11-8 荒海
舞い散る飛沫に吹きつける風、暗い視界に耳を聾する轟音、絶え間ない上下動が脳と臓器を揺らして気持ち悪い。
天候を操る〈
ボクたちは今、嵐の荒海を大型帆船で渡っている。
北海の雄であるレイブーダ王国の軍船だ、乗組員の練度は高いはずなんだけれど、ここまで猛烈な時化の前では人間など無力ってことだね。
「ちょっと、キャロ! 遠い目で半笑いしてないで、なんとかしてくださいっ!」
ずぶ濡れになってしがみついてくるリットが、焦った顔でボクの肩を揺する。
おっと申し訳ない、ちょっと現実逃避しかかっていた。
なにせ目の前に天を突くほど巨大な波濤が迫り、甲板は急坂のように傾いている。
このままだと船は転覆間違いなし、船体そのものは先だってからリットの防御呪文で守られているとはいえ、投げ出されたボクたちは海の藻屑となってしまうだろう。
無詠唱の〈
「水よ集いて流れを作れ、流れは逆巻き波と成れ、波よ狭間で海魔と転じ」
呪文を詠唱する間にも船は傾き、後部に向かって滑り落ちそうになるところを、リットがどうにか支えてくれている。
アレクはといえば先ほどから帆柱の上、物見の檣楼から『
あの娘の魔力は元からでたらめ気味だったけれど、最近は人知を越えた域に達しつつあるなあ。なんて考えながらも、呪文を完成させていく。
四天王戦後くらいからかな、思考を分割させて喋りながら呪文を詠唱したり、二つの魔術を同時に発動できるようになったのは。
さすがに同時発動には〈
「海魔よ
詠唱の完成により、船の周囲の海面が制御可能になる。
船の後部を持ち上げて水平にしつつ、波自体を後方へと受け流した。
そのままだと、せっかく掌握した大量の海水が効果範囲外に流れていってしまう。
船を中心とした大きな渦を形成し、波を左右にかき分けつつ船を前進させた。
「こ、こりゃどうなってるんだあ?」
「大賢者様だ、大賢者様が波を操ってる」
「なんてこった……あの方は
右往左往していた船員たちが、呆然とした声を交わし合っている。
大袈裟だね、質量こそ大規模でも実体のあるものを操るなんて、正しい理論さえわかっていれば誰でもできることだ。
先日リットが起こした奇跡の方が、よっぽど神の御業って感じだったけどね。
あの常識の埒外ともいえる〈
さすがに新大陸に連れて行かれちゃ救出は難しい、かといって魔王の根拠地に攻め込むには戦力が足りない。
そこで輸送船を海上で急襲することにしたんだけれど、現存する海上戦力で最も早く現場海域に向かえそうなのは、レイブーダの軍船だけだった。
いかに勇者パーティといえど一国の保有戦力を気軽に使えるはずもなく、しかも目標が外洋に出る前に追いつこうとするなら、今の時期は大荒れしている海域を突っ切っていくしかない。
正直、レイブーダが引き受けてくれるとは思えなかった。
だけど駄目で元々と当地の冒険者ギルドを通じて交渉を持ちかけてみたら、あっさりと承諾される。
なんでもこの国は“
もともと生命樹教会と魔術師ギルド、冒険者ギルドの連名で『勇者アレクシアの行動を最大限補佐すべし』との通告が、各国に出ている。
その上でこの国じゃボクらは英雄扱い、港に向かったら下にも置かない厚遇で出迎えられた。
もし断られたらボクたちだけで〈
レイブーダ海軍の協力が得られたのは、幸いだった。
「お疲れ、キャロ、リット。どう? このまま嵐を乗り切れそう?」
ほぼ落下するような勢いで帆柱から降りてきたアレクが、気軽に問いかけてきた。
髪も服もずぶ濡れだっていうのに、やけに元気だ。いるよね、嵐や大雨の時やけに気を高ぶらせて興奮する子。
「〈
海兵から手渡された布で髪を覆いながら、対照的に青い顔で答えるリット。
ボクもそうだけど濡れ鼠の上に船酔いだ、体調は酷く悪いので、後で回復してもらわないと。
ちなみに船体を保護している〈城塞〉は本来、地上の建造物を守るためのものだ。
動き続ける船にかけて効果が維持できるとは思わなかったが、そのあたりの応用力はさすが聖女様だね。
「〈大渦〉はさほど保たないかな。似たような波が襲ってくるようなら、また唱え直す必要があるね」
「そっかぁ……でもキャロもちょっと休まないと、きついでしょ」
たしかにね。魔力はまだまだ余裕があるけれど、体力がねぇ。
せめて船酔いがなんとかなれば、少しはマシになるんだけど。
こういうときカレがいたら、また珍妙な提案をしてくれるのかな。
師匠はボクを感覚的すぎると評するけれど、思考の柔軟さという意味では、カレの方が上だと思う。
魔術をあくまで便利な技術、目的に合わせて変えるべき道具と捉えているからこそ、斜め上の発想が出てくるんだろう。
「大丈夫、キャロ? 『おっぱい揉む?』」
考え込んでうつむくボクの顔に背を向けて身を屈め、アレクが変なことを言った。
幻聴かな? とりあえず、ありがたく揉ませてもらおう。
「ひぁっ!? なにすんの、突然!」
「え? だって、『おっぱい揉む』かって言うから」
ボクもしゃがんで、背後から柔らかな双丘を揉みしだく。
うん、実にいい感触。日々の成長を実感するね。
「『おんぶで運ぶ?』って聞いたの! どういう耳してんの!?」
ああ、それでわざわざ背を向けてきたのか、唐突だなあとは思ったんだよね。
二人して座り込んでなお胸を揉み続けていたら、呆れ顔のリットがそっとボクの頭を撫でてきた。
「キャロ……疲れてるんですね。いま癒してあげますから」
すでに両手の感触で、けっこう癒されているんだけどなあ。
なんて考えているとアレクがボクの尻に手を回してきて、反撃かと思ったらそのまま不格好な姿勢で負ぶわれた。ふわっと体が浮かぶ、さすがの身体能力だ。
彼女にこうやって持ち上げられて運ばれるのも悪くない、いつかのカレに『お姫様だっこ』してもらったことを思い出すね。
「持ち上げて、運ぶ……」
ふと、思いついた。
できるかな? 単体の呪文では無理だ、魔力がいくらあっても足らない。
だけど大規模でも実体のあるものを操るなら、正しい理論さえ組み立てられれば。
「キャロ?」
「軽量化を全体に、いや、それじゃそちらに魔力を取られるか。さっきの〈大渦〉と同じだ、対象を船体じゃなく広げた海面に固定、垂直方向の移動は一定値に留める、波の上下による変動は推進の動力に使えばいい、となると構文を一部変更して……」
「いいから、いい加減、胸を揉むのをやめなさいっ」
思いつきを口にしながらまとめていたら、アレクが首を伸ばすように頭を突き出してきて、顎をかすめた。
危うく舌を噛みそうになって、思考の淵から戻ってくる。
どうやら、なんとかなりそうだ。
* * *
船は海上を行く。文字通り、海の上を。
「こ、こりゃあ……こんな、奇跡みたいなことが」
ボクの隣でこの船の長、レイブーダ王国の海軍将校が目を丸くしている。
甲板に叩きつけられる風雨は相変わらず激しく、彼を始めとした船員たちはずぶ濡れだったが、ボクたちはリットの張った障壁で覆われている。
そして船は海面から浮かび上がって、飛翔していた。船の下部に〈
単純に〈念動〉もしくは〈飛翔〉だけでは、魔力の消費が多すぎて維持が難しいところを、組み合わせることで保たせた。
間に〈水壁〉が挟まっているのが肝で、船そのものを対象に〈念動〉を使うと体積がそのまま効果範囲になってしまうが、水の幕であれば面積だけを目標にできる。
三次元から二次元への転換だね。
……というようなことを伝えたんだけれど、理解を示してくれたのはアレクとリットだけだった。
船長や海兵たちはぽかんと口を開けて聞き入った後、なんだかわからないが揺れと転覆の危険から解放された、という事実だけ受け入れたようだ。
「さて船長、この速度なら予定の航路はすぐに消化できそうだね」
「え、ええ。半刻もせず情報のあった海域に辿りつけるはずです」
船の帆は大風を孕んで大きく膨らみ、船を後押ししている。帆や帆柱にも〈城塞〉の効果が及んで損傷を避けられている上、船員たちは凄腕揃いだ。
豪風の吹きすさぶ凪のような海、というわけのわからない状態でも、着実に船を進めてくれている。
さてさて、あとは“黄奪”の情報が正確であるかどうかにかかっているね。
確実を期すなら殺して〈
やつ自身は行動を縛る〈
魔王軍の将である上に非人道的な実験の首謀者ということで、処刑は免れないにせよ、それまでにせいぜい有益な情報を吐き出してほしいものだ。
「見えたわ! えーと、十時の方角!」
さっきから時折、空を覆う黒雲に雷が走っている。
雷鳴や風雨の音にも負けない大きな声で、また帆柱の上に登っていたアレクが知らせてきた。
彼女の目と耳の良さは常人の域を遙かに越える、本職の檣楼員が補佐につけば、誰より先に目標を見つけられるとは思ったけど……早くないかい?
「どうやら、時化に難儀していたのは向こうも同じようですな」
船長がにやりと、男臭い笑みを浮かべた。
魔王軍の船って
と、思っていたら。ぐんぐん進むこちらの船の舳先の指し示す先、荒波に揺れる三艘の船が見えた。
浮かんでいるのが不思議なほどぼろぼろで、襤褸のような帆を折れ曲がった柱にへばりつかせている。
「難破船か……? いやしかし、一斉に同じ方向に進んでいるってのは」
「おかしいよねぇ。そこのキミ! 聖女様を呼んできてくれるかい?」
顔をしかめる船長を後目に手近な海兵を捕まえて、船倉で休んでいるリットを呼んでもらう。
ボクの推測どおりなら、あの船は。
「キャロ! なんなんですか、この不浄な気配は!?」
おっと、呼ばれる前から気づいて上がってきたか、さすがリット。
前進していた三艘のぼろ船は、こちらに向かってゆっくりと回頭しつつある。
そしてボクの目にも、向こうの甲板上で蠢く船員たちの姿を見えるようになった。
まるで舞台を照らす灯りのごとく、空を貫いた稲光が船上を照らす。
「ひっ」
野太い悲鳴を、海兵たちの誰かが上げる。ボクとリットはこの程度のことじゃ、今さら取り乱したりはしない。
ぼろ船たちの甲板にいたのは、半ば体を崩れさせた死体や、完全に白骨化した死体。そいつらが朽ち果てた船員服に身を包み、船の上をうろついているんだ。
「幽霊船……!」
船長が、呆然とした声でつぶやいた。
飛行帆船
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