第2話 コンビニエンスストア
問いかけが脳裏を離れない。
病院を出た俺は、車を自宅へ向けて走らせながら、何度もその意味を考えていた。自分の内側にあるこの、醜悪極まりない衝動が猛獣でないというのならば、他のなんだというのだろう。悪魔か?悪霊か?…それはただの言葉遊びだ。そんな意味で問いかけたというのなら、河野医師は信頼するに値しない。だが、俺にはそうは見えなかった。あの人は確かに狂人に近い何かを持ってはいるが、少なくとも馬鹿らしい問いかけを真面目に発するような輩ではないだろう。
解答を見つけ出せない問いかけを考え続けながら、俺の車は自宅最寄のコンビニエンスストアの駐車場へ滑り込んだ。暑い日だ。車から降りたくない。エアコンの効いた車内は、外気とはまるで別世界のように快適だ。最寄のこのコンビニは、同時に行きつけでもある。田舎に位置する自宅の周辺にはこのコンビニ以外ないし、コンビニを選り好みする趣味をもちわせているわけでもない。そもそも、買う物は、大体いつも決まっている。
「いらっしゃいませー。あ、どもども」
自動ドアをくぐると、冷気と同時に明るい声が出迎えてくれた。
「や。どうも」
「今日もいつものでいいですか、篠崎さん」
「ありがと。それでお願い」
「それじゃ、アイスコーヒー淹れますねー。あとピースライト二つ…っと」
とことことカウンターの中を歩き回るのは、もうずいぶん長い間顔を合わせている店員だ。彼女がバイトを始めてから、もうずいぶんの年月が経った。その意味では、長年の顔見知りと言えないこともない。落ち着きのない振る舞いや可愛らしい風貌は、どこか子猫を思わせる。
「はい、アイスコーヒーです。篠崎さん、この後一服していきますか?」
レジから差し出されたアイスコーヒーを受け取りながら、答える。この問答も何度目だろう。…そのたびに、彼女の職務怠慢について思いを馳せる。
「さんきゅー。ああ、するよ」
「ふふ、禁煙車ですもんね」
「そそ。匂いつくと落ちないんだよねー。…この会話何度目だっけ。楓ちゃんは二十歳になったからって煙草なんて吸い始めちゃダメだよ」
「ピース以外の匂いは嫌いなんで吸いませーん。ピースライトは前一回貰った時、すぐにヤニクラ起こして気持ち悪くなっちゃいましたし。あ、例の如くわたしもちょっとサボりにいきます」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、事務所へ戻る彼女を見て、俺は外の喫煙所へ歩き出した。可愛いやつだ。素直にそう思う。アイスコーヒーを手に、コンビニの自動ドアをくぐる。左手にあるスタンド式灰皿は、見慣れた風景の一部だ。味気ないが、綺麗に掃除が行き届いている。駐車場に俺のもの以外の車はない。田舎だからなのかよくわからないが、繁盛しているようには見えない。何年通っても経営状態が心配になるコンビニだ。買ったばかりのピースライトの封を切る。バニラのような、ふくよかで甘い香りが鼻腔を満たしていく。ああ、この香りがいいんだよなあ、といつもの常套句を脳裏で口にしながら、火を点けた。
「オーナーにカフェオレもらってきました。へへ。役得ぅ」
霧谷楓と書かれたネームプレートを胸にしてはいるものの、いつまで経ってもそのおしとやかな名前とイコールで結ぶ気にはなれない子猫のような彼女は、喫煙所近くの壁にもたれた。右手のカフェオレは、さぞガムシロで甘ったるくなっていることだろう。
「オーナー、相変わらず楓ちゃんには甘いね」
「いやーこのお店暇ですし。この時間やることないんですよ。甘えさせてもらってます」
吐いた煙が風下へ…彼女の方へと流れていく。
「あ、風上。変わるよ」
「いーです。ピースライトの香りは好きですから」
「副流煙は体に悪いぞ」
「一日二箱買っていく人が何言ってるんですか。そっちこそ減らした方が身のためですよ」
一日二箱。キッチリとその習慣は継続されている。無論、褒められたものではない。金はかかるし、体にいいわけもない。だからといって、減らす気もやめる気もさらさらないのだが。
「篠崎さん篠崎さん。夏ってなんでこんなに暑いんですかね。もう人間を抹殺しようとしてるとしか思えないんですけど」
彼女はそう愚痴りながら、制服の胸元をパタパタとさせる。見ようによっては邪な気を起こす男もいるだろうが、不思議と彼女が行うとそういったいやらしさがない。幼さ、だろうか。
「胸見えるぞ」
「きゃー。でも誰も見やしませんし。どうせないですし」
「…………それはまあ…うん」
「否定してください」
「嘘はつけないね」
「ひーん」
おちゃらけた会話が続く。煙草を買うたび訪れる、このふざけた喫煙時間は楽しい。俺を日常へと引き戻してくれるような気がする。真っ暗な、間接照明すらない闇の底から、カラッと激烈な日光を降らす太陽の足元へと。
「篠崎さん。なんか今日、香水変えてます?」
眉間にシワを寄せた、まるで訝しがる名探偵といったような表情でカフェオレを啜りながら、彼女は問いかける。
「相変わらず鼻が利くな。でも変えてないぞ。あと、暑くて汗かいてるから嗅ぐな。鼻をふさげ」
「カフェオレの味までわからなくなっちゃうじゃないですかー。そもそも呼吸してたら匂いなんてわかるので無理でーす。汗臭くはないですよ。念のため」
「…じゃあ、どんな香り?」
「うーん…普段篠崎さん、結構甘いのつけてますよね。大人ーって感じの。今日はそれに柑橘系の混じったような…混じっていないような…」
「柑橘か」
「女ですか!女!」
興味津々と言いたげに、近寄ってくる彼女から思わず煙草を背ける。いくら見知った仲といえど、煙草を他人に向けるほど無神経ではなかった。
「あー。今さっき寄った病院の先生かな。気付かなかったけど」
「へー、ふーん。ほー。病院の先生ねえ…ふーん…」
「女ですね。女物ですもん。このフローラルさと柑橘の香り」
「いやまあ確かに女性だったけど…つける感じの人では…」
「ほらあ!あたり!あたったのでお菓子買ってください」
「嫌だ」
会話と共にピースライトが燃え尽きていく。太陽はこれでもかと、その力を誇示している。まるで我々に対する嫌がらせかのように。
「暑いな。そろそろ帰るか」
「えーまだ二本じゃないですか。減煙ですか?」
「いや、残念ながら全く減ってないね。クーラーの効いた部屋で続きを吸うよ」
「確かにこの炎天下は体に堪えますね…わたしももう汗だくですし…お仕事するかあ…」
「あと三時間頑張りな」
「はーい。暇つぶし頑張りまーす」
カフェオレを勢いよく飲み干すと、こちらに手を振りながらパタパタと店内へと彼女は戻っていった。手元のアイスコーヒーはまだ残っている。それにしても暑い。クーラーの効いた部屋で、もう一服といこう。…そう心に決めると、俺は愛車に乗り込み、エンジンをかけた。
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