野の花

 苔むした石で縁取られた小道に、木々の揺らぎによって光が重なる。

 一樹と雪姫の同じだった歩調が崩れ、雪姫が駆けだす。そこを抜けた先には水をたたえた美しい泉水せんすいがあった。雪姫は勢いのまま水際まで近づいた。


杜若かきつばたをこのように近くで見たのは初めてです」


 鳥が羽ばたいているような青紫の花の杜若が水中から茎を出していた。その奥には、円形の睡蓮すいれんの葉が水面を覆い隠し、白と桃色の天を指した花が水面に浮かんで咲いていた。

 しゃがんで眺めていた雪姫の隣に一樹もしゃがむ。


「今まで池に近づけなかったの?」


「幼き頃より危ないゆえ、ちこう寄ってはならぬ‼ と言われておったので」


 雪姫が乳母うばの声をして言った。


「そうだったんだ! この景色見たら雪ちゃん喜ぶなって思ってたから、見せてあげられてめちゃめちゃ嬉しい!」


「めちゃめちゃ……? 聞いたことのないお国訛くになまりですね。最初にお会いした時から、どこのお国の方かなと思うておりました」


「あっと、えーっと、ここよりめちゃめ……すっごく遠いとこから来たんだ! 僕と真君」


「ここには花卉かきの勉強をしに来られたのですか?」


「うーん……それが、真君と国元にあった岩穴で雨宿りしてたはずなんだけど、なぜかこっちの岩穴の前で倒れてたらしくて、霧島屋の人に助けられたんだ。起きたら違うとこにいるんだもん、驚いたよ! 何度かその岩穴に入ってみたけど、帰れなくて……変な話っしょ!」


「……その岩穴はどちらでしょうか?」


 軽い口調で話す一樹に反して、雪姫は真剣だった。


「ここから佐根藩中屋敷に行く途中にあるんだ。林の中に小さい祠があってね……」


「佐根藩中屋敷に行く途中の祠と岩穴……。それは……」


 雪姫はしばし思いを巡らせ


「もしかしたら、私のせいかもしれませぬ」


 と自責じせきねんにかられた面持ちで言った。


「え?」


「西国からこちらへ参った折り、その小さい祠の前で駕籠かごを止めました。祠に手を合わせ、誰か私をどこか遠くに連れて逃げて欲しいと願いました」


「どうして?」


「私は先々の覚悟がまだできておりませんでした。このような自分勝手な願いで、お二人をお父上、母上様と離ればなれにしてしまったのなら……大変申し訳ございませぬ」


 雪姫は深々と頭を下げた。



「大丈夫だよ。本当に雪ちゃんの願いでこっちに来たかは分からないけど、こっちに来られてよかったと思ってる! 真君はあっちにいた時より生き生きしてるし、俺はこっちで雪ちゃんとか大切な人がいっぱいできたし!」


 そこへ職人が走ってやってきた。


「ああ、やっと見つけたぜ! 旦那が、めしが出来たから外で一緒に食べませんかって」


「わあ! おいしいから一緒に食べようよ。雪ちゃん!」


 息も絶え絶えの職人を気にもせず、一樹が元気よく言った。


「そうですね……折角ですし」


 雪姫は何かを案じていたが、承諾した。


「走って伝えに来てくださり、ありがとうございます」


「へへっ、何のこれしき……付いてきなっ」


 

 着いた先は四本の立派な柱に支えられた茅葺屋根の休憩所だった。


 そこでは職人達と真が七輪を取り囲み、政武とおきよさんは腰掛けに座り、それを楽しそうに眺めていた。


「すみません。お食事までいただくことになってしまって……」


「いえいえ、この者達が姫君様に美味しいものを食べて頂きたいとお願いしてきたので」


 政武が敷かれた茣蓙ござに座るように促す。


「あっしが、おきよさんにうめぇもん作ってくれって頼んで」


「それであっしが鮎を川で捕って来て」


「俺が七輪持ってきて串刺して塩振ったんでぃ!」


「あっしだって姫君様迎えに行ったぜ!」


 職人たちが勢いよく各々おのおのの働きを雪姫に自慢するが、真は黙って七輪の炭火の加減を調整していた。


 鮎は締まった身をくねらせ、今にも泳ぎだしそうな のぼり串。背中の盛り上がっている辺りは皮が裂け、脂がプツプツと踊っていた。


「もうそろそろ食べごろでしょう。姫君様のお口に合うか分かりませんが……」


 政武の合図に、おきよさんがおにぎりと鮎がのったお皿を雪姫に手渡した。雪姫は丁寧にお礼を言って受け取り、他の者が食べるのを横目で見ていた。

 それに真が気付いて


「串に刺さってる魚なんて食べませんよね。取りましょう」


 と言うが


「いえ、私も皆様と同じように食べてみとうございます」


 と断り、串を手に取った。


 まずは鮎の背の部分にかぶりつく。塩で化粧された黄金色の皮がパリッという音を立て、ホクホクとした身の温かさが口いっぱいに広がった。

 串を置くと次はおにぎりを手に取った。味噌がたっぷりと塗られたおにぎりは表面が軽く炙られていて、香ばしい食欲をそそる匂いがした。大きく一口ほおばって、甘辛さをしっかりと味わった。

 雪姫は、皆に囲まれている自分の心がほどけていくのを感じた。

 

 そこへ


「いい匂いがすると思ったら! てめぇら! また抜け出しやがって!」


 亀吉が大股でやって来て四人を叱る。


「政武の旦那もこんなところで何してるんすか!」


「だってねぇ、美味しいもの召し上がって頂きたいじゃないか」


 政武が職人衆に同意を求め、四人と一樹は、食べ物を口に入れたまま激しく首を縦に振った。亀吉はあきれた様子だったが、


「公方様が御成おなりです。お早く」


 と素早く報告し、方向を変え去っていった。


「公方様……? お父上は私を迎えに来られたのでしょうか?」


 雪姫が言うと


「姫君様はここにおられるゆえ、安心してくださいという手紙を公方様に届けてもらいました。姫君様に内緒でお知らせしたことをお詫びいたします。……公方様はお庭をご覧になっていることでしょう。さあ、ゆっくり食べてから、ゆっくり参りましょう」


 政武はそう言い、食事を再開した。

 鮎とおにぎりには似合わない、淡い桃色のシャクヤクがこちらを覗いていた。


 


 

 お供を一人付け、馬でやってきた徳川吉宗は二人だけで話がしたいと言い、霧島屋の滝の前に雪姫を呼んだ。


紫苑しおんをここに取りに参ったと聞いた。手に入ったのか?」


「はい。霧島屋の皆さんがよくして下さいました」


 遠慮気味に話す雪姫の様子を見て吉宗は


「野の花は野に帰さねばならぬかもしれぬな」


 滝の音にかき消されそうな声で言った。


「雪のままでおりたいのなら、城に帰らずともよい。好きに暮らすがよい。私はこのまま帰るといたそう」


 吉宗の提案に、雪姫は吉宗の目を見て


「私がこのまま雪に戻れば、困るものが大勢おります。私は決められた己の天命を全うしとうございます」


 とはっきり言った。


「だが、奥を抜け出しここまで参ったのは紫苑のことだけではあるまい」


「私はここに参って、ここの者達と話し、確信いたしました。私は自分一人の幸せより、たくさんの者の笑顔が見とうございます」


 雪姫の口調はそれまでにない強いものだった。


「本当に良いのじゃな?」


「はい」


「……相分あいわかった。ならば駕籠かごを用意いたそう」


 

  

 

 雪姫は見送りに来た霧島屋の人々に礼を言って、駕籠に乗った。駕籠には華やかな装飾がされており、庶民と変わりない恰好をしている雪姫とは不釣り合いだった。

 駕籠が持ち上がると、霧島屋の人々は一斉に深々と頭を下げたが、一樹は立ち尽くし、駕籠が離れていくのをじっと見つめたままだった。


「このままでいいのか?」


 皆が中へ入り、姿がなくなると真が一樹に叱責しっせきする。


「今なら追いかければまだ間に合う。俺、吉宗様が雪姫から雪に戻っていいって言ったのを聞いたんだ。追いかけろよ!」


 一樹の肩を掴み、たたみかける。


「未来から来てせっかく会えたのに、これを運命っていうんじゃないのかよ!」



「運命でも正解じゃないことだってあるんだよ……」


 と一樹の声はうるんでいた。


 


 

 一樹が仕事に戻ろうときびすを返した頃、城に向かっていた駕籠では、


「お願いがあります。この先の岩穴の祠まで連れて行ってください」


 と雪姫の声がした。

  

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