夏空

増田朋美

夏空

その日は朝から降り続いていた雨が数時間後には止んで、青空が見えるほど良い天気になった。其れなのに、入道雲が見えて、青く澄み渡った本格的な夏空ではなく、それがやってくるのは、もう少し先のことになりそうだった。

その日、蘭は、富士市で開催されている健康診断を受けるために、富士の中央病院という総合病院にやってきたのである。蘭が診断を終えて待合室に戻ってくると、待合室には先客がいた。一体誰だろうと思ったら、

「やあ、伊能君じゃないか。」

と、その人に声をかけられて、阿部君だと分かった。

「ああ、阿部君どうしたの?何か具合でも悪いの?」

と蘭が聞くと、

「いやね、うちにパンを習いに来ている生徒さんが、なんでもすごいけがをしたというので、来たんだよ。」

と、阿部君は答えた。

「怪我?一体なんだそれ。事故でもあったのか?」

と蘭が改めて聞くと、

「いや、それとはまた違うんだけどね。事故というより、事件と言った方がいいかもしれないね。なんでもその人が、今朝、包丁で首を刺して倒れていたのを、ご主人が見つけて通報し、今緊急手術をやっているところなんだよ。」

という阿部君。ということは、蘭もなんとなく予測できた。阿部君の教室に通っている人は、そういう訳ありのひともいるだろう。蘭は、まったく人騒がせだなとため息をついた。

「なるほど、そういう事ね。そういうことがあったのね。それでは、阿部君も大変だったね。」

蘭はそれだけ言った。

「まあね。この前もそういうことはあったけど、やっぱり僕たちが生徒さんのことを思ってやらないと。生徒さんが僕にとって本当に大切なひとであるということを示さなくちゃね。きっと、どっかで、自分はいらない人だと勘違いしているんでしょうから。」

と、蘭の言葉に阿部君は笑って答えた。

「そうさせてやらなきゃだめだよ。だから僕を叱咤激励しても意味がない。」

「そうかあ。でも、君だって、急に生徒さんに呼び出されて大変じゃないのかい?」

と、蘭は聞くと、

「いやあ、それはないよ。そんなこと言ったら、生徒さんが、自信をさらに無くす。僕らはしっかりとあなたが必要だと言ってやらなくちゃ。もう自分で何とかしろという時代は終わったよ。ちゃんと、あなたは他人とつながりを持っているということを、しっかり示してやらないと。」

と阿部君は答える。

「うん。それはわかる。わかるけどさ。でも、阿部君は正直自殺未遂なんかされて迷惑じゃないのかい?」

蘭は思わず言ったが、

「まあ、そんなことにかまけちゃいられないよ。其れよりも、うちの大事な生徒さんであることを示してやらなくちゃね。」

という阿部君。そういうことは、ある意味甘やかしではないかと蘭は思うのであるが、いずれにしても、生徒さんが、自殺を図って、首を切ったのだということは間違いなかった。

「しっかし、阿部君はよくそういう事で動揺しないな。」

蘭は、阿部君に別の視点から言った。

「いやあ、問題はここからだよ。もちろん、まず初めにけがを直してほしいんだけど、この後どうやってやり直すかを考えさせんなくちゃ。それはもう、一からしっかりやらせないとね。」

という阿部君は、何か考えている様子だった。

「それは、大事な生徒さんであるから?ちょっとそこまでしなくてもいいんじゃないの?」

と蘭が聞くと、

「いや、大切な生徒だからとかそれだけじゃないよ。ただ、一度自殺を図って一命をとりとめた人を、再度そっちへ行かせてしまうのは、何か規律に違反しているというか、いけないことをしているように見えるんだよね。だから、助けてやらなくちゃいけないなって。わからないけど、生徒さんのことは、そういう風に見えてしまう。」

と、阿部君の答えが返ってきた。其ればかりはある意味、阿部君の感性の問題だと思った。自殺ほう助が合法化されている国家のひとであれば、自殺したとしても何とも思わないと思うが、阿部君は少なくともそれはしてはいけないと思っているのだろう。

「君は、すごいことをするんだな。パン教室だけじゃなくて。」

蘭は阿部君にそれだけいった。

「あの、沢野寿子さんのお付き添いの方でいらっしゃいますでしょうか。」

手術着を着用した男性医師が、阿部君に声をかけた。

「あ、はい。そうですが。」

と、阿部君が答えると、

「ご安心ください。沢野寿子さんの緊急手術は無事に成功しました。後は、彼女が目を覚ませば大丈夫です。」

良かった、と阿部君はため息をついた。顔つきもそれまでの緊張感ある顔つきから、ちょっと崩れたようである。

「ありがとうございました。」

阿部君ではなく、本人がそういうべきなのではないかと蘭は思った。

「あの、失礼ではございますが、沢野さんのご家族は、お見えになっていらっしゃらないのでしょうか?」

と、男性医師は、当たり前の言葉を言った。

「ええ、それが、ご主人は、どうしても切られない仕事があるそうでして、先生がたの判断に任せるそうです。」

と、阿部君が答える。

「今のご家族と言えば、沢野さんはご主人だけでお子さんもおりません。ご主人は、仕事がお忙しいので来られないとおっしゃっておいでですので、何か事務的なことでしたら、代理で僕がします。どうしても家族でなければだめというとき以外の事でしたら、やってくれと沢野さんはおっしゃっていました。」

一寸待ったと蘭は思った。ご主人が沢野さんという女性にはいるということだ。それでは、家族であるご主人が、しなければならない手続きというのもあるだろう。其れなのになぜ?蘭は不思議に思った。

「わかりました。では、入院の手続きとか、代行していただけますか?とりあえず、沢野さんが目を覚ましたら、本人に、事情を話してもらいましょう。」

医師はそういうことを言っている。阿部君はそれよりも、気になっていることが在るようで、

「ええ、そうですね。それもそうですが、沢野さんのけがの度合いはどうだったのでしょうか?」

と聞いた。

「ええ、首を深く刺されたため、輸血により一命をとりとめました。希少な血液方ではなかったのが、せめてもの救いでした。後は大丈夫です。」

と、答える医師に、阿部君は、

「先生、どうか、沢野さんを一人にしないでやってくれますか。沢野さんはとても孤独だったと思います。」

と頭を下げるのであった。そんなこと言って何になるんだと蘭は思ったが、阿部君は、重ねてお願いした。同時に、病院の事務員が、すみませんちょっとこちらに来ていただけますかと、阿部君に言う。多分、入院費の事とか、これからの治療の方針とか、そういうことを話すのだろう。阿部君は、じゃあお願いしますと言って、事務員と一緒にどこかへ行ってしまうのである。蘭はその場に残った。なんだか、そのまま帰ってしまってはいけないような気がしたのである。

自殺を図ったかあ。誰かがそうしろとそそのかしたのか。それとも、テレビでも見て、そういうことをしようと思ってしまったのか。いずれにしても、自殺は周りのひとを巻き込んで、こうして迷惑をかけるのだ。でも、本人にしてみれば、それしか救われる手立てはないと思っているのだろうが。

そう考えているうちに、一人の女性看護師が、蘭の前を通りかかった。

「あれ、ここにもいないわねえ。あの、沢野寿子さんの付添人はどこに行ったのかしら?」

「ああ、あの、沢野寿子さんの付添人は、今事務の方と一緒に行きましたが?」

と、蘭が言うと、

「だったらすぐに戻ってくるように言ってください。もう沢野さんが、なんであたしを助けたのかって、泣き叫んでこっちも迷惑なんです!」

と、看護師は言った。ということは、意識を取り戻したのか。

「ちょっと待って下さい。今呼び出しますので。」

と、蘭はスマートフォンを出して、阿部君の電話番号を呼び出してみたが、病院内では携帯の電源は切っておいてくださいと、看護師が言ったので、連絡はできなかった。まったく融通の利かない病院だなと思いながら、蘭は、スマートフォンをカバンにしまう。

「まったく、阿部君も律儀に携帯の電源を切っておくなんて。」

と蘭は大きなため息をつく。

「あの、それでは、一寸お願いなんですけど、沢野さんのお付き添いの方の、知り合いでございますか?」

と、看護師はいきなり蘭に向かってそういうことを言った。

「はあ、あの阿部君のことですよね。彼とはたまたま、小学生時代同級生だっただけで。」

と蘭は正直に言うと、

「じゃあ、一寸こっちへ来ていただけますか。もう私たちも、なんで死ねなかったんだとうるさいくらいまくしたてられて困っています。何とかして彼女がしゃべるのをやめさせてください。」

と、看護師は蘭に向かってそういうことを言うので驚いた。え、阿部君じゃないんですかと口にする前に、車いすの方なら、そういう事も得意なんじゃないですかと、看護師は蘭を連れて、病棟まで行ってしまった。

「ちょっと何をするんですか、僕をいきなりこんなところに連れてきて。」

と、蘭は一応抵抗したのだが、車いすというのは、他人に捜査されると、自らの意志でコントロールできないということも知っていたので、蘭は動かされるまま、病棟の中に入る。

しばらく薬品のにおいで充満した廊下を歩いて、沢野寿子と名札が設置されている、病室の中に、看護師は彼を中に入れてしまった。

「えーと、あなた、お名前はなんていうんでしたっけ。」

と看護師は、初めて蘭の名前を聞いた。

「はい、僕の名前は伊能蘭です。」

仕方なく蘭が自分の名前を名乗ると、

「ほら、沢野さん。あの阿部さんのお友達の伊能蘭さんという方が来てくれたから、もうあたしたちに向かって泣くのはやめて、この人に言って。」

看護師は、沢野寿子さんにそういうことを言って、蘭をその場において、そそくさと病室を出て行ってしまった。そうかそういう魂胆か。障碍者というちょっと苦労しているように見える人物に、話をさせればいいんだろう、というものである。まったく、医療者というのは、こういうところに手を抜くのかと蘭はため息をついた。まあ確かにほかの患者のこともあるし、患者の内面に関しては一切手を付けませんという態度をとっておかないと、やっていけないということもわからないわけではないが。

「沢野寿子さんですね。」

蘭は、ベッドにいる患者さんに、そう声をかけた。

「沢野さん。」

沢野さんと言われた女性は、まだ、30代前半くらいの若い女性だ。確かに首の手術をした後だから、首には、包帯が厳重にまかれている。腕にもまだチューブが付いているし、まだ動けないようだ。それでも、今時の芸能人とはちょっとかけ離れた、能面のような顔をした、いわば日本的な美女だ。彼女は涙をこぼして、

「どうして、、、。」

としゃくりあげて泣いている。

「どうして、死のうと思ったのに、そうさせてくれなかったの?」

という彼女に蘭は、本当は本気で死にたかったのかと思った。すでに彼女は何回か前歴があるらしい。チューブではっきり見えないが、腕には切り傷がいくつかあった。

「あたしは、死んだほうが絶対、世の中楽になってくれると思えるのに、なんで邪魔するんですか。」

そうだねえ、確かにそう思うやつは、人に迷惑させるだけで、何も役には立たないよねと蘭は思ったが、それは言わないで置いた。

「あなたも、そう思ってくれるでしょ?死にたいという人は、迷惑だから、さっさと実行して死んでしまえばいいって。」

と、沢野さんは言う。まるで、蘭が思ったものが、今口に出されていわれたようだ。まるで、悟りの化け物のようだ。と蘭は少し怖くなった。

「ああ、思っていることを、すぐに言われてしまう悟りの化け物だと思ったでしょう?」

と沢野さんは言う。蘭は、より怖くなってしまったが、

「あたし、知ってるんですよ。今まで、本当に何回も死にたいって言っているから、周りのひとがどんな態度をとるのか、大体予測できるわ。」

と、沢野さんは言った。

「それだって、私にとっては邪魔なのよ。私は、ただ、もうこの世に生きているのはいやだから、さようならしたいのに。そうすれば、みんなだって、幸せになれるのに。」

蘭は、そういう風に考えるなら、その通りにさせてやった方がよくないかと思ったが、倫理的な手法では、そういうわけにはいかないのだった。なんでそんなことを思ってしまうんだろうと蘭が考えていると、

「車いすの人は、良く言いますよね。他人が自分の道をつくることはできないから、自分で精いっぱい生きろとか、そういうきれいごと。でも、私は、そういうことはできないから、そういうことを言うんだったら、私に死なせてね。」

と、沢野さんは言った。

「障害のある人は、そういうきれいごとが通じるからいいですよね。そして、そうやって手当てしてもらえるように法律ができている。でも、私は、精神障害者手帳も世間体が悪いって夫に反対されてるし、障害年金も、夫が今は暮らしていけてるから必要ないと言って受けさせてもらえない。なんで、あたしが、こんなにつらい思いをしているのに、それは実行させてくれないのかしら。そうすれば、あたしの事なんてあの人はかまわないで済むのに。」

と、沢野さんは話を続ける。沢野さんは、きっと自分の望んでいることと、ご主人がしていることとで合致しないのだろう。それで生きる気力もなくなってしまうのだろう。

「まあね。確かに、変な風に理解してしまう家族もいますよね。」

蘭はそれだけ言った。

「確かにそれもわかります。家族が、福祉制度とかそういうことを理解していなかったり、世間体のことを気にしてほかの機関に相談を求めないということもあります。そういう人が、いわゆる8050問題ということになるのでしょうか。まあ、そういう無理解で死にたくなる理由もわかりますよ。それはお辛かったと思います。」

沢野さんの表情が急に変わった。

「そうなのよ。あたしは、もうそういうわけだから、生きていかれないの。そういう事なのよ。だからあたしなんて死んでもいいって。」

そういうことを言っているが、沢野さんの心が、今までとは違う気持ちになっていることがわかる。

「そうかもしれませんが、僕はそれだからと言って、勝手に命まで投げ出してしまうのはどうかと思います。」

とりあえず蘭は、そういうことを言ってみる。

「やっぱりそうよね。」

と沢野さんは言った。

「みんな、そういうことを言うわ。でも、あたしは、これ以上何もしていないという生活が、耐えられないのよ。主人は仕事をしていて、とりあえず主人が定年するまでは、お金は入ってきてくれる。それで障害年金はいらないというけれど、そういう意味で言っているんじゃないの。あたしは、主人から援助してもらっていると周りのひとに冷たい目でにらまれるのが耐えられない。其れだったら、別々にしてと言いたいのに。でも、そういうことをするんだったら、パン教室やめろとか、そういうわけのわからないことを言う。なんで私の気持ちは通じないんだろう。それでは、もう私がこの世の中から消えるしかないじゃない!」

そうか、そういうことだったのか。確かに、経済的には夫の資金で暮らせるというのだから不自由はしていないけれど、そういう人特有の居心地の悪さということに関しては、なかなか慰めてくれる人はいないというのが現状である。それを苦にして彼女は自殺をしたいと言っているのだ。

「僕は、そういう人、たくさん見てきました。そういう人の本当につらい気持ちに寄り添ってやっているかは不詳ですが、少なくとも、彼らの体に神仏や花を入れることによって、それらが守ってくれていると解釈してもらうことで、ほんの少しでも生きていくというように考えを変えていってほしいという気持ちで、彫ってきました。」

蘭は、正直に自分の職業を言った。

「皮肉なものですね。外で、精神に異常があって、働く場所がない。かといって、ご主人に完璧に保護してもらう生活になると、居心地が悪いと感じる。人間は、幸せを

感じるというのは、非常に難しいんだと感じます。だから、誰も自分のことを思ってくれる人がいないと思って、死んでしまいたいと思ってしまうわけだ。世間では、親や家族に養ってもらっていいねと言われて、かといって、手段がないから奉公口を探すこともできない人を、僕はたくさん見てきました。そういう人の中には、大きな災害でもない限り変わることはないという人もいて、中にはあなたのように、こんなみじめな人生しか送れないのなら死んでしまいたいとはっきり言った人もおられましたが、僕は、神仏が守ってくれていると思えと言い、彼女たちの背中に観音像などを彫ってきました。」

彼女の表情がどっと崩れていく。やっと彼女は、そういうことを言ってくれる人に巡りあえたと思っているのだろうか。それとも蘭を、疑いの目で見ているのだろうか。

「もちろん、入れ墨と言いますと、やくざとか、悪人のすることだという人も多いでしょう。けど、そういう風に、良いことだと考えることもできるんです。」

「でもあたし、そういうことはできません。余計に、悪い奴だと思われちゃう。」

沢野寿子さんはそういう事を言っている。

「もちろん、それをしろと言っているわけじゃありません。ただ、僕は例として言ったっだけの事であって。それは仕方のないことでもあるんですよ。でも、あなたは完璧に一人ぼっちではありません。それをわかってほしいという思いが、僕にはあります。」

「一人ぼっちではない?」

沢野さんは、一寸何を言っているんだという顔をして蘭を見た。今まで事実を言ってくれたのに、なんで裏切るような発言をするのかという感じの表情だ。でも、蘭はかまわず話をつづけた。

「だって、あなたをここの病院に入院させようとしてくれた、パン教室の阿部慎一さんがいるじゃありませんか。彼が、なぜあなたに緊急手術を受けさせてくれたのか、なぜ、ご主人の代わりに、入院手続きをしてくれているのか、もう一度考え直してみてくれませんか?」

いつの間に、雨はやんでいた。

空は、鋭いくらいの日差しが降り注いでいる。夏空がやってきたのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏空 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る