来そうな老教師という意味合いなだけだ。
僕は猫の画像が張られたホーム画面でパスワードを入力し、いつものプロセスでフォルダーから既に作ってあるフォーマットを開く。ここに感想や評価、画像を入れるのだ。
「あっ、灰ちゃん、もう作業始める感じ?」
「そうだね。結構、量も多そうだし」
「わかった! なら、あたしもそろそろ始めよっと!」
色原はハイなテンションでそういうと、かわいいウサギの刺繍がついたバッグから僕と同じ様にパソコンを取り出した。ただ、色原のパソコンはバージョンが新しいのか、最新モデルなのかは知らないが、開いてボタンを押しただけですぐに立ち上がるようだ。
さて、僕はどの曲から書き始めようか。箱の中を覗き、僕は、一枚と一枚と中にあるレコードやCDたちを机に並べていく。
どうも中にはベンチャーズ、カーペンターズ、クリームなどメジャーでかなり古めかしいものから、オフスプリング、ドクタードレーなどジャンルこそ違うが、最新のものまで盛りだくさんに入っていた。これならなんとか書けそうな気がする。
ちなみに、なぜ僕は洋楽ばかり選定しているのかという件だが、別に僕は日本脱出を心掛けている若者を志しているわけでもないし、洋楽聴いている自分かっこええーとか、そんな心意気をもっているわけではない。単に、役割が分かれているのだ。僕が洋楽、色原が邦楽と、そんな風に。
「うーん。最初はどっちにしよっかなー」
どうやら色原は僕と同様に、机の上にレコード群を並べ、まずはどの曲から始めるか悩んでいるみたいだ。
思えば、こういう時、どうしてか僕は優柔不断にはならない。レストランに行って、メニューを見て注文するときもそうだ。だったら、それは優柔不断ではないと多くの人は申し立てたいと思うが、どうも意味があるものにだけ僕はいつも優柔不断になる覚えがある。だから、部分的優柔不断と言うべくか。まぁ、そんなことはどうでもいい。
「ねぇねぇ、灰ちゃんはどっちからがいいと思う?」
甘い声で色原はそう言うと、二つのレコードを僕に見せた。
左が長渕剛で、右が加山雄三。
ぴちぴちの女子高生がこんな選択を与えることなどあるのだろうか? きっと、前例などないはずだ。
僕は適当に左のほうへと指を差し、個人的にそっちのほうが好きだという理由で返答する。
それを聞いた色原は明るい声で『わかった!』と述べたが、どうも選ばれたのは右側のようだ。聞き入れちゃいない。いや、いいんだけどね、うん。
まぁ、そのことは置いておいて、早速作業でも始めますかね。
僕は立ち上がり、隅のほうに置かれた小型のマルチレコードプレイヤーを二台持ち上げ、自分と色原の持ち場に置く。そして、コンセントをつなぎ、有線ヘッドフォンをバッグから取り出して、機器に差し込んだ。
そのことを色原は確認すると、いつものように笑みながら。
「さぁさぁ、今日も頑張っていこー!」
色原は『おー!』という掛け声とともに腕を天井に掲げる。しかし、色原以外に誰も腕を上げる人などいないので、ただの痛い人みたいになっている。
「むー、灰ちゃんもせめて掛け声ぐらいしてよ~」
「……おー」
「やる気ゼロ⁉」
色原の驚愕する声が聞こえる。
僕はそんなリアクションをする純粋な色原を見ては、どこか羨ましいと感じながら、声には出さず笑った。
窓から入り込む気持ち半分涼しい風と、教室の天井角に設置された扇風機を浴びながら、僕は三枚目のアルバムを聴いていた。
いつもよく聞くポップスと違って、やたらとトランペットの音が耳につく。確か、ジョン・コルトレーンと書かれてあったから、ジャンルはジャズなのだろうか。僕は、普段からジャズは全く聞かないため、このアルバムの良し悪しが全くわからない。
そのせいか、僕はつい耳に流れるジャズミュージックの細かな音から注意をそらし、できる限りの外音を耳に取り入れた。
その音の中からは校舎裏から聞こえる何かの打音や、隣の教室から響く活動音が聞こえる。僕はこの調子でより注意をそらしていく。すると、次第にジャズの音は聞こえなくなった。そして、打音や活動音はより鮮明になっていき、校舎裏から響く打音の正体はボールをテニスラケットで打つ音あり、隣の部屋から聞こえる活動音の正体は機械工学部の連中が不細工なロボットを動かしている音であることがわかった。
僕はまた、今よりも集中して外の音を取り入れる。音は鮮明に聞こえてくる。そして、音はより具象的なものから、抽象的なものへと、シフトチェンジをして……。
「おーい、灰ちゃん」
突如、ぴたっと首筋に何か生冷たいものを感じた。
そのせいで、今までの集中はすべて暴発してしまい、僕は反射的に仰け反って、椅子ごと真っ逆さまに落っこちてしまいそうになる。しかし、体育成績万年4の運動神経は伊達じゃなく、なんとかバランスを保って、椅子から落ちずに済んだ。
そんな僕の一連の動きを見て、色原は焦り顔で。
「わわわ、ごめん、灰ちゃん!」
と、手をあわあわと動かして、動揺した。
「いや、いいよ全然」
僕は何ごともなかったかのような顔をしてそう答えて、「それで、どうかした?」といつものように色原に聞いた。
「あっ、うんうん、別に用があるわけじゃないけど。レコードも回ってなかったし、なんかぼーっとしてたから、大丈夫かなーって」
あぁ、そういうこと。どうも些細な心配事でも嬉しいものだ。
「全然大丈夫だよ。ほら、目がそう語ってるだろ?」
僕は爛々(自分の中ではそう思っている)とした目を主張するように、色原に見せる。
だが、色原は全くそう思ってはいないのだろう、少しばかりか苦笑して。
「う、うん? いつも通りゾンビレベルに腐ってるようにしか見えないけど……」
さいですか。てか、すごい直球だ。あまりに直球すぎて、見逃し三振してしまいそうだ。
「あっ、でもね。今日の灰ちゃんは、いつもの灰ちゃんよりはどこか明るいっていうか、元気というか、絡みやすいというか……。うーん、いや、どれでもないなー。なんだろ、ちょっと変わったなーって感じがする」
えへへと語る色原。
うん、ポジティブ三要素の候補が打ち消され、『ちょっと変わった気がする』という結論に至ったのは、喜んでいいのか、否かわからない。ただ、いい方向にせよ、悪い方向にせよ、今は素直に喜んでおこう。
「あっ、そうだ、そうだ」
話を変える様に、色原は手を合わせると、鞄から一枚のクリーム色の紙を取り出した。おそらく、この安そうな紙は学校の配布物だろう。
「灰ちゃんはこれ決めた?」
「内容を言ってよ、内容を」
僕は色原の省略癖に呆れながらも、彼女の手に持つ紙を覗き込む。
それは進路希望調査だった。
あー、見たくもない。今の僕が最も目をそらしたいものだ。
「灰ちゃん?」
僕の腐り目はよりエスカレートしてしまっていたのか、心配そうに色原は僕の顔を見つめる。
僕はそんな色原の表情を見ては、すぐさま自身の感情を押し殺すようにして、下手くそな笑顔を取り繕った。
「あー、これ進路希望調査ね。目が悪いからなに書いてるかわからなかったよ」
「灰ちゃん、確か視力良かったよね?」
「えっ、あぁいや、最近、布団の中でスマホいじる習慣が身に着いちゃってさ。おそらく、それが原因で視力が悪くなっちゃって。はは、まいったな、これからは毎日ブルーベリー食べないとなー」
あはは、と僕は語る。
どうも僕はどうでもいい人間に対しては嘘を吐くのが十八番レベルに得意だが、そうでなくなるとこうも小学生のつく嘘よりも拙いものなってしまう。
色原は怪訝そうな顔つきで、僕を睨む。彼女は当然、僕の言葉が下手な嘘だとはわかっているのだろう。
しかし、色原は何も余計な詮索はしないで、しばらく僕をむーっと睨んではまた笑顔を取り繕った。
「もー、しっかりと考えなきゃだめだよ、灰ちゃん」
「もちろん、わかってるよ」
「ほんとかなー」
と、怪しいとでも言いたげな顔をなされたが、僕のしつこいぐらいの頷きで色原は諦めるようにため息をついた。
「わかった。いったん、灰ちゃんの進路は置いておいて。その、だったら、今は一緒にあたしの進路考えてもらっていい?」
「あぁ、全然いいよ。墓場までの進路プランを考えるよ」
「い、いや、そこまではいいかな……」
僕の発言に少しドン引きしながら、色原は苦笑する。
まぁ、そりゃあそうだ。
「ま、とにかく、進路でもなんでも全然考えるのは考えるけどさ」
僕はその言葉に後に、人差し指でノートパソコンに指を差しながら。
「それ以前にまだまだ、こっちの作業が残ってると思うんだけど」
「えっ」
操り人形の糸がぷつりと切れたように、色原は固まる。
危ない、危ない、いつのまにか色原の話術(ではないと思う)に乗っかって、いつものように最終日で作業が終わらず泣くところだった。まぁ、最悪終わらなくても、どっかのサイトのレビューをコピペして、ちょっと改竄すればいいだけの話なんだが。
まぁ、その件は置いておいて、さて、色原の反応はいかがなものか。
「そ、それは、また、明日でいいんじゃないかなぁ? ほ、ほら、夏休みはまだ始まったばっかりだし、こんなにも量があるし! あたし的には詰め込み作業は良くないと思うんだぁー。やっぱり、広告はクオリティが高くてなんぼだしね。あ、あとね、ほらっ、今日で結構な作業終わらせちゃうと、今後の夏休みの部活動の量が減って、灰ちゃんはずっと家に籠ったままいるでしょ、絶対! だ、だから、これはあたしの気遣いなの! そう、優しさなの!」
早々と口走り、少々の焦りじみた顔で色原はびしっと、人差し指を立ててそう僕に言った。
まぁ、要するに今日は作業する日としてはめんどくさいということだろう。僕もよくある。まぁ、僕の場合は常にそんな倦怠感が続くわけだけど。
ただ、色原の言うことを否定するつもりはない。あくまで、彼女が部長だし、彼女が権限を持っている。それに、こうした空間が僕は嫌いではない。どこか生きているような、自分自身の居場所がわかるようなこの間が僕は好きなのだ。
だから、僕はそんなテンパる色原を見て、微笑みながら。
「わかった。なら、僕はその優しさに甘んじることにしようかな」
と、僕がそう言うと、色原は目をパチクリ開けながら、不思議そうな顔をした。
「どうしたの?」
思わず気になり、僕は問いかける。
「え、あっ、うんうん、なんでもない! そ、そうそう、灰ちゃんは私の優しさに甘んじてくれていいんだよ! それが大正解!」
色原は僕の答えを賞賛すべくにそう言った。
どうも先ほどのセリフよりも動揺しているので気になるが、まぁ僕が気にすることではないのだろう。
「じゃあ、早速、あたしの進路計画を始めよー!」
「はいはい。机の上を片付けてからな」
僕は呆れ半分そう答えて、外の景色を見た。
そこにはいつもの見慣れた街並みが写っている。
けど、その光景の中には坂井中央病院はない。
暁は今、何をしているんだろうか。
段々と迫りくる日に僕は焦りを感じていた。ドラマや小説なら、この短い間でも何十話、何百ページと互いのドラマを膨大に築いていくのだろうが、現実はそんなことはない。時間も伸びないし、驚くイベントも、感動のイベントも起きない。現実と言うのはレコードのように、淡々と針を刻んでは時間を経過していき、刻んだ分だけ空虚と焦燥感を受け渡すのだ。そして、やがてそれは後悔へと変わっていく。
けど、そのことを分かっている自分を眺めてみてなお、僕はあの日から何一つ変わっていない気がした。
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