代役 4

 兵垂 勇(へいたれ いさむ)はこの勇泉高校の教師である。


 いや、唯の教師ではない。この勇泉高校をずっと陰から支えてきたベテラン教師である。


 そんな彼は、自身を誇らしく思っていた。


 教師としての道は険しく、時には挫けそうになった事もあったが、それでも彼はこの仕事を辞める事はしなかった。


 やり甲斐を感じていたからだ。


 この勇泉高校の生徒はとても素晴らしい。無遅刻無欠席無早退。授業態度は真面目で、教える方も身が引き締まる程だ。


 今日も兵垂勇は出勤する。いつも通り、いつものように、変わらぬ日常。彼はそこに満足していた。


 そしていつも時間に職員室を出て、教室へと向かう。


 今日もまた、平和な日々になりそうだ。


 そんな兵垂勇の思いは、直ぐに潰える羽目になった。


 それは朝のホームルームが始まる時間帯の事である。


 ウゥゥゥン!ウゥゥゥン!


 けたたましいサイレンが教師の声しか聞こえない物静かな教室に響き渡った。


「何だ!?」


 彼はそのサイレンに狼狽し、あたふたとキョロキョロする。


 その反応に、生徒達も何事かとざわつき始める。


 その時、校内放送が一斉に流れた。


 火災発生。火災発生。速やかに生徒は避難を行なって下さい。教室は__。


 その瞬間、放送がいきなりぷつりと切れた。


「何だ!? どうなってるんだ!?」


 兵垂先生は長年使われていなかっただろう放送用スピーカーをまじまじと眺めた。


 もしかすると全く使われていなかった所為でこのスピーカーは壊れてしまっているのかもしれない。


 そう思うと不安になったが、生徒達の手前、余りに狼狽えてる姿を見せるのは教師としての立場を失くす恐れがある。


 兵垂先生は自分にそう言い聞かせて毅然とした態度を取るように心掛ける。


 すると、ガガッというノイズと共にまたもや音声が入った。それは肉声だった。


「大変失礼しました。只今の火災警報は誤報となります。今の所、火災が起きている教室はございません。ご安心下さい。繰り返します__」


「な、何だそれは!? 本当に大丈夫なのか!?」


 兵垂先生は初めてここでパニックになってきた。心臓が否応なしに鳴り続ける。


 兵垂先生が臆病である事は、自身の経験上良く理解していた。そして、それは心臓に良くない負担を掛けていることも。


 兵垂先生は焦りと冷静さの板挟みに合いながら、生徒達に声を掛ける。


「皆さん! ちょっと状況を確認しておくので少し待機を__」


 その時だった。


 ぽーんと、窓の隙間から野球ボール程の大きさの黒い物体がいきなり飛び込んできて、床に転がった。


 カチッカチッカチッと、時計の針が動くような音が教室に木霊する。


 この時兵垂先生は無意識に叫んだ。


「ふ、伏せろぉぉ!!」


 兵垂先生は慌てて教壇の下に隠れた。それに続いて生徒も机の下に身を屈めようとしたが、時既に遅し。


 ピピーッ!!


 けたたましい電子音が響いたと思った瞬間、その"何か"はふうせんが割れるような音と共に弾けた。


 その瞬間、教室の中が白い暗闇__矛盾してるが__に包まれた。


 兵垂先生はズボンのポケットからさっとハンカチを当てると、体勢を低くした。


「一体何だこれは!? おい早く窓を開けるんだ!! もしかしたら毒かもしれん!! 絶対に吸わないように!!」


 生徒達に注意換気を促しつつ、兵垂先生は願うのだった。


 自分の身に何か起こりませんように、と。


 その願いが叶ったのか、少しずつ白の世界はいつもの風景に戻って行き、兵垂先生は少しずつ顔を上げた。


 この白い煙の正体が何かは分からないが、特に身体に影響は無い。目くらましの一種なのだろうか。


 その時、窓際の一人の生徒が声を上げた。


「お、おい!! あれ見てみろよ!! 何だよあれ!!」


 それに釣られて窓際に人が集まって行き、皆それぞれ驚嘆の声を上げる。


「ど、どうした!? 何かあったのか!?」


「ふ、噴水の水が……紅くなってます!!」


「は、はぁぁ!?」


 兵垂先生は理解も覚束ないまま、窓際へと向かう。


 そして彼は見たのだった。


「な、なんじゃありゃぁぁ!?」


 この学校に細々とした装飾で彩られた噴水があった。その水はいつも透き通るような色をしていたが、今日は違う。


 その水は、血のように赤いのだ。まるで、誰かが血でもひたすらに混ぜ込んでいるかのように。


「せ、先生!! も、もしかして……!?」


「馬鹿を言え!! そんな事ある訳無いだろう!! 取り敢えず今日はこの授業自習とする!!」


 兵垂先生はパニックに陥りながら教室を出た。向かう先は職員室で有る。


 急いであの噴水に向かってもいいが、もしもの時に第一発見者にはなりたくないし、これ以上面倒に巻き込まれるのは御免だ。


 なので職員室でふと窓を覗いて発見すれば誰からも変な目で見られる事は無いだろう。


 だが、それは全ての教師が同じらしく、職員室には教師の群れが出来ていた。


 皆、慌てた様子で他の教師と話し合っている。


 その時、一人の若い教師が自分に気付いた。確か名前は老田だったはずだ。


「あ、兵垂先生! 貴方もとりま職員室って感じですか?」


「とりま……? あ、あぁ……まぁそんな感じだ」


 とりまの意味が分からずも、何となくその場の勢いでそう言った。すると、老田先生はうんうん頷いていた。


 まるで、そうだろうなと言われてる気がした。


「なぁ、この騒ぎの事何か知ってるか?」


「あぁはい。恐らく生徒達の悪戯ですよ」


「い、悪戯!? この学校でか!?」


 兵垂先生は驚いた。


 悪戯が起きた事にではない。悪戯をするような心の持ち主がこの学校に存在していた事に驚いたのだ。


「こういった事って今まで無かったんですか?」


 老田先生は平然とそう聞いた。


「無論だよ。私も長年ここに勤めているが、こんな事は初めてだ」


「それ、ここにいる年配の教師全員言ってますよ。なるほど。だからこんなに慌ててるんですね」


 感心したように辺りの教師を見つめる老田先生に、兵垂先生は疑問をぶつけた。


「何だ? 老田先生は経験あるのか?」


 すると老田先生は苦笑した。何だかあまり思い出したくない様子だった。


「こんな事は普通の学校__特に小学校や中学校ではしょっちゅうですよ」


「そ、そうなのか!?」


 兵垂先生は目を丸くして驚いた。悪戯なんて、本当にする奴が居るのかと思った程、彼の世界には縁もゆかりも無かった。


「本当に兵垂先生は経験無いんですね。それはある意味、良くもあり悪くもありって感じだと思いますけど」


 老田先生は意味深にそう呟いた。その意味が、兵垂先生には理解出来ず固まっていると、校長室の扉がゆっくりと開いた。


「さて、どんな結論を出したのか。これは見ものですね」


 まるでこの状況を楽しんでいるような一言を発して、老田先生は視線を校長室へと移した。


 出てきたのは、浮世校長、長谷川教頭、そして冬香理事長の三人だった。


 この三人が揃い踏みするなんて状況は深刻なのかと兵垂先生は不安になった。


 だが、神々しくもある三人がいればこの場はきっと解決するだろうという気にもなった。


 キリッとした顔の冬香理事長は職員室で言葉を待つ教師達の顔を見渡し、溜息を吐いた。


「今起きている様々な騒ぎは、ただの生徒の悪戯です。ここに教師が殺到しているようでは、学校側としての面子が保てません。今すぐ戻りなさい」


 冬香理事長は少しげんなりした表情になった。悪く言えば、馬鹿にした風だった。


「で、ですが理事長! この騒ぎを放っておいて良いのですか!?」


 一人の教師が怒りを露わにしながら叫んだ。


 それに答えたのは浮世校長である。


「落ち着きなさいな。その事は私達に任せて下さい。教師が何よりも優先すべきは生徒ですよ。教室に残しておいては不安が募るだけです。早く行ってあげて下さい。でも、行くなら堂々と、毅然とした態度でね」


 そして浮世校長は高らかにフォッフォッフォと笑った。


「で、ですがこの騒ぎをどう説明していいのでしょうか。誤魔化すにしても誤魔化しが効かない気がしますが……」


「はっはっは。誤魔化しも説明も要りませんよ若造先生。先生達は__いえ、私達はこれまで通りにやれば良いのです。しつこいようでしたら、心配するなと伝えれば良いんですよ」


「そ、そうでしょうか……わ、分かりました」


 ここでぐいぐい食い下がる教師は、このヒーロー学校には存在せず、皆、表情はどうであれすごすごと職員室から去って行く。


 だが、兵垂先生は動けなかった。


「どうかしましたか兵垂先生?」


 冬香理事長が問う。


「あ、いや……あ、そう言えば先程噴水に何やら違和感がありまして……!」


「噴水? あぁ……あれは大丈夫ですよ。放っておけば元に戻ります」


 どうやら冬香理事長はその事を知っていたようだったが、別段気にしてる様子は無かった。


 その事に、兵垂先生は動揺した。


「あ、いやでも赤かったんですよ!? もしかしたら……あ、いや赤かったというのは遠くの窓から見ただけで決して近付いた訳では……」


 自分の失言と言い訳で必死になってるのを、冬香理事長はただ呆然と見つめていた。


「あの色、赤いというよりはピンクの類です。理科の実験の応用と言った感じでしょうね。子供騙しです。もう良いですか?」


「理科の実験……はぁ……なるほど」


 兵垂先生は釈然としないまま口籠もった。


「良いから教室に戻りなさい。これは命令だ」


「あ、はい……失礼しました」


 こうして兵垂先生は理解がままならない内に職員室を出て行った。


 そんな彼を見送った後、職員室を見渡した。教師がいる気配は無い。


「さて、戻ろう」


 校長室に戻った冬香理事長は、頭を抱えて椅子に腰掛けた。


 浮世校長、そして長谷川教頭はお客様用のソファに腰掛ける。


「大変でしたな理事長」と長谷川教頭が言った。


 そこには感情があまり込められていなかった。


「全くだ。それにしても、この学校の教師はあんな事で騒ぎ過ぎだ。慣れてないにしても酷過ぎる」


 冬香理事長は肩を揉み、首をコキコキと鳴らした。


 何だか短時間で凄い多量のエネルギーを消費した気がする。


「恐らく長年勤めている教師でも、こういう事態に直面したのは初めてでしょうな。いや__この学校に長く勤めているからこそ、でしょうかね」


 ここ勇泉高校の歴史は古いが、ここ何十年と不気味な程の平和が訪れていた。


 一昔前はこういう騒動がちらほらあったという話なのだが、今となっては昔の話である。


「平和過ぎるのもまた、考えものだね」


「そうですな。それで、どうしますか?」


 長谷川教頭は具体的には言わなかった。その言い方だと何とでも取れる言い回しだ。


「取り敢えず様子を見よう。これ以上酷くなるようだったら、容疑者を捕まえて即退学だ。それでいいね校長?」


「えぇ構いませんよ。それにしても、面白い生徒さんが居たもんですねぇ」


 浮世校長はゆったりとそう呟く。その表情は少し楽しげだった。


「そうですな。正義であって悪である。まるで白黒はっきりしないカフェオレみたいですな」


「フォッフォッフォ。面白い例えじゃな。理事長はどう__いや、聞くまでも無さそうじゃ」


 冬香理事長は笑っていた。いや、ニヤケていたの表現の方が正しい。


 冬香理事長はこの状況を楽しんでいた。久し振りに"心が踊ってしまう"というこの心境は、どう表現すべきか分からない。


 自分の立場としては学校側のトップ。だが、心の中はそれに反した思いで一杯だ。


 体は子供、頭脳は大人という例え方なら分かりやすいだろう。


 けれど、やはり立場としては学校側のトップだ。野放しにする訳にはいかない。


「さぁ、次は何をしてくるつもりかな?」




 ***




 冬香理事長の思考が錯交する中、兵垂先生は教室に戻って来ていた。


 生徒には無難に心配はいらないと伝え、取り敢えず事なきを得て授業を終了しようとした。


 その時、初めて気付いた事があった。


「お、おいそこの席とそこの席が空席だが、どうした?」


 何となく教室全体を見渡した時に、後ろの方の窓側の席と、その隣が空だったのだ。


 生徒達が徐に今日は来ていないと答えた。


 その言葉に兵垂先生は戦慄した。頭の中がぐにゃぐにゃ歪んだ気がした。


 この学校に出欠の確認は存在しない。


 少し前までは一応あったらしいのだが、殆どなし崩しになっており、この制度はいつの間にか消えていた。


 その理由は一つだ。


 生徒が無断欠席なんて事が全く無いからだ。


 しかもその全く無い中の欠席は、事前に連絡されているか、遅くともその日の朝には連絡が来る。


 なら急な病気などの場合はどうするのか。これは簡単な事だった。


 生徒が病気になる事は殆ど無い。皆無だった。


 このヒーロー学校の生徒は、真面目だ。食事に気を遣い、外から帰ったら手洗いうがいは絶対。いくつかある予防接種もちゃんと全員受けているので、病気になる事が無いのだ。


 そして極め付けは、遅刻する生徒も居なければ、授業をずる休みする生徒もこの学校には居なかった。


 一応ギリギリになる生徒もちらほらいるが、それも極少数だ。それに、ギリギリだが遅刻ではないので気にすることでは無い。


 よって、出欠を確認するという意味が無い。生徒は必ず学校に来ているのだから。それが普通なのだ。


 兵垂先生も、そう思っている先生の一人だ。今まで無断欠席をした生徒は見た事がないし、聞いたこともない。


 だから兵垂先生は急いで職員室へと向かった。連絡が来ていないか再度確認するためだ。


 けれど職員室で連絡用のボードを見ても特にそういった伝達は無い。周りの教師に聞いても分からないとの事だった。


 今度はまた教室へと向かった。生徒に事情を聞くためだった。もしかしたら、事情を知ってる生徒が居るかもしれない。


 だが、生徒は事情を知らないようだった。


「一体どうなってるんだ……?」


 兵垂先生は今度ばかりは焦りよりも、恐ろしさを感じた。


 何かこの学校でとんでもない事が起きている。そんな気がした。


「兵垂先生大丈夫ですか? 顔色悪いですよ?」


 職員室に戻った時、声を掛けてきたのは老田先生だった。


「実は、生徒が二人も無断欠席していたんだ……」


「はぁ……確かにこの学校では珍しいというか初めて聞きましたね。でも、そんなに考え込まなくても__」


「ふざけるな! 生徒が居ないんだぞ! こんな事今まで無かったんだ!」


 兵垂先生は混乱していた。尋常じゃない怒りと恐怖が同時に押し寄せていた。


「落ち着いて下さい。この学校ではそうかもしれませんが、他の学校では__」


「うるさい! 他の学校なんか知らん! ここでそんな事が起こる事自体あり得ないんだ!」


 その時、予鈴が鳴った。もう少しで次の授業が始まる。


「済まない。私はもう行くよ」


 兵垂先生は逃げるように職員室を出て行った。


 この後の事は、兵垂先生はあまりよく覚えていない。


 だが一つ言えるのは、三つほど残っていた授業には全員が出席し、サイレンが鳴る事も、爆弾が投げ込まれる事も、噴水が赤くなる事も無かった。


 もしかして、午前中の出来事は夢だったのではないかというほど平穏で、普通だった。


 そして全ての授業が終わった時、兵垂先生はとても憔悴していた。何故か息が上がる程だった。


 何故ならこの平穏にすら恐怖していたのだから。


 これは俗に言う台風の目__嵐の前の静けさではないかと思ってしまうからだ。


 また何か来る筈だ。そうに違いない。それをひたすらに考えた挙句、ここまで疲労困憊になったのだ。


 今日は早めに帰ろうと兵垂先生は思った。もう、仕事なんて手につかない。


 職員室の自席に座り、そんな事を考えていた矢先だった。


 パーン!パーン!パーン!


 兵垂先生はそれが花火の音だとすぐに分かった。そして、気付いた時には窓から顔を覗かせていた。


 訓練所の辺りからだろうか。そこから空に向かって一縷の火花が飛んだかと思うと、やがてそれは大きな音を出して花のように咲いた。


 だが、今は夕方にもなって無いほどの時間だ。そんなに綺麗に見える訳でもなく、その花はすぐに寿命を終えた。


 兵垂先生は勢いよく校舎を飛び出して行った。恐らく、犯人は訓練所の方にいるはずだ。


 とっちめてやると思った。こんな事をして許されて良い訳がない。


 はらわたが煮えくり返りそうな程に興奮しながら、兵垂先生はずんずん歩いて行く。


 いつの間にか疲労は何処かに吹き飛んでいた。


 もうすぐ訓練所に着くその時、一枚の紙が空から降ってきた。


「うん?」


 空を見上げると、その紙はまるで鳥のように空を羽ばたきながら舞い、地上に降り注いでいた。


「な、何だ何だ!?!?」


 それは地面に落ちたり、屋根に落ちたり、窓が開いてる教室の窓に入ったり、噴水の中に飛び込んだりと、色んな所に落ちていった。


 兵垂先生が落ちた紙を拾おうとした時、顔にびたんとその紙が一枚張り付いた。馬鹿にされた気がした。


 その紙の大きさはA4位の大きさだった。


 兵垂先生は荒々しくその張り付いた紙を引っぺがすと、紙面に目を向けた。


 そこにはこう書かれていた。


 学校への不満、有りませんか?


 面白い事、しませんか?


 ただいま、絶賛会員募集中! 詳細は__別の紙面にして!


 自由ヒーロー党より。


 兵垂先生は呆然自失になっていた。思考回路が追い付かなかった。


 頭が真っ白になった。今、どこにいるのか分からなくなった。


 そして気付けば、彼の視界はブラックアウトしていた。









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