龍と蛇

 城に行った日から1か月が経った。

 一樹と真は何度か岩穴に入ってみたが、いまだ現代に帰れずにいた。

 最初のうちは過酷な仕事による筋肉痛で、歩くたびに悲鳴をあげていた一樹も今では職人衆と引けを取らない仕事ぶりになっていた。

 真は染井村で一番頭がいいと評判になり、ある時は算盤そろばんを片手に霧島屋の勘定係、またある時は政武に勧められて近所の子どもが通う手習所てならいじょの手伝いにと走り回っていた。

 そんな水無月の晴れた日。


「ありがとな! 兄さん!」


「ありがとうございました」


 真は朝一番の客を見送り、次の仕事に移ろうとした。


「もし、紫苑しおんの花はどちらに?」


「ああ、紫苑なら……」


 真は声の方を向くと、はっと息をのんで動きを止めた。

 そこには、笠を被り、鴇唐茶ときがらちゃ色の木綿に青海波せいは柄、くるぶしが見える丈の小袖を着た雪姫が立っていた。


「ひ、姫君様⁉ どうしてここにいらっしゃるのですか ? お一人で?」


 真は他の人に聞こえないよう、ぎりぎりの音量で言った。


「早朝に城を抜け出し、宿下やどさがりの女中にここまで案内してもらったのです」


 雪姫はいたずらっぽく笑った。


「とりあえず中に……」


 雪姫お一人での訪問は真から一樹と亀吉に、亀吉からおきよさん、おきよさんから政武に伝えられ、雪姫は一番奥の部屋に通された。


 真と政武と雪姫は正座し、何を切り出せばよいのか分からない様子で皆、黙っていた。

 奥の部屋には客の声も届かなかったが


「姫様ー! 紫苑、持ってきたよー!」


 という元気よい一樹の叫び声が静寂を壊した。一樹は慌てて草履を脱ぐと縁側から部屋に上がり、雪姫の前まで忘れず草を持ってきた。

 「はい!」とかめに植えられた苗を差し出す一樹に、雪姫は呆気にとられた後、微笑む。


「ありがとうございます。ですが、今日は姫はやめてください。雪という一人の女子おなごとして参ったのですから」


 と紫苑の苗を受け取った。


「そっか! じゃあ何て呼べばいい? 年はいくつ?」


 一樹は幼子に聞くように言った。


「十八になります」


「じゃあ、雪パイセン!」


 聞きなれない言葉に雪姫と政武は目を丸くし、真が慌てて一樹に耳打ちをする。


「数え年だから、たぶん俺らと同年齢だよ」


「え! 同い年? じゃあ、雪ちゃんって呼ぶね!」


 真は一樹の無礼を止めようとしたが、雪姫は手をぽんと叩き、


「まあ! それはいいですね!」


 と天真爛漫てんしんらんまんに笑った。


「何で雪ちゃんは紫苑が欲しかったの?」


 それを聞いた雪姫はとつとして眉をひそめた。雪姫の様子を見て政武が、


「一樹、花を求めるのに理由は必要ありませんよ」


 とさとしたが、「いえ、良いのです」と雪姫は自分の身の上について話し始めた。


「……わたくしは上様の養女となるために桜が満開の頃、西国より参りました。私が十五の夏、国元では二ヵ月にも渡る長雨が続きました。米が不作になった上に、できたわずかな米にも虫がつき、食べるものが無く、多くの者が亡くなりました」


 雪姫は床に視線を落としながらゆっくりと話した。


「その中、私は何も出来ず、幼き頃に遊んだ友を亡くしてしまいました……。今はこちらで何不自由ない暮らしをさせて頂いておりますが、あの時の悔しさや悲しさを忘れないよう、忘れず草の紫苑をそばに置いておきたいのです」


「……つらいこと思い出させちゃったね。ごめんね」


 一樹が雪姫の顔を見ると、雪姫は小さく首を横に振った。重い空気だけが部屋に流れた。


「そういえば、何で紫苑って忘れず草っていうんだろ?」


 一樹が気まずさから、沈黙を破った。


「平安時代の今昔物語に紫苑が思いを忘れない草として出てるよ」


 真もこのチャンスを逃すまいと早口で答えた。


「今昔物語って、授業で聞いたことある。今は昔ってやつだっけ?」


 一樹が言うと、真は一樹にも分かるように説明し始める。


「そう。今は昔ってやつ。紫苑のお話はね……昔、二人の兄弟とそのお父さんが幸せに暮らしていました。ある日お父さんが亡くなって、二人の兄弟はお父さんのことを思って嘆き悲しむんだけど、数年経った頃から兄と弟はすれ違い始めるんだ」


「すれ違っちゃうの?」


 一樹が小声でがっかりする。


「兄はお父さんのことが頭から離れなくて仕事に集中できないから、思いを忘れさせてくれる『萱草かんぞう』を墓の傍に植えた。弟は忘れようとする兄を見て、自分は絶対お父さんとの思い出を忘れたくないと、思いを忘れさせない『紫苑しおん』を植えた……こんなお話」


 話し終わった真に一樹が「すげー!」と拍手を送る。


「真さんのお話はとても分かりやすいです」


 雪姫の感想に真は戸惑いながらも嬉しそうだった。政武も感心した様子で頷き、


「紫苑はおもぐさおに醜草しこぐさとも呼ばれております。これも合わせて覚えておくといいでしょう」


 と付け足した。


 場が和やかになったところにお腹が鳴る音がした。


「すみません。朝から何も食べていないもので」


 雪姫がはにかんで笑った。


「それはいけません。何か作らせましょう」


 政武の提案に一樹が


「それがいいよ! おきよさんが作るおにぎりおいしいよ!」


 と顔の前で両手の指先を合わせ、おにぎりの形を作る。


「ありがたいお話ですが、もうそろそろ帰らねばなりません」


 と姫が断ると


「そりゃいけねぇ!」


 と障子の向こうから声がした。「誰?」と一樹が両手で障子を開けると、そこには若い四人の植木職人が立っていた。


「庭を見ねぇでけえるなんてもったいねぇ! あっしが案内しやしょう!」

「おめぇ ずるいぞ! あっしが案内するんだ!」

「いや俺だ!」

「じゃあ あっしも」


 と四人が言い合いを始めると亀吉が


「てめぇら‼ いねぇと思ったらこんなとこに居たのか! 誰から聞いたかわからねぇが仕事に戻れ!」


 とたちまちに四人の襟を掴んだ。


「でも亀吉さん! あっし、姫君様にお庭を案内しなきゃいけねぇんです!」


「ああ 一樹が案内すっから、おめぇらはいい!」


 四人は亀吉にずるずると引きずられていった。


「どうです? 四人もああ言っていることですし、せめて庭をご覧になられてから帰られては?」


 政武の声は陽だまりのように温かだった。雪姫は期待に胸を膨らませた一樹の視線に負け


「……そうですね。見ないなんてもったいないですね」と応えた。


 


 

 霧島屋の庭を 一樹は弾むような足取りで雪姫の少し前を歩いた。


「さて雪ちゃん問題です! これは何でしょうか?」


 一樹と雪姫は霧島屋の大きなつくり木の前に立っていた。


「問うておるのですね? ふむ。虎と……?」


「そうだよね……」


 と一樹は肩をおとし、二つのつくり木を順番に指さした。


「実は虎となんだ。茂松しげまつさんが毎日手入れしてるんだけど、僕が手伝いをした時に龍って気付かなくて手を剪定しちゃって……」


「茂松さんはなんと?」


「龍から手を取っちまったら、地をうことしか出来ねぇただの蛇じゃねぇかってちょっと怒っただけで、許してくれたんだ。毎日大切に手入れしてたのにだよ……」


「優しい方なのですね。でも、蛇はまた自由に空を飛びたいと、すぐに手を生やしましょう」


 と雪姫のやわらかな声は風に乗って一樹に届いた。


 二人は空を見上げ、つくり木の龍が雲を切って泳ぐのを想像して笑った。


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