7-9 聖誕


 翠の瞳を収めた愛らしい顔も、尖った耳を覗かせる波打つ金の髪も、純白の法衣に包まれた小さな身体も。

 その全てが少女をマルグリットだと、俺の聖女様だと言っている。


 だけど信じ難い気持ちで、呆然と彼女を見つめることしかできなかった。


「リット……キミ、どうやって……?」


 いつの間にか背後に現れていた──おそらく、〈境門イセリアルゲート〉を使ったんだろう──キャロラインが、俺の心を代弁してくれる。


「えへへ。いろいろあったんですよ」


 そう言ってマルグリットは、光に包まれたアレクシアをそっと回転させた。

 その爪先が床についた途端、重みを思い出したかのごとく、身体が力感を取り戻す。熟睡していたところを起こされたように、びくっと震えて勇者は目を開けた。


「え? リット? なに私、ようやく魔術に目覚めたの!?」


 第一声がそれかい、お前は魔術をなんだと思っているんだ。

 折れ曲がっていた手足はまっすぐに伸び、引き裂かれた肌も綺麗な艶を取り戻している。腹に開いたはずの傷も跡形もなく、ただ丸く空いた服の穴だけが、あれが幻ではなかったと教えてくれた。


 涙が出そうになる。

 なぜ聖女がこの場に現れたのかはさっぱりわからないが、アレクシアを治してくれたんだから、それだけで充分だ。


「いやでも待って、あたしたち、あんたを元に戻そうと」

「お話は後で。まずは、ヘレネーナさんたちを助けましょう」


 なお言い募ろうとする勇者の唇に指を添えて黙らせ、マルグリットは可憐な顔に真剣な表情を浮かべると、いつの間にか手にした短い錫杖を戦場へと向けた。


 崩れかけた床より更に下、最下層からそびえ立つ黒耀竜の巨体と、四方から射ち込まれる矢。

 見れば、魔狼ワーグの背に乗って縦横に移動しながら、次々と矢を放つヘレネーナの姿があった。


 鬱陶しげに首を巡らせる竜の足下には、まだ灰褐色の毒煙が滞留している。エンリの生死はわからないが、あれじゃ迂闊に踏み込むこともできない。


「いと高き生命樹よ、その葉の上に宿る癒やしの雫で穢れを濯ぎ、子らの上へと降り注ぐ浄めの雨となしてください、〈浄毒ピュリファイ・アンチドーテ〉」


 そう思っていたら朗々たる聖句が響き渡り、一陣の風のように通り過ぎた白い光が、毒気を綺麗に消し去ってしまった。

 マルグリットのものじゃない、彼女はこんな低く重たく渋い声を出したりしない。


「うげ」


 短く呻いたアレクシアの視線の先に、白い祭司平服キャソック円帽カロッタを纏った、体格の良い老人が立っていた。

 深く刻まれた皺と色濃い隈、立派な白い口髭の下で苦痛に耐えるように捻じ曲がった唇が、否応なく悪辣な印象を抱かせる。


「げ、猊下」


 暗黒の大地に君臨する邪知暴虐の帝王のような人相をしたこの老人こそ、生命樹教会を束ねる教皇ヴィルヘルムス・ウーレンベック、その人であった。

 肩書きに反してなんの仰々しさもなく、ふらりと現れた教皇は、思わずその敬称を呼んだ俺に無言で頷き返す。


 そうだったこの人、下々にはあんまり声をかけないんだったな。べつに獣人セリアンや冒険者を見下しているとかではなく、軽々に口を開くと教徒を教え導く者としての威厳を欠くから、とかなんとかそんな理由で普段は無口で通しているらしい。

 それって要するに、ただの口べたじゃね? と俺などは思うんだが。


 ともかくも毒気が消えたならありがたい、遠慮なく踏み込んでエンリと共闘できるというものだ。

 そもそもあいつは無事なのか、と姿を探したら、黒耀竜の足下から上半身だけが生えているのを見つけた。


「ごなぐぞっ、ばなじやがれ!」


 そのまま、がんがん竜の足を殴っている。どうやら踏んづけられて動けないらしいが、よく死なないなあれ、〈厳峻剛身ミネライズド〉凄い。

 だが、のんびり見ていて石の体が砕かれでもしたら大変だ、急いで助けないと。


 アレクシアはもう駆け出している、俺もすぐに後を追いたいが、聖女の無事な姿からも目を離したくない。


「援護はお任せください!」


 うろうろと視線をさまよわせていたら、ふんす、と気合いを入れて返された。うん、可愛い。いつものマルグリットだ。

 であれば、おたついている場合じゃない。いま慌てて突っ込んだって仕方ないんだ、俺は俺の役目を果たして、勇者に十全の力を発揮してもらわないとな。


「……キャロ、床を砕いてやつの足場を崩せ。飛び立つ前に、仕留める」

「了解」


 黒耀竜の翼は根本に鉄の棒が刺さったままとはいえ、傷としてはわずかなものだ。

 いま敢えて飛ぼうとしていないのも、足下でちょろつく小さな生き物どもを叩き潰そう、と躍起になっているだけだろう。


 そのまま沈んでもらおうか、古代竜。


 * * *


「砂よ集いて石塊と化せ、石塊凝りて巌となりて、巌は転がり地を揺らせ、大地よ砕けて牙を剥け、〈地割クラック〉!」


 黒耀竜が地を踏みしだくときにも匹敵する、振動と破砕音があたりを覆う。

 本来は文字どおり敵を地割れに飲み込ませる呪文だが、的となった竜自身は魔術の無効化能力により小揺るぎともしていない。


 しかし、台風の目のように変化の見られない竜の足下以外はぐずぐずに崩れ、アレクシアや魔狼も移動に四苦八苦する有様だ。その崩壊は地下深くにまで及ぶだろう。

 竜のねぐらとなっている縦穴は、ボウグダーデン城址の最深部にまで達しているわけではない。分厚い岩盤の下に地下階が広がっているのは、『天を掴む者グラスパーズ』の事前調査で判明済みだ。


 当然、周囲の地面が崩れれば中心だけ無傷で残っている岩盤は、そのまま沈んでいくことになる。

 黒耀竜の巨体の下であるから、〈地割〉が無効化された範囲は広く、それで一気に崩落が起こるほどの不安定さはない。


 だが、それでいい。むしろ、そうじゃないと巻き込まれてエンリが死ぬ。

 目的は竜の相対的な高度を下げることだ。そら、わざわざ首を伸ばしてこなくとも目線が合うようになったぞ。


「ヘレン牽制っ」

「わかっていますわっ!」


 勇者の声に従って、先ほどに倍する勢いで、雨のように矢が降り注ぐ。射ち上げでなくなった分だけ勢いが増し、何本かは目を直撃していた。

 水平に閉じる瞬膜によって弾かれてはいるようだが、牽制としてはそれで充分である。


 苛立たしげに黒耀竜が腕を振るい、ヘレネーナを薙ぎ払おうとした。矢の群れを追うように突っ込んでいたアレクシアが、左右の手に持った聖剣と妖刀を十字に構えて、受け止めんとする。

 さっき尻尾に潰されたのを忘れたのか、人間の膂力と体格で受け止められるわけが──


「〈聖壁ホーリーウォール〉!」


 マルグリットの障壁が、剣から生み出された波紋のように広がった。

 それは勇者の剣勢を防御力に転化したかのごとく、押し込む動きに従い、ぶち当たった竜の爪を受け止める。


 非現実的な光景だったが、見とれている場合ではなかった。

 障壁と腕は拮抗したようだが、押し返したわけじゃあないんだ。もう一方の腕や、噛みつきで攻撃されたらひとたまりもない。


 彼女を死地からかっさらうべく、駆け出そうとした俺の横を、漂う布のような軽さと柔らかさでマルグリットが追い抜いた。


「いきますっ、猊下!」

「よろしいっ。あ、あー。『いまだよ、リットたん』!」


 重苦しい声が背中からかけられた。最後の変な台詞はなんだ? と思う間もなく、聖女の身体が光り輝く。

 遷祖還りサイクラゼイションかと思ったが、様子がおかしい。


「ま、『マジカル・スピリチュアル・サイクラゼーション』!」


 跳躍した少女の法衣が弾け飛び、全裸が晒される。

 しかしほとんど同時に後方、先ほど変な台詞を口にした教皇からは淡い桃色の光が飛んで、彼女が手にした杖にぶつかった。


 すると光は帯状に解けて少女の周囲を巡り、裸身の肝心な部分をうまく隠す。

 空中に浮かんだまま、マルグリットが奉納の舞いを激しくしたような動きをするにつれ、胸や腰、手足の先に桃色の帯が巻きついて、衣装を形成していった。


「ボクたち……なにを見せられているのかな?」


 素に返ったキャロラインがぼそりと呟くが、同感だ。心なし黒耀竜まで呆然としているように思える。


 体感では数十秒の時間が過ぎた気がするが、実際には一瞬で聖女の衣は様変わりしていた。

 濃淡二階調の桃色をした胴衣に、ふわっと膨らんだ白いミニスカート、胸元と頭には赤いリボン。真珠色の長手袋とロングブーツ、手にした錫杖は枝葉を広げる樹を象っている。


 普段の〈精霊転化スピリチュアライズ〉とは異なり体が半透明になっていないが、側頭から伸びる一部だけをリボンでまとめた波打つ髪は、金色をベースにしつつも虹のように光の加減で色を変えていた。


「ま、ま……マジ……ドン……リット……」


 なんかもごもご言っている。その後、開き直ったような大声で黒耀竜に向かって、錫杖を突きつけた。


「せ、『生命樹に代わって膺懲ようちょうよ!』」


 ちょっとやけくそ気味なマルグリットの宣言にともなって、背後から、宝石のような煌めきが飛び散った。


 左手側からアレクシア、右手側から俺たち、真正面から首を捻った黒耀竜。

 三方から視線を浴びた聖女の顔は真っ赤に染まっていて、よく見れば涙目になっている。恥ずかしいなら、やらなきゃいいのに。


「マジ……なんだって……?」


 思わず呟いた俺に対して、満足げに頷いていた教皇が彼女の言葉を、重々しく繰り返した。


「『魔法マジカル聖女マドンナリットたん』、聖誕である」


 真面目な顔してなにほざいてんだ、この爺ぃ。

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