第5話 僕らの溝には何もない 2

カーテンの隙間から、薄い瞼の上に光が差す。僕はその光を遮るように、腕を顔にかざすが、それでも光は腕を貫通するように僕の顔をしつこく照らす。眩しい。

 僕は薄い布団をはいで、立ち上がる。そして、目を覚ますために、目頭を指で押さえた。    

今日は何曜日?

 薄い光が満ちた部屋でふらつくように歩き、ドアに張られたカレンダーを見る。今日は、日曜日だ。

 部屋を出ると、下のリビングから声が聞こえる。談笑とテレビの音。

 僕は下におり、リビングに顔は出さないで、挨拶をする。

 返事が返ってきたのを確認すると、僕は洗面所に向かい、自分の姿を鏡に見た。

 そこにはたっぷり眠ったはずの顔に、隈が下手なメイクのようについている。さらに、相乗して、目の腐り具合はいつもに増して目立つ。

 僕は冷水で顔を何度も洗い、何度も鏡を確認する。しかし、相変わらずにゾンビのような目と目元がそこには写っていた。

 しかたなく、僕は諦め、顔を拭き、自分の部屋に服を着替えに戻ることにする。

 部屋に入ると、僕は枕元に置かれたラジオの電源をつけた。しかし、寝ている間に、チューニングがずれしてしまったのか、ノイズが響く。チューナーを少し捻れば、ノイズの件は解決するのだが、どうもその気にはならず、僕は電源を消して、布団の上にラジオを投げる。

 そんな時に、僕は久々にあの夢を見たことを思い出した。曖昧で、抽象的な夢。

 なぜ、僕はあの日からあの夢を何度も見るのだろうか。

 なぜ、いつものように時間と共に忘れ去っていかないのだろうか。

 まただ。また、詮索しようとしている。

 詮索すればするほど、思い出してしまうのに。

 警告音のような電子音が部屋に響く。さらに加えてバイブレーションがあるためか、やたらと部屋は騒がしく音が響く。

 僕は早々にこの音を鳴り止ませるため、勉強机の上に置かれた、真っ青のカバーを施した携帯を手に取り、応答ボタンを押した。

「もしもし?」

 電話の礼儀では先に電話した方がどうこうと言っていたのを思い出したが、気にせず僕は応答する。

『あっ、灰ヶ崎君、元気にしてる?』

 向こう側から、やたらと元気そうな声が聞こえる。この声は暁だ。

「どうかした?」

『あー、いや、別に何か君に用があるわけじゃないんだけどね。暇かなーって聞きたくて』

「僕は年中忙しいよ」

『ははは、どうも暇そうだから、病院に来てもらっていいかな? 今日は、院内で月一のイベントがあるんだ~』

「……それ用じゃないの?」

『まっ、そうと言うかも! で、どう来てくれる?』

「もちろん行くよ。今日は偶然にもやることないし」

『いつものことじゃないの?』

「やかましい」

 電話越しに、はははと笑い声が聞こえた後、ぷつりと通信は切れた。そして、画面は飾り気のない壁紙が張られたホーム画面に戻った。


もう、三度目の坂井中央病院。

 院内の光景は休日であれども、大して変わらない。今から、医者に何をされるのかと想像し、泣く子供。難聴を患う老患者に大きな声で受け答えする看護師。テレビを見ながら審査結果を待つ主婦。いつもの光景だ。

 なのに、北棟の自動ドアを抜けると、大きく違和感を感じる。いつもと違う違和感。日に日に、この棟は雰囲気が変わっているように感じる。ただ、それはあくまで僕の主観なので、それほど気にとめることもない。

 僕はいつものように、203号室の前に来ると、一呼吸置いてから、ドアを開けた。

 その扉の先には、いつものように光を浴びながら、窓の光景を眺める少女が一人佇んでいる。真っ白な肌で、真っ黒な髪。

 ドアの閉開音が小さな部屋に響くと、彼女はまるで台本であるかのように、いつも通りこちらを振り返り、微笑む。そして、いつものような口調で。

「あっ、灰ヶ崎君、来てくれたんだ」

「まぁ、呼ばれたからね」

 僕がそう答えると、暁は『えらい、えらい』と僕に言いながら、パイプ椅子の上をばしばしと叩く。座れということだ。

 僕は軽く首肯しながら、その席に座る。

「今日も外は暑い?」

「暑いね。特に今年の夏は例年の平均気温よりも数度高いらしいし」

僕はポッケからハンカチを取り出し、額を拭う。

「毎年それ言ってない?」

「言ってるね。毎年毎年、数十年ぶり、数百年ぶり、史上初って」

「毎年、夏は記録を更新していくんだね」

「そうみたいだね」

「じゃあ、夏はいつも年が来る度に、なんか賞でももらっているのかな?」

「もらってるんじゃないかな」

「どんな賞?」

「多大迷惑賞とか」

「ははは、それならいらないかも」

 いつものようなテンポの会話。それは滞ることはない行き先の見えないやりとり。

 僕は彼女の、暁の笑い声を聞く度に、どこか懐かしい気持ちともどかしい気持ちが入り交じる。それは説明のできない気持ち、何十色も混ぜた絵の具のような曖昧な色。でも、そこに黒を入れたら、すべては一色に染まるのだ。

「ねぇ、灰ヶ崎君」

 暁は笑った後に、僕に問いかける。

「どうかした?」

「君はさ、どこか私に遠慮してるよね?」

「今さらだね。当然だよ、遠慮するに決まってる」

 僕が淡々とそう答えると、暁は子供のように頬を膨らませる。

「むー、私にはフェアに接してって、前も言ったじゃん!」

「今の君にフェアに接することができたら、逆にそれはすごいよ。少なくとも、僕にはできない」

「そんなことないよ。ほらっ、私をただのクラスメートだと思ってみたら」

「いや、もう君の事情を知ってる時点で無理だよ。てか、なんなら僕は結構、フェアに努めている方だよ。僕じゃなかったら、今頃吃りながら、君に話しかけて、声を出す度に泣いてるよ」

「そんなものなのかなぁ」

 「そういうもんだよ」と僕は答える。そう、きっと、誰もがそれに対して簡単に向き合えるものではない。それが、仮に突如の訪れだったとしても。死というものは準備をしても耐えきれないものだ。

「そういえばさ、君は僕以外に誰か見舞いに呼んでいないの?」

「えっ?」

 話を変える様に、僕は聞くと、暁からは拍子抜けた声が聞こえた。

「あー、まぁ、呼んでないって言うか、呼べないというか。君と同じ状態だったから……」

「君は僕に大変失礼な事を言ってる気がするんだけど」

「まさかまさか、君がぼっちだなんて一言も私は言ってないよ」

「今、言ったじゃん……」

 僕がそうやるせない声で答えると、暁は「ははは、誘導尋問、誘導尋問」と笑いながら声に出した。

 誘導尋問とはまた違うと思うんだけど。

「というか、僕はぼっちじゃないからね。一応、知人程度ならいる」

「何人?」

「えっと、一人以上……」

「はっ」

 嘲るように暁は笑う。いや、嗤う。

「えっ、なにその表情は……」

 何だ、その表情は。すごい見下されてる感じがするんだけど。なんか背筋がゾクゾクしてくる。マゾだったら、これがご褒美なのだろうか? だったら、彼らとは仲良くできそうにはない。 

ただ、このときに僕はあることに気がついた。無論、自身がマゾであったとかそんなことではない。僕が気づいたのは、彼女の言った『誘導尋問』という言葉だ。僕はまんまと乗せられたのだ。もちろん、それは僕には知人が少ないと言わせる誘導ではない。僕自身が彼女といつのまにかフェアにやりとりをしていたと言うことだ。僕は普段日常の真面目さを忘れていたのだ。

 僕は改めて、暁を見る。そこには、やってやったりと、子供じみた笑顔で微笑む彼女がいた。

「灰ヶ崎君、できればこんな感じで接してくれたら嬉しいな」

「……なるほどね」

 僕は暁の笑顔につられて、不器用な笑顔を作る。久々に意識をして、笑顔を作った気がするので、口角の筋肉がピクピクと動いている。

「さぁてと!」

 暁はそう元気よく叫ぶと、身を起こした。

「灰ヶ崎君とは、中々距離が縮まったことだし、そろそろイベントに行こっか!」

「君のテンションは一体、どうなってるの? 常に羽でも生えてるの?」

「そのうちには生えるかもね!」

「そういうネタはやめてほしいんだけど……」

「ははは、この手のネタは余命宣告されたものだけの特権だよ!」

 それは嫌な特権だのこと。

「てか、イベントって電話でも言ってたけど、なんのイベントがあるの? 祭り? お披露目会?」

 僕はいくつかのイベントの予想をあげてみたが、暁は人差し指を横に振る。どうやら、間違いのようだ。

「ちっちっちっ、もっと青春チックなものだよ」

「えー、なんだろ、球技大会とか?」

「いやいや、院内でできることだよ」

 院内でできること。かつ、青春チックなイベント。そんなものあるんだろうか。僕はどうも人生上、大して青春チックなことをしたことがないので、あまり頭に浮かんでこない。

 なので、僕はヒントを求める。

「えー、ヒント? うーん、そうだね、イベントの場所は学校にもある、かな」

 あー、確信はないけど、わかった気はする。

おそらく。

「屋上?」

 その解答を聞くや否や、暁は「おー、正解!」と、声を大きくして拍手をした。

「そうなの、今日は月一の屋上開放日なんだよね」

「普段は開放してないの?」

「してないよ。まぁ、危険だから、しょうがないといえばしょうがないけど」

 まぁ、確かにそうだ。学校でも屋上を開放しているところなんて、ほとんどと言っていいほどないに等しい。あったとしても、それは高いフェンスが施された、言わば檻のような。

 それに屋上と言えは、確かにドラマや漫画なんかでは青春の舞台の一つとして使われることが多いが、その一方暗い面も存在するのだ。それは青春とは全く無縁な。

「それで、なんで月一に屋上を開放しているの?」

「そりゃあ、私がお願いしたからね」

「はい?」

「だから、私がお願いしたの。去年の今ぐらい、担当医に可哀想なこの私の些細な願いを聞き入れてって、目を潤わせながら。じゃあ、『仕方ないな』ってことで、北棟の屋上は毎月、この日だけ開放してくれることになったの。ちなみに、屋上が開放されてるのはこの病院で私しか知らないのよ」

「あー、そういうこと。けど、なんで屋上なの?」

「それはもちろん、私だって青春したかったからね。学校行けない分、せめてものの慰めというか。まぁ、結局、一人では青春できないことに気づいたんだけどね」

 ははは、と自虐するように笑う暁。彼女はこの手の自虐は余命宣告をされた者の特権だと言っていたけれども、それでも僕は受け入れるのは難しい。

 どうやら、僕は暁の発言に対して、いつのまにか憂いた表情を見せていたためか、彼女は明るい声で。

「けど、青春はできなくても、ほんとにここの屋上から見る景色は綺麗なんだよ。ほら、ここの病院って、坂の上にあるでしょ? だから、この街の全体が見渡せるの。それを、灰ヶ崎君と一緒に見たくて」

 暁はその後の言葉に、何かを付け加えようとしたが、僕の顔色を窺ってはすぐに撤回した。もしかすると、『最後だから』と言おうとしたのかもしれない。

「それで、一緒に来てもらっていいかな?」

 暁は笑顔を保ち、その顔を僕に見せる。

 ああ、難しい。どうして、このもどかしさを説明できないのか。

 僕は暁を見る。そして、「もちろん行こう」そう答えた。


屋上は真っ白の床と真っ白な雲の間に挟まれ、風はそこを通過点としているように強く吹いている。

 いつしか僕はこの光景に似た写真をどこかで見た覚えがある。確か、地理の教科書で見た。あぁ、そうだ、ギリシャの家だ。真っ白な家に、その背景には青い空と断片的な雲が。

 暁は鉄製の扉を閉めると、靡く髪を抑えながら、屋上の縁にまで歩み、みぞおちほどの高さの鉄格子に手を掴んだ。

「涼しいね!」

 暁の声は風に流れ、僕の耳に届く。

「ほんとだね。夏は常にこれぐらいの風が吹いてくれたら嬉しいんだけどね」

 僕も暁に倣い、鉄格子を掴む。その錆びた酸化鉄の格子はひんやりと冷たい。

「見て見て、すごい光景でしょ!」

 暁は片手で鉄格子を掴んだまま、残った手で前方に指を差す。

 その先には、俯瞰できるほどに街がびっしりと並んでいる。目を凝らせば、少し離れた僕の家や僕が通っている高校までもが見えた。

「いい光景だね」

 僕がそう素直な感想を述べると、暁は首を振りながら、嬉しそうに微笑み。

「でしょでしょ! 双眼鏡とかあったら、街の人が何をしているのかまで、細かくわかるんだよ!」

「そうだろうね。僕もこうして普段は常に誰かによって、見張られているかもしれない」

「いやいや、灰ヶ崎君には誰も興味ないと思うなー」

「やかましい」

 はははと声が聞こえる。全く、なんてことを言ってくれるんだ。まぁ、間違いではないけど。

「ねぇ、灰ヶ崎君」

 暁は僕の名前を呼ぶと、町並みの景色を背にして、座り込んだ。そして、僕が病室に入ったときにいつもするように、彼女は白いタイルの上をバシバシと叩いた。

「どうしたの?」

 僕は暁の呼びかけに呼応し、いつものように彼女に従うように横に座り込んだ。

 ちらりと、暁に目をやると、彼女は膝を寄せて座り、ちらりと盗み見するように僕を見ている。その隙間から見える彼女の目は美しい。

「ねぇ、自己紹介しよっか」

「へ?」

 唐突な言葉に理解できず、思わずさっきの病室の時と同じように僕は声を出す。

「自己紹介って、今更だね。初対面の時にしなかった?」

 僕がそう言うと、暁は薄く笑みながら。

「したけどさ。あんなのは自己紹介って言わないでしょ。私ね、言っても、灰ヶ崎君のことは目つきが良くないのと、ぼっちなのと、性格が残念そうな事ぐらいしかわかんないのよね」

「目つきは仕方ないとしても、他のは全然そんなことはないからね。後、そんなマイナスな点挙げなくていいから……。もっと、嘘でもいいから、ポジティブな点を挙げてよ……」

僕の嘆きを聞く次第、暁はいたずらそうに笑って。

「確かにそうだよね。じゃあ、灰ヶ崎君とは付き合いにくそうとか! 後、関わったら面倒くさそうとか!」

「よし、次見舞いに来るときは、ポジティブの意味合いを教えるために、君に国語辞典を持ってきてあげるよ」

「ははは、私、勉強は嫌いだなー」

 高らかな彼女の笑いが八月の空に響く。

 僕はそんな笑い声を聞き、半分呆れていた。

「まぁ、そういうわけでね、とにかく私は、全然灰ヶ崎君のことを知らないからさ、改めて自己紹介でもしよーよ」

 まだどこかおかしいのか、暁は腹に笑いの感情を抱えながらも、僕に尋ねる。

 僕はそんな姿を見ながら、本当に彼女は夏休みが終えるまでに死んでしまうのだろうかと考えてしまう。

 でも、そんなことを考えても無駄だということにすぐに気づき、僕はすぐさま彼女のことを考えるのはやめた。

だから、僕は彼女の言葉に合わせる様に。

「そうだね。僕も君のことは全く知らないし」

 僕は承諾するように頭を小さく上下に振る。その反応を見るや否や、暁は嬉しそうに微笑んだ。

「よしっ、そうと決まれば、私から紹介させてもらおうかな!」

 暁は僕に一応ということで、順序の許可をとった。無論、僕にとって、紹介の順番なんてどうでもいいので、どうぞと一声掛け、静聴させていただくことにする。

「じゃあ、どこから紹介しよっかなぁ……。そだ、まずは家族構成からの話でもしよっかな」

 暁は閃いたように、人差し指を立てた。

「まず、私の家族は四人構成。で、姉がいます。でも、消息絶って、三年ほど前にネパールに行ったきり、帰ってきてません」

 暁はわざと丁寧口調に変え、報告する。

 とても重大なことを彼女は発言しているのに、茶化しているようで事態が深く感じ取れない。

 ただ、僕も何もそのことに関しては触れず、ただ耳に入れては、聞き流した。

「それで姉が消えて、その二年後に私は病気にかかりました。超絶稀な病気らしく、具体的な治療法はないと医者に直接言われました。しかも、何の前触れもなく、心の準備もなく、単なる風邪だと思い込んでいた上で言われました。そのせいで、いや、そのせいではないかな。まぁ、少なからず、それが一部の要因で母が精神を病んで、今では立派な精神病患者になりました。今は、遠い病院で廃人のように、毎日寝込んでいるだそうです。後、父は母の要望で離婚しました。ちなみに、私の名字は母方の方だよ」

 止まることなく暁は口を開いていく。

「それで、高校一年の夏休み前。以上のことより、これから私の青春的な夏休みが来るぞ! って思っていた矢先に、全部が失いました。全部です。現在も、未来も。そんな私は怒りに溺れました、悲しみに溺れました、もう何もかもに溺れました。深い深いマリアナ海溝の底で溺れましたとさ」

 なんとも言えない話だ。同情を通り越して、もう何も言葉にできない。

 なのに。暁はまだ笑ったままでいる。

「でもね、溺れただけで死んだわけではないの。ほら、今もこうして生きてるし。私には、そんな勇気がないしね。だから、こうしてビンビンに生きてます。もうすぐ、死ぬけどね」

 おかしそうに暁は笑う。

 彼女が口を閉じた頃には、もう僕は、暑さも涼しさも体には感じていなかった。だけど、首筋には汗が滴っている。

「さぁて、以上が私の家族構成。どうだった?」

 どうって。何を言えばいいのか。

 けど、無理にでも口を開かなくてはならない。

「……段々と家族構成の話が逸れていってたね」

 僕の声量はどれほどだったのかは知らないが、それでも暁の耳は届いていたのだろう、彼女は「確かに、後半は家族構成、関係なかったね」と口に出した。

「まぁ、とりあえず以上が私の家族構成の話として、次は灰ヶ崎君の家族構成の話を聞いていいかな?」

「自己紹介って、まとめてやるものじゃないの?」

「いいじゃん、いいじゃん、別に。一気に話しても面白くないし!」

「そういうもんなのかね」

「そういうもんだよ」

 何を基準にそう言っているのかはわからないが、まぁ、彼女が言うなら、それでいいんだろう。

「それで、聞かせてもらっていい?」

 暁は首を傾げる。

「話しても大して面白くないよ」

「いいの、いいの。私は灰ヶ崎君のことを知りたいだけなんだから」

 なら。話すべきなのか。いや、わからない。この期に及んで、僕はまだ何かを避けようとしている。

 それはずっと忘れたいもので。ずっと、記憶に消したいもの。

 なのに、ずっと僕はあの日から二つの答え探している。理解と自身のいるべき場所を。

だから、そのことに少しでも触れなければ、答えは見つからない。

けれど。

 僕は一息をつく。

そして、小さく口を開いた。

「僕の家族は四人家族で、君の家族と違うのは僕には姉ではなく、妹がいること。いや、いたこと。僕の妹は僕が高校生になる直前に死んだ。その後の記憶は全く残ってないけど、今、両親はそれでも元気にやってるよ」

 淡々と僕は話を終える。

「以上?」

「以上だね」

「簡潔だ」

「そうだね。僕は長く話すのはあんまり好きじゃないんだ。それに家族構成の話なんて、せいぜいこれが精一杯だよ」

 僕がそう言うと、暁は「確かにそうかもね」と、薄らと笑いながら、視線を前方にやった。

 その視線の先には特にといって、何もない。あるのは、ただの鉄の塊でできた扉と、染みがついた白壁だけ。風はもう止んでいた。

「灰ヶ崎君」

 暁は視線を変えないで僕に呼びかける。僕も視線は同じままで「何かな」と答えた。

「次はさ、恋バナでもしよっか」

「自己紹介から遠のいていない?」

「いいの、いいの。やっぱ、せっかくだから、青春チックな話でもしよ」

「まぁ、いいけど。僕は恋をしたことはないよ」

「でも、気になってる子ぐらいはいるでしょ?」

 まぁ、いや、どうだろう。

 と、僕はすぐさまには答えることはできず、少し遅れてから「いないよ」と返してしまった。そのせいでか、暁は僕をからかうように「いるんだ~」と言った。

「へぇ、どんな子、どんな子?」

「いないってば」

「もしかして、あの子? ほら、茶髪のかわいらしい」

 否定してるのに、暁はしつこくも、笑いながら僕に聞く。

「いや、きっと違うと思うよ」

 僕は適当に返事を返す。ただ、その返答っぷりが暁には何か特殊なものとして感じ取ったのだろうか、彼女は微笑みながら「そっか」と僕の方を見て言った。

「じゃあ、君はどうなのさ」

 僕は話を変える様に、暁に問う。

「私? 私は超恋する乙女だよ。ただ、ちょっと難しいところがあるんだけどね」

 へへへ、といつもとは違う笑い声で暁は言った。

 僕は彼女の言った難しいところとは何かと、聞いてみたかったが、それを聞く気力はなかった。徐々に、僕の体には暑さと言う感覚が戻ってきていたのだ。

「それで、恋は実ったことがあるの?」

「もちろん! ここ一年、今も実ってるよ!」

 はぁ、それは良いことで。

「一年ってことは、君が病院にいる間に恋は実ったのかな?」

「うん、そうだよ。その人も同じ北棟に入院しててね、仲良くなってお付き合いしたんだ~。その人は、今はもう退院してるんだけどね。でも、ほぼ毎日、お見舞いも来てくれてるよ。まだ、灰ヶ崎君は顔を合したことがないと思うけどね」

「僕はその人にどこか反感を買ってない? 顔を合わせても、大丈夫なの?」

 少しの焦り声で僕は話す。

 そんな姿がどこか暁にはおかしく面白かったのか、彼女は笑いながら。

「大丈夫だよ。その人はしっかりした人だから。きっと、わかってると思うし」

「なんか説得力が弱いんだけど……」

「大丈夫、大丈夫! そのときはそのときだよ!」

「それ全然、大丈夫じゃない時の言い分だと思うんですけど……」

 あぁ、恐ろしい。僕は文化系の人間だから、物理攻撃には弱いんだよな。無論、精神攻撃にも弱いけど。

「まっ、とにかく、とにかく、私には恋人がいますよって話。そう、恋人がいるって話」

「なんでわざわざ二回言ったのさ……。なに、僕は煽られてるの?」

「まさか、まさか。私は灰ヶ崎君にちょっと焚きつけているだけだよ」

「やっぱり煽ってるじゃないか……」

 僕がそう指摘すると、暁は「どうかな~?」なんて言って、微笑んだ。いや、普通に煽り成分100パーセントだと思う。もし、暁がただのイケメン男子で、こんな発言をしたなら、間違いなく僕は彼女(彼)に、パイルドライバーをかまし、全世界の女子を敵に回していたと思う。そして、生涯童貞ルートを歩んでいたに違いない。そんなことしなくても、そのルートを歩むことになりそうだけど……。

「とにかく、灰ヶ崎君もさ、わかり合える友でもいいから、そう人を見つけるべきだと思うな~。あっ、ちなみに私はダメだよ、応えれないからね」

 暁は僕の目を見つめながら、そう言った。

「……わかってるよ、それぐらい」

 一体、僕は暁の言った言葉のどちらに対してわかったと答えたのだろうか?

 わからない。だから、僕は深く考えないために、暁の目線から逃げる様に視線を上に逸らした。そこには逃げ場のない空がぽつんと浮かんでいる。

 ふと、気づけば、また風が吹いていた。今度の風はさっきの風とは違い、どこかドライヤーの温風のようで蒸し暑い。ただ、そのおかげで、少し濡れていた首当たりのべたついた汗はすっかり渇き、今は全く気持ち悪くない。

 互いの間に少しの沈黙が走る。

 ただ、それは気まずさによるものでもなく、嫌悪によるものでもないことは僕にでもわかった。

 しばらくすると、暁は僕の片方の肩を優しく掴んで、立ち上がった。そして、手を後ろに組んで、振り返るように僕を見た。その顔はいつもの笑顔と違って、どこか優しさを感じる。

「灰ヶ崎君はね、面倒くさい性格で、無駄に変なところは察しがよかったり、変に賢そうだからさ、きっと普通の人よりも深く物事を考えたりしてるんだと思う。確かにね、それもすごく大事だと思うよ。けどね、物事ってさ、きっと解決できないことも含まれてるんじゃないかな。ほらっ、曖昧で抽象的なこととか。きっと、未知で解が用意されていないことって、いっぱいあると思うの。だからね、灰ヶ崎君。君の幸せのためにさ、ほどほどにしておいたほうがいいと思うよ」

 暁はそう言い切ると、少し恥ずかしそうにして「ごめんね、急に説教臭いこと言っちゃって」と、謝った。僕はそんなことはないよ、と言葉にはせずに、首を横に振った。

 そう。

 彼女の言ってることは正しい。

 僕の今の状態に置いては、限りなくそれは正解に近い。実際にそうすれば、僕は今も悩まないで済んだのだ。

 でも、それでもなお。

 やはり僕は忘れることができない。

 どれだけ努めても、日が経てば、いずれには答え探しに向かうのだ。

 だから、彼女の、暁の言葉を僕はそのままにして鵜呑みすることはできない。

 僕はどうしてか、暁に何か言葉を掛けようとした。

 けど、言葉は見つからない。些細な言葉ですらも、見つからなかった。

 そんなときに、それは運がよかったとでも言えるのだろうか。古びた屋上の扉から、小太りの看護師が出てきた。そして、その看護師は暁に、診査の時間だから降りてきてほしいとの要望を伝えた。

 暁はそのことに対し、こくりと頷き、看護師その反応を見てはそのまま階段を降りていった。

「まぁ、そういうことだから、今日はこれぐらいにしておこっか」

「そうだね」

 僕は頷く。

「うん、じゃあ、今日はここで幕を下ろすということで。灰ヶ崎君、今日は日曜なのに、わざわざ来てくれてありがとね」

「暇だったから構わないよ」

「あれー、常に忙しいって言ってたのにね」

 暁は揶揄するように笑う。

「明日からまた忙しくなるんだよ」

「ははは、そっか。なら、また電話するね」

「うん」

 僕がそう言うと、暁は笑顔のままで「じゃあね」と手を振り、そのまま階段へと歩んでいった。重い扉は閉まっていく。


 僕はしばらくその場で立ち尽くすと、屋上の縁の方へ行き、また背の低い鉄格子を掴んだ。それから、街の景色を見て、垂直に視線を落とした。その下には灰色のコンクリートが一面。

 ここから、地面まで一体どれほどの距離があるのだろうか?

 僕は目測で図ってみる。けど、おおよその距離すらもわからない。ただ唯一わかるのは、飛び降りてしまえば、命はないだろうということだけだった。

 改めて、僕は街を見下ろす。街は日に照らされ、部分は雲に隠れて影を作っている。そして、弱火で焼かれた町からは見えない蒸気が漂う。

 そんな光景を見て、僕はどこか街が澱んでいるなと思った。

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