誰得師匠
吟遊蜆
誰得師匠
今日も劇場の楽屋は誰得師匠のおかげでてんやわんやである。楽屋口から出たり入ったりしながら、トイレへ行った一瞬の隙に連れてきた鳩がいなくなったと誰得師匠が騒いでいる。担当の新人マネージャーを呼びつけては鳩の生態を語って聴かせ、劇場の女性スタッフを捕まえては鳩の餌代がいかに高くつくかを熱弁する。
三十分ほどスタッフ総出で探索させたのち、楽屋でのんびり煙草を吹かしている誰得師匠にマネージャーがおそるおそる声をかける。
「すいません、まだ見つかってなくて……」
新人が怒鳴られるのを覚悟してほとんど目をつぶりながらそう言うと、誰得師匠は驚くべき返答をしれっと口にした。
「ああ、鳩ならここにあったよ」
そして誰得師匠は何やら黄色い紙袋をマネージャーに渡す。マネージャーはその中身を見てしっかり首をひねったのち、ふと何か決定的な事実に気づいて顔面蒼白になる。
「師匠、鳩ってまさかこれ……」
「ああ、机の脇に置いといたのを、すっかり忘れとったみたいでね。見つかって良かったよ」
「だってさっきはあんなに、実際の鳩にまつわるお話を熱心にされてたじゃないですか……」
「まあ、あれは退屈しのぎの豆知識だよ。誰も探してるのが動物の鳩だとは言ってない。それに私はマジシャンじゃないから、実際の鳩なんかステージで使うわけがないだろう」
そう嘯いては、さっそく黄色い袋から取り出した黄色い缶を開封して鳩サブレーをポリポリやりはじめた誰得師匠を尻目に、新人マネージャーはいまだ絶賛鳥類捜索中のスタッフらへの事情説明と謝罪のために楽屋を飛び出してゆく。
誰得師匠はこうやって誰も得しない嘘ばかりついているからそう呼ばれている。本人のいない場面で、彼のことを今さら芸名で正しく呼ぶ人間はこの劇場にはひとりもいない。厄介なのは彼がステージの上ではひとつも嘘をつかないところで、後輩芸人たちも嘘なら舞台上でついたほうが芸になるのに、と訝しがっている。
しかしそれでは嘘が芸になり商売になり、嘘によって自分自身が得をしてしまうことになる。誰得師匠は誰も得しない嘘しかつけないからこそ誰得師匠と呼ばれているのであって、自分が得をする嘘のつける人ならば最初からそんなふうに呼ばれはしない。
誰得師匠が誰も得しない嘘をつくようになったのは、幼少期のトラウマが原因だと言われている。彼は生来とても正直な子供であったが、ある日森で宇宙人を見たことを周囲に話すと、その日から誰もが彼を嘘つき呼ばわりするようになった。両親すらも例外ではなく、彼が100点満点の答案用紙を持ち帰っても、「はいはい、どうせ嘘でしょ」と決めつけ目の前で答案をちぎって捨てたという。
おかげで彼は本当のことを口にするのを極度に怖れるようになり、リアリティのない100点満点のテストよりも、わざと何問か間違えて87点の答案を親に見せたほうがまともに取りあってもらえるということを学んだ。その頃の彼は、前カゴに何かを入れてよく自転車を走らせていたという。
この段階で両親がもう少し慎重に対応していたら、少年はのちに誰も得しない嘘をつく人間になったりはしなかったのかもしれない。だが本当に恐ろしいのは、この幼少期のエピソード自体が丸ごと全部嘘であるということのほうだろう。
このトラウマ話は、誰得師匠が楽屋に寝転んでとある名作映画の再放送を見ながら考えた話であり、だからそのはじまりには宇宙人が出てきて終わりには不自然なタイミングで自転車が登場する。ちょうどテレビの前でビールとつまみをやりながら鼻くそをほじりつつこの嘘話の後半を考えていたあたりで、前カゴにしわくちゃの宇宙人を乗せた自転車が画面内の空を駆けていたと思われる。
新人マネージャーがひととおり謝罪を済ませて楽屋へ戻ると、すでに出番が迫っているにもかかわらず、そこに誰得師匠の姿はなかった。あるいは早めに舞台袖にスタンバイしているのかと思い、マネージャーがそちらへ向かったところへ、携帯に誰得師匠からのメールが入る。
《ちょっと外で事故にあって1時間ほど遅れる。出番順変更されたし》
慌ててマネージャーは誰得師匠に電話をかけるがいっこうにつながらない。マネージャーは劇場スタッフに事の次第を伝えに走り、他の芸人やマネージャーらに頭を下げまくって誰得師匠の出番順を後ろへ後ろへと精一杯ずらしてもらうために奔走する。
誰得師匠は師匠とこそ呼ばれているものの、それは無駄に芸歴ばかり食っていることを揶揄されている向きもあって、実際にはまったく売れていないため本来の出番順は大トリでもなんでもなく頭から3番目である。
そして調整に調整を重ねた末に、ようやく誰得師匠の出番順を最後から2番目に変更してもらうことに成功した新人マネージャーが舞台袖の様子を見にいくと、ステージには本来誰得師匠が出る予定であった3番手の芸人がすでに登場していた。
しかしステージ上にいたのは、間違いなく誰得師匠その人であった。本当に誰も得しない嘘しかつかない人である。そのときの新人マネージャーはまるで、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔。
誰得師匠 吟遊蜆 @tmykinoue
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