肉と魂

鹽夜亮

第1話 町はずれの病院

 小さな病院は郊外の山の麓にひっそりと佇んでいた。俺はここに来るために、猶予期間を作った。乗り越えられないのなら、自分を殺すつもりだった。

 飾りっ気のない簡素な、しかし重厚さを感じさせる扉を開けると、狭い待合に二つの椅子とテーブルが置かれていた。受付には女性が一人、微動だにせず座っている。機械のようだ、俺は率直にそう思った。

「こんにちは。十三時からカウンセリングを予約した篠崎龍と申します」

 機械のような受付嬢は、イメージ通り抑揚のない声音で答える。

「かしこまりました。お掛けになり、少々お待ちくださいませ。当医院では患者様同士が顔を合わせることのないよう、予約時間には配慮いたしておりますので、その点はご安心くださいませ。どうぞ、ごゆるりと」…

 座り心地のよい椅子だった。西洋アンティークを思わせる年季の入ったものだが、センスが良い。院内には張り紙一つなく、チョコレートのような色の木目の壁がただ周囲を囲んでいる。

「こちらにご記入くださいませ。カウンセリング時の参考にさせていただきます」

 足音すら立てず、受付嬢は設問用紙を手渡しに来た。その雰囲気とは裏腹に、不思議と無愛想さは感じない。そもそも、彼女には何の感情も見受けられないからなのかもしれない。手渡された用紙は、実に簡素だった。住所氏名、相談内容の概要。カウンセリングの継続時に関しての日程の要望など、必要最低限の項目に絞られている。無用な愛想のないことが、かえって俺にとっては心地よかった。ものの三分で書き終わると、相変わらず無表情の受付嬢へと渡し、再び椅子へ戻った。煙草を吸いたいと思ったが、病院に喫煙所などあるはずもない。手持ち無沙汰な左腕をテーブルで遊ばせながら、声がかかるのを待つ。…

「篠崎様。お待たせいたしました。先生がお待ちでございます。どうぞ、こちらのお部屋へ」

 五分もすると、声がかかった。受付嬢の口調や声音は、どこか名家の家政婦を思わせる。まるで機械を演じているかのように、それは完成された芝居の一つにすら見えた。促されるまま部屋に入ると、長身で髪の長い女性が設問用紙を眺めながら、椅子の上で足を組んで待っていた。

「…ああ、どうぞ。掛けてくれ。先に断るが、私は敬語が苦手でね。不愉快に思わないでくれたまえ。悪意はないのだ。…了承いただけるかな、篠崎さん」

「構いません。失礼します」

 気怠い声だ、そう思った。正面の椅子へ腰掛け、改めて主治医を眺めると、その美貌に驚く。しかし、それをボサッと無造作に束ねた後ろ髪や化粧っ気のない顔、黒いクマに縁取られた涙袋が、不健康な印象で覆っている。

「ふむ、さて。まずは軽く自己紹介をしておこうか。私は河野真理という。看板にメンタルクリニックとある通り、精神科医だ。差し支えなければこれから君の主治医になる予定の、ね。早速だけど、設問用紙を読ませてもらったよ。相談内容は『自らの危険性について』とあるが、それについて話してもらえるかな。まあ、まだ信頼関係もできていないからね。気が向かないのなら君の好きなことを話してくれても構わないが」

 用紙から視線を上げた河野医師に、瞳を射抜かれる。その瞳は獲物を狙う猛禽類のように鋭い。好奇心に溢れている。この人の行動理念はきっと善意ではないだろう。俺はただ、そう直感した。

「回りくどい話は好きではありませんので、心配は無用です。そもそも相談をするためにここに来たのですから」

 柔らかい口調ではないと自分でも感じる。しかし、これが俺の素であり…何よりこの医師に対しては素で接してよい、そう思った。

「ふむ。わかったよ。冷静だね。そして合理的だ。聞こう」

 そう話す医師の薄い笑みは見方によっては不気味だ。妖艶とも、わざとらしい作り笑いとも捉え難い、初めて見る種別の笑みだった。蛇に睨まれた蛙などという馬鹿げた慣用句が脳裏に浮かぶが、俺は特に恐怖を感じているわけではなかった。むしろ、心地よささえ感じた。この女性はおそらく、取り繕うということをしない。誰に対しても。

「端的に言えば、俺の性的嗜好についてです。ネクロフィリアと言えばすぐに伝わるかと思いますが…詳しく話すと死体だけでなく、意識のないものにしか欲動が起こらないのです。現実的にそれが他害を加えたことはありませんが、俺は俺のその内側を危険視しています」

 ネクロフィリア。死体性愛。それこそ俺の内側に救う猛獣だった。この獣は、常に俺と同じ形で、同じ場所を、同じ時間を共有しながら存在している。俺はその暴走を恐れ続けている。万が一の場合、抑え切れるのか。自信はなかった。俺の話を聞いていた河野医師の瞳孔が少しだけ広がる。興味、だろうか。

「面白い。ネクロフィリアか。よく話す気が起きたね。まあ、それだけ君が君自身を危険視している証左なのだろう。それともう一つ。君、心理学の知識があるかい?」

「ほんの少し」

 大学で心理学を専攻していたこともあり、俺には若干の知識があった。職業にすることはしなかったが、そもそも自己理解のために専攻したに過ぎない。無論、それもこうして人の手を借りなければどうにもならない、という結論に至るまでの道筋を示すに過ぎなかったが。

「そうか。ならこちらもあまり噛み砕いて話す必要はなさそうだね。ありがたい話だ。私は話すのが得意ではなくてね。…わかりづらかったら遠慮なく問い直しておくれよ。……さ、前菜は終わりにしよう。メインディッシュといこうか」

「まず、君の思う危険性についてだが…少なくとも今私が君と話している限り、君から危険な香りは感じない。君は冷静で、理知的だ。それに私のような変人と初めて会話をするというのに、堂々とすらしている。自分でもわかっているとは思うが、まだ君は危機的状況にはないだろう。その点、どう思うか聞かせてくれないか」

「ええ、まだ制御下にあります。俺は俺をコントロールしている自信があります。ただ、先はわかりません。何か引き金があったら、俺の精神的バランスが崩れたら、倫理観が崩壊したら、…そうなったとき、俺は俺がどうなるかわからない。それが恐ろしいんです」

 河野医師が何かに納得したようにうなずく。その表情はどこまでも楽しそうだ。俺も、この場に何か得体のしれない楽しみを見出しつつあることを、否定することができなかった。自らの思いを、包み隠さず話せることはそれだけでも愉快だ。だが、そのような機会に恵まれることはそうないだろう。場合によっては、その肉体の死に至るまで一度も。

「なるほど、なるほど。制御下という言葉の使い方は非常に興味深い。君は君自身の一部を、制御しながら生きているのだね。それこそ猛獣を飼い慣らす調教師のように。…ああ、それは多くの人にとってもそうだが、それとこれとは意味合いが違う…その困難さもね。そこで君は君だけでその制御を行い続ける困難さ、不確かさに危機感を覚えたというわけか。そして私を訪ねた、と」

 白衣を着ていなければ、この人は狂人にしか見えないのかもしれない。そう思った。開いた瞳孔と溢れんばかりの愉悦を包み隠さずに露わにする河野医師を見ながら、俺は精神科の独房に隔離された狂人を幻視する。あるいはそれは、ファウストの狂気に近いのかもしれない。

「左様です。俺の、俺に対する制御に力を貸していただきたい。それがカウンセリングを受けようと考えた理由です」

「聡明だ。自らの限界を推し量り、そのリスクに対処を行おうとするのは実にすばらしい。それだけ君が君自身を危険視している、ということでもあるだろうけどね。さて、そろそろ時間だ。カウンセリングは決まった時間に始まり、必ず決まった時間に終わる。これは大切なことだ。まあ、私個人の見解としては君の話は興味深いし、このまま話を続けたいところだが、一応これでも医者だからね。ルールは守らせてもらうよ」

 瞳孔が狭まり、声音もどこか調子が変わる。特別な時間は終わったと、言わんばかりに。

「はい。それで構いません。では……」

「ああ、待ちたまえ」

 椅子を立ち上がり、出口の扉へと向かった俺の背中に、河野医師の鋭い声が刺さる。

「最後に一つ。君のソレは、本当に猛獣だろうか、どうだろうね。…また来週、ここで待っているよ」

「…………はい」

 最後の問いかけは俺の足を止めさせるのに十分な効力を持っていた。そして、俺はその問いに答える術を持っていなかった。ちらりと視界に入った河野医師の表情は、実に愉悦でたまらないといいたげに、笑っていた。

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