6-9 死地


 自らが生み出した血の池に沈むアレクシア、うつ伏せたその体が消え入りそうなマルグリット、頭部を強打したか仰向けに倒れたままぴくりとも動かないキャロライン。

 動けるのは俺だけだ、俺がなんとかしなければ、俺が――


「諦めロ」

「があああっ」


 右手と両足に、ザックスの放った骨の杭が突き立つ。標本のように床に縫い止められた俺を見下ろし、“緋惨”は笑った。


「はハ、はハはハ! そうダ! こうでなくてハ! こうあるべきだったのダ!」


 げたげたと哄笑しながら、やつは左腕を、“白撃”の頭部を持ち上げる。


「そこで見ていロ! まずは勇者ヲ、こばっくの牙でもっテ、食い散らかしてくれル!」

「やめろぉぉぉっ!」


 そんなこと、させてたまるか。手足が動かなくたって呪文は詠唱できる、拙い俺の金魔術でなにかできることを探せ、そうだ床を壊せば――


「〈沈黙ミュート〉」


 緑肌の精魔族が短く呟くと、俺の口は虚しく開閉するばかりで、音を発しなくなった。


「ザックスは貴様の悲鳴を聞きたがろうがな、この期に及んで小細工をされても詰まらぬ」

「ひょっ、慎重なことで」


 黄肌の侏魔族が、にたにたと笑いながら俺の顔を覗き込んでくる。瓶底眼鏡の奥で細まった目に、抑えきれない嗜虐の喜びを溢れさせて。


「ご安心を。貴方の仲間たちの体は有効活用させていただきますよ。ああ、その前にたっぷりと愉しんで、女の悦びを思い知らせるのもいいですねぇ」

「下衆が。だから貴様は好かん」

「ひょっひょっ、これは手厳しい」


 勝手な会話をしているソーマとジョタのやり取りなど、構っている暇はない。

 手足を引きちぎってでも束縛を脱しろ、仲間を、愛する少女たちをこいつらに渡すかよ。〈獣性解放メタモルフォシス〉で体力を底上げして、一気に――


 ギシェエエエエエッ!


「なにっ!?」


 突然、上空から“褐削”の咆吼が響き渡った。頭上を振り仰ぐ“緑道”の視線を追っている暇なんかない、なにが起こっているか知らないがこの隙に。


 しかし俺の全身が毛皮に覆われるより早く、腕の獅子頭をかざすザックスの体が爆発した。

 いや、違う。なにか矢のようなものがその体に当たり、先端についた火薬が炸裂したのだ。


「援軍! どこからっ」

「――DEFENSE――」


 慌てた“銀詠”の声と、動揺する様子も見せず仲間を庇う“灰滅”。周囲に次々と火薬つきの矢が飛来し、小規模な爆発が断続的に発生する。

 これは、この攻撃は。知っているぞ、こういうことをするやつを。


 そして上空から、大質量の物体が落下してきた。それがとどめになったように、度重なる攻撃と先ほどの爆発で傷んでいた床が、とうとう崩れ始める。


 川面の飛石を渡るようにばらける床を踏んで進み、落下しそうなアレクシアの体を小柄な影がさらった。“黄奪”ではない、あの下衆野郎は素早く上空に逃れている。

 そしてぬうっと馬鹿でかい影が俺にかかるが、これもゴーリックじゃない。健康的に焼けた肌を晒す大男が、俺の四肢に突き立った杭を素早く抜いてくれた。


「相変わらず、無茶ばっかやってんな」


 聞き覚えのある声だが、〈沈黙〉を受けた俺は返事をすることができない。それでも、痛みと痺れで思うように動かない手足を奮い立たせ、顔を上げる。


 長い茶髪を頭の後ろで縛ったその厳族ヨトゥンの男は、逞しい体を短い胴衣とズボンだけのシンプルな格好で包み、小脇にキャロラインを抱えていた。

 男の横には黒装束に全身を包んだ長躯の人物がおり、マルグリットを横抱きにしている。


「アレクシア様も確保済みだ、とっとと逃げるぞ」


 声を出せぬまま、俺は頷く。なぜこいつらがここに、という疑問は湧くが、考えている暇はない。まずはこの死地を脱し、態勢を立て直さなければ。


「侯爵は?」

「放っとけ。悪いが、こいつら優先だ」


 黒装束の短い質問に対し、大男は肩をすくめて床を蹴る。崩落の中、飛ぶように進む二人の後を、俺は必死で追った。


「――逃がさぬ」

「待てっ!」


 下の階に降り立った俺たちの前方で、床に寄り集まった影からずるりと“紫骸”が現れる。崩落をものともせず、背後に“銀詠”が着地した。


 しかし黒装束は立ち止まるどころか、いっそう速度を上げる。マルグリットを抱いたまま腰に手挟んでいた片手斧を抜き、紫色のローブに叩きつけた。

 対してクィンテンが伸ばした手、革手袋に覆われた五指から白い煙が吹き出すが、囚われるよりも速く黒装束はその場を駆け抜ける。


 軽いとはいえ人ひとり抱えて、なんてスピードだ。対して俺に併走する大男はというと。


「どおるぁっ!」


 裂帛の気合いとともに床を殴りつけ、そのまま空いた大穴に飛び込んだ。こいつはこいつで、無茶苦茶だな!


 ともあれ、吹き飛んだ建材がいい具合に目くらましになっている。後を追いつつ、背後に煙玉や四隅を尖らせた鉄片などをばら撒いて、牽制もどきの嫌がらせをした。

 巨体の二人は物ともしないだろうが、後衛連中をわずかでも躊躇させられればそれでいい。


 走りながら治癒の水薬ヒールポーションを取り出し、獣化しているとうまく飲みにくいところをどうにか服用した。

 多少は痛みがましになったところで先行した大男に追いつき、背後から断続的に響く破壊音や足音に駆り立てられるよう走る。


「やっ」


 館の外に出たところで、小さな影が併走してきた。薄い胸をチューブトップで覆い、太腿の付け根まで見えそうなホットパンツを履いた、快活な顔立ちの女児――ではなく、侏族ドゥリンの少女だ。

 彼女の傍らには濃紺の毛皮を持つ巨大な狼、魔狼ワーグがつき従っており、その背には意識を失ったアレクシアが乗せられていた。


「ファビアナ。オ前モ、来テクレタノカ」

「王妃様の依頼でね。エンリたちもそうだよ」


 ようやく〈沈黙〉が解けたので問いかけると、そんな答えが返ってくる。

 こいつは大河を挟んだ向かいの国を拠点に、旅暮らしをしている冒険者で、その国にはハンネス第一王子の妹が嫁いでいた。


 どうやらキールストラの手配に合わせて、隣国の王妃も動いてくれたらしい。

 先の大魔術の連続や空を駆ける翼ある蛇の偉容に、館の前に集まっていた民衆は逃げ去ったようだ。人気のない大通りを三人で駆ける。


「俺としちゃ魔王軍と事を構えるのはいい加減、勘弁してほしかったんだがな。うちのリーダーが、相変わらず乗り気でよ」


 厳族の大男エンリが、ぼやくように言った。こいつと黒装束の中身であろう妖族イブリスのゴス、そして火薬つきの矢を放って援護してくれた弓使い。

 大河の向こうじゃ知らぬ者のない、三人組の凄腕冒険者だ。そう言えば今朝がた、隣国で魔獣が暴れているって告知を見たときに、こいつらのことを思い出したな。


「スマン。助カッタ」

「礼には早い」


 別な道筋から逃げてきたのだろう、黒装束も合流したかと思うと、魔狼の背中にマルグリットをそっと乗せる。

 走りながら器用なことだ、エンリの方はまだ魔女を抱えたままなのに。


「待テ!」


 ギシャアアアアッ!


 その背後の上空から、闇を噴き出して“緋惨”が現れる。それだけでなく“褐削”の、更に嵩を増した巨体も迫っており、頭部には“緑道”を乗せていた。


 こいつらだけならエンリたちと協力すれば凌げるかもしれないが、他の連中まで追いついてきたら、どうしようもない。くそ、一難去ってまた一難か。

 だが。いつかのように腕に闇の刃を纏って急降下してきたザックスの姿が、急にぼやけて薄れた。


「くそッ、時間切れカ!」

「よもや、同格の援軍を用意していたとはな。やはり勇者一党は侮れぬ」


 咄嗟に身構えた俺の眼前で反転し、“緋惨”が上空へ飛び上がる。

 思わず立ち止まる俺たちの見上げる先で、美しい顔を悔しげに歪めたソーマであったが、表情を改め言い放った。


「今回は“桃惑”の力を借りたがな、いずれ直接、やって来ようぞ」

「はっ、ここで決着をつけねぇのか?」


 こらエンリ、余計な挑発をすんな。最後っ屁に大魔術かましていく、なんてこともありえるんだぞ、こいつらは。

 あれだけ威勢を誇示していたザックスが、急に攻撃をやめたところから察するに、無理を押して活動できない状態なのかもしれないが。


「ここで貴様らを見逃すことは、あの方のご意志に反するだろうが……」


 きゅっ、と唇を噛む“緑道”。闇に染まった瞳が憂いを帯び、なにかを迷うように、言葉を絞り出した。


「貴様らであれば、あるいは止められるかもな」


 なんだ? なにが言いたいんだ?


 邂逅した時の容赦のなさとも、先ほどまでの傲岸不遜さとも違う。

 ほろ苦い微笑を浮かべたソーマの顔は、“褐削”が身をくねらせ上昇に転じたことで、それ以上を窺うことはできかった。


 翼ある蛇の巨体が、緋色の合成獣が、暗紫色の光に包まれ消える。

 呆然と見上げることしかできない俺たちの視線の先には、ただ青空が広がるばかりであった。

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