第17話 エリアス殿下

 悪夢の舞踏会から、二十日が経過した。


 私はいまだに、流布されている悪女やら魔女やらの噂を払拭できずにいた。

 舞踏会後、数日寝込んだのが致命的だった。アルシュベタは邪魔者の私が不在なのをいいことに、いろいろと悪評をでっち上げたようだ。


 頭の痛い問題だった。泣きたくなる。


 今日は久しぶりの登城日。

 エリアス殿下と会うのは舞踏会以来だ。緊張しないわけがない……。


 舞踏会の最中、殿下は私がアルシュベタを押し倒したと非難した。最後には、愛称すら呼んでくれなかった。

 もし、あの時の感情をいまだに引きずっているようだったら、どうしよう。


 胸がぎゅっと締め付けられた。不安に押しつぶされそうになる。


 私は必死に、自分に言い聞かせる。

 あの時の殿下は、アルシュベタに操られていただけだ、と。


 アルシュベタと一緒にいる時の殿下は、明らかに様子がおかしかった。周囲を取り巻いていた者も、同じだ。


 あれから時間も経った。

 今日はもう少し、冷静に殿下とお話ができるはず。


 私はそう信じて、殿下とのお茶会の会場へ、ゆっくりと進んでいった。




 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆




 お茶会が始まった。


 殿下を私の元にしっかりと繋ぎ止めておくには、いったいどうすればいいのだろうか?

 殿下の表情を窺いながら、考えた。


 今の状況は、私にとって好ましいものだとは、とても言えない。

 ユリウスを失った今、私は絶対に殿下から見捨てられるわけにはいかなかった。


 そこでふと、かつてユリウスにした、自発的な協力を思い出す。

 計算の苦手なユリウスへ、私なりにできる助力を申し出た。そのおかげか、ユリウスとの仲がより深まったと実感できた、あの体験……。


 同じことを、殿下にもできないだろうか。


 とにかく、このままアルシュベタにやりたい放題やられるわけにはいかない。

 ユリウスの時のように、相手を失ってから後悔しても、もう遅いんだから。


 脳裏に、ユリウスの顔が浮かんだ……。


 痛い……。

 チクリと胸に棘が突き刺さる。

 

「どうした、ナティー。先ほどから黙りこくって。まだ、調子が悪いのか?」


 殿下が声をかけてきた。

 今日の殿下は、あの舞踏会の時とは違う。いつものとおりの殿下に戻っているように見えた。

 私を呼ぶ際も、名前ではなく愛称。


 やはり、舞踏会の場では、アルシュベタから何らかの悪影響を受けていたのではないか。私の疑念は、確信に至りつつあった。


 そういえば、殿下本人は、自身の態度の豹変についてどう考えているのだろう。

 気付いているのだろうか。


「あの、殿下……」

「なんだ?」

「舞踏会の日のこと、覚えていらっしゃいますか?」


 少し、緊張する。

 もし、あの時に私へ抱いた悪感情を、殿下がはっきりと覚えていたら……。

 今の私の質問は、完全なやぶ蛇だ。


 でも、今しっかりと確認しておかなければ。

 今後、私が殿下へどのように対応していくかが、大きく変わる。


「それなんだがな……。実は、良く覚えていないんだ。何か揉め事があったような気はするんだが……。他の者に聞いても同じような回答で、正直言って、気味が悪い」


 殿下の答えに、やはりと思った。

 あの場で、間違いなくアルシュベタは何かを仕掛けていた。もう、疑いようもない。


 殿下や周囲の者たちの記憶が曖昧になっているのであれば、私に対する悪評も、うまくすればかき消せそうだ。私自身のためにも、実家のためにも、このまま放置しておくのはよろしくないだろう。


 ただ、今はまず、殿下との関係を強固にしておくことに注力しないと。

 アルシュベタにちょっかいをかけられても、ほつれないほどの強固な絆を……。


「皆様もというのが、確かに不自然ですわね」

「君もそう思うか、ナティー」


 私はうなずいた。


 うん、会話の流れはいい感じだ。

 さて、私は次に、どうすべき?

 原因を一緒に探りましょうか、と提案してみるのが、よさそうかな?


 殿下が抱いた疑問に、私が手を貸して一緒に答えを求める。

 いい感じで関係性を深められそうな気がする。


 よし、この手でいこう!


 私は決断した。協力を申し出よう。


 意思を殿下へ伝えるべく、私は口を開いた。

 そのとき――。


「うっ!?」


 殿下は突然うめき声を上げた。そのまま、テーブルに突っ伏す。


「で、殿下!」


 私が驚いて大声を上げると、異変を感じ取り、壁際から数人の近衛が駆け寄ってくる。

 殿下に目を向けると……。


「う、うそっ……」


 眼前の光景が、信じられなかった。

 なぜなら、殿下の全身から、次々と黒いもやが湧き出てきたのだから。


 もやは殿下の傍に集まりだし、次第に子供の大きさくらいの人型を形成した。


「な、なんですの、これ……」


 私は絶句した。


 人型のもやが、私を見てニタリと笑った気が……。

 背筋がぞくりとした。


『フシャァァァッッッ!!!!』


 もやは突如、気味の悪い鳴き声を上げた。


 この場を離れたい。

 けれども、気を失っている殿下を、置いてはいけない。それに、そもそも足がすくんで動けなかった。


 助けを求めようと、駆け寄ってくる近衛に顔を向けた。だが――。


「えっ!?」


 いつの間にか、近衛兵たちは壁際に戻っていた。何ごともなかったかのように、直立不動でこちらを見つめている。


「な、なんで?」


 訳がわからず、全身から力が抜けた。

 刹那、もやが宙に浮き、そのまま私に襲いかかってきた。


「い、いやっ!」


 叫び声を上げると同時に、動かなかった私の身体が、動き出した。慌てて椅子から立ち上がり、後退しようとする。

 しかし、間に合わなかった。

 もやが私にまとわりつき、全身を包み込もうとする。


「や、やめて……」


 身体を巡る血液が、かちこちに凍ってしまうのではないかというほどの、強烈な寒気が襲ってきた。


 ちらりと壁際を見たけれど、やはり近衛兵は微動だにしない。もしかして、もやが見えていない?


「くっ!」


 もやで、視界まで奪われた。


 このまま、もやに取り込まれてしまうの?

 怖い、怖いわ……。


 寒気と恐怖に襲われながら、私は全身を震わせた。

 すると、そのとき――。


『ナターリエから、離れなさい!』


 凜とした声が、周囲に響き渡った。

 同時に、私の視界も戻る。


「もやが……消えていく?」


 私の身体から、白い光があふれ出した。光は私を覆っていた黒いもやを、次々とかき消していく。


 全身に、ぽかぽかとした温かさを感じた。

 この温かさは……光の精霊?


『忌まわしい闇の精霊よ、ね!』


 光の精霊が、ひときわ大きな声で叫んだ。

 白い光は激しく明滅し、最後にはパチンとはじける。


「すご、い……」


 黒いもやは完全に消え失せていた。

 これが、光の精霊の力……。


『危なかった……。危うく愛しいナターリエを、闇の精霊に奪われるところでした』

「えっ?」


 光の精霊の言葉に、私は言葉を失った。

 あのもやは、私の心を奪おうとしていたのか……。


『間違いありません。あの女――アルシュベタと言いましたか。その身か、もしくは身近な者の内に、闇の精霊を宿しているはず』


 光の精霊は断言した。


『ナターリエ、身辺にはくれぐれも注意なさい。私がいつも助けてあげられるとは、限らないのですから……』

「はい……。精霊様、ありがとうございました」


 私が礼を述べると、光の精霊はうれしげな笑い声を残し、気配を消した。身体に感じていた温かさも、一緒に消失する。


「うっ……」


 殿下がうめいた。


「殿下、大丈夫ですか?」


 私は殿下の側に寄り、肩に手を触れた。


「ナ、ナティー? 私は、眠ってしまっていたのか?」


 殿下は身体を起こし、周囲をキョロキョロと見回した。

 どうやら、今起こった出来事に気付いていないようだ。


「すまない、なんだか気分が悪いようだ。今日はこのあたりで失礼させてもらう」


 殿下はそう口にすると、よろよろとした足取りで宮殿に戻っていった。




「間違い、ないですわ……」


 光の精霊の言うとおり、アルシュベタは闇の精霊の力を借りている。

 殿下のこれまでの奇行も、闇の精霊の仕業に違いない。なにしろ、闇の精霊の力そのものとも言える黒いもやが、殿下の体内から次々と湧き出してくる様子を、この目ではっきりと見たのだから。


「私が魔女? とんでもないわ。魔女は、アルシュベタ……」


 これで、排除すべき敵が明確になった。私が断頭台の露と消える羽目になった元凶は、間違いなくアルシュベタだ。

 ここまでの状況を思い起こせば、闇の精霊の力はおそらく、人心を惑わす力。

 このまま放置していては、あの悪夢の再現だ。私は、こんなところで、死ぬわけには行かない。


「闇の精霊の力を排除し、アルシュベタを無力化しなければ。そして、魔女は私ではなく、アルシュベタだと周囲に認めさせなければ」


 そのためには、どうすればいい?


「やはり、私は聖女になるべき……」 


 他に手立ては、思い浮かばなかった。

 たとえ父様に拒まれようと、聖女にならなければ、私に未来はない。


 腹をくくる時が、来たのかもしれなかった――。

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