本日、ありません。🍂

上月くるを

本日、ありません。🍂



 涼子さんが住むのはふつうの住宅街だが、散歩に出向くのは高級住宅街。

 なにも豪邸が見たいわけではなく、筋トレになりそうな急坂があるから。


 むかしは市民の憧れだったこの一画にも、昨今は売り家の看板が増えた。


 ――太刀打ちできないからねえ、時代の波というやつには。


 荒れ庭に咲く立葵や露草に声をかけながら、胸突き八丁を一気に上る。

 さすがにマスクはきついので、途中から左耳にぶら下げた格好になる。

 

 あと少しというところで、


 ――あれれ?


 奇妙な張り紙に気づいた。

 マンションとマンションの谷あいに、色褪せたカーテンの閉まった仕舞屋があり、

 

 ――本日、ありません。

 

 やや右に傾いた短冊大の紙が、古びた硝子戸にセロテープで貼られている。

 しかも、こうした場にふさわしい手書きにあらず、太明朝のワードの文字。

 なかほどに律儀に入れられた「、」が、涼子さんにはどうにも気になった。


 ――本日、ないって、なにがないんだろう?


 干瓢、胡麻、ヒジキ、ワカメ、寒天、大豆、小豆、玄米、パンの耳……なぜか乾物ばかりが思い浮かんで来るが、もしかしたら豆腐、がんもどき、油揚げ、オカラ?


 エコバッグ……じゃなくて、この様子ではずいぶん前からこのままのようだから、時代がかった買い物籠の、または小鍋やボールを持った近所の主婦の姿が動き出す。


 ――あら、今日はないのね?


 諦めて踵を返す、割烹着にサンダル履きのうしろ姿が、映画の一場面のように。


      *

 

 でも、と涼子さんは思いをめぐらせる。

 もしかして、手袋だったらどうだろう。


 ――お母ちゃん、お手々がちんちんする。


 そう訴えた新美南吉の仔狐が「本日、ありません」の張り紙を見たとしたら……。


 じっさい、武蔵野の奥の深い森には、狐や狸が棲んでいると聞いたことがある。

 その冬一番の寒波がやって来ようという12月、ひたひた迫り来る薄闇にまぎれ、人間に見つからないように、そっと坂を降りて来る狐の母子がいたとしたら……。


 涼子さんの空想は、ジャズのセッションのように軽やかに弾んでゆく。🎺🎷🎵

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本日、ありません。🍂 上月くるを @kurutan

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