第3話 不穏な影
「やはり、殿下は心あらずでしたわね……」
私は盛大にため息をついた。
エリアス殿下とのお茶会も終わり、今はユリウスを伴って馬車に向かっているところだ。
宮殿の本館と王族のプライベートエリアとを結ぶこの渡り廊下に、人気はない。
人目を気にしなくてすむのを幸いに、私はユリウスに愚痴をこぼしていた。
「殿下も丁寧に対応していらっしゃいましたが、確かに、心がこもっていたかと言われれば……」
「あなたもそう感じた?」
私の問いかけに、ユリウスは苦笑しながらうなずいた。
少し離れた場所から見守っていたユリウスにも理解できるほど、私と殿下とのやりとりは、表面上の形だけのものに見えたようだ。
「このままでは……。このままでは、わたくしは……」
首と胴がお別れをしてしまう……。
嫌。
そんな結末、絶対に嫌。
かといって、殿下の気持ちをこちらへ向けさせるだけの強力な手札が、今の私にはない。
「お嬢様……。先ほども感じたのですが、何かにおびえていらっしゃるので?」
「あっ……」
周囲に聞こえないよう、ユリウスが声を潜めて尋ねてきた。
いけない。
ただの夢のせいで、従者を不安がらせてしまうなんて。
主人失格だ。
「だ、大丈夫ですわ。今朝の夢見が悪かっただけで、本当にたいしたことはありません」
「ならいいんですが――」
そのとき、不意にユリウスは口をつぐみ、腰に下げた剣の柄に手を置いた。
キョロキョロと用心深く周囲を窺っている。
「ユリウス?」
「シッ! お静かに、お嬢様!」
何が何やらわからず、私はユリウスの背後で立ち尽くした。
するとそのとき――。
「危ないっ!」
突然ユリウスに突き飛ばされ、私は柱までよろめき、床にへたり込んだ。
ドシュッ!
鋭い風切り音とともに、一本の矢が床に突き刺さった。
先ほどまで、私が立っていた場所だ。
「チッ! 誰だっ!」
ユリウスが怒声を上げる。
だが、もちろん返事はない。
「ユ、ユリウス……」
なんとか声を絞り出し、ユリウスの名を呼んだ。
突然の事態に、頭がついていかない。
鼓動が激しい。息が、苦しい……。
「お嬢様!」
ユリウスが駆け寄ってきて、私の肩を抱いた。
「ゴホッ! グッ!」
呼吸が浅くなり、あえぐように過呼吸を繰り返した。
目眩がする。
そんな私の背を、ユリウスが優しくさすってくれた。
しばらくそのままユリウスに身体を預けていると、徐々に乱れた呼吸も収まってきた。
「あ、ありがとう、ユリウス。もう大丈夫」
柱に背を預けて、数回深呼吸をした。
「無事で良かった……。しかし、いったい誰が」
ユリウスが立ち上がろうとした。
そのとき、私は無意識のうちにユリウスの手をつかんでいた。
「ま、待って。そばに……」
足がガクガクする。立ち上がれそうになかった。
今ユリウスに離れられると、恐怖で頭がどうにかなりそうだった。
ユリウスはうなずき、黙って私の隣に座り込んだ。
「ありがとう。本当に、ありがとう、ユリウス」
「……気にするな。これが俺の仕事だ。感謝されるまでもない」
ユリウスはぷいっと横を向くと、口調を崩してぶっきらぼうに答えた。
ユリウスはそう言うが、もし私が一人だったとしたら、きっとあの矢の餌食になっていた。私は渡り廊下の違和感に、まったく気付いていなかったのだから。
あらためてユリウスの横顔を見つめた。
優秀な従者。
そして、私の、幼なじみ……。
本来なら、騎士団に入るなりして、もっと華々しい活躍ができるのではないか。
私なんかの従者をせずとも、ユリウスの実力ならいくらでも立身出世ができるのではないか。
そんなユリウスに、私はいったい、何を返せているのだろうか。
私の存在が、ユリウスの将来を狭めている。そんな不安が、脳裏をよぎる。
「ナティー……お嬢様、誰かに狙われる心当たりは?」
ユリウスは口調を戻し、先ほどの襲撃者について私に確認をしてきた。
心当たりはなかった。
殿下の他の婚約者候補だった令嬢たちも、今ではもう私に嫌がらせなんかはしてこない。そもそも、矢で危害を加えようだなんて、ご令嬢の嫌がらせの範疇を超えている。
そんな事実が公になれば、私の実家とその令嬢の実家との戦争になりかねない。
近衛騎士団や王国軍に太いパイプを持つ父様に、喧嘩を仕掛ける命知らずな貴族なんて、はたしているのだろうか……。
「不気味ですね……。何かの陰謀に巻き込まれたってことは」
「正直、わからないわ」
ふと、悪夢の中のあの伯爵令嬢の顔が、ちらりと頭をもたげた。
でも、あれはあくまで夢。
今まで、私はあの令嬢に会ったことはない……はず。
婚約者候補にも入っていなかったのは間違いない。
でも、なぜだろう。胸が締め付けられる。
目をつむり、胸元で拳をぎゅっと固めた。
「どうして……」
「お嬢様?」
「どうして、私ばかりがこんな目に……」
周囲の大人の期待に応えるよう、私は今まで必死に努力をしてきた。
私だって、できれば妹のように、もっと遊びたい。自由に振る舞いたい。
でも、そのわがままは決して叶わなかった。
第一王子の婚約者になれ。将来の王妃になれ。
父様や母様、家庭教師の先生の圧力に、私は抗えなかった。
そもそも、抗おうという気持ちすら、ほとんど起こらなかった。
大貴族の娘の義務。侯爵家の長女としての役目。
幼い頃から言われ続けてきたこの言葉が、呪縛のように私の心をがんじがらめにしていた。
しかし、いくら努力を続けても、殿下は一向に私へ振り向かない。
このむなしさを、いったいどう処理していけばいいのか。
そこに、今度は命まで狙われた。
私が何をしたっていうんだ。
文句があるなら、姿を見せて正々堂々と言ってみろ!
……なんて息巻いてみたけれど、きっと小心者の私では、面と向かってしまえば何も言えないんだろうな。
侯爵家のお人形さん――。
私自身、嫌でも痛感する。
言いなりになるばかりの、木偶人形。殿下の言葉に、ただうなずくだけの置物。
時折思う。
このままでいいのか、と。
かといって、私には殿下の婚約者以外の、生きるすべを知らない。
生まれた時から、私に選択肢なんてまったくなかった。
「お嬢様はやはり、難しく考えすぎているんですよ」
「でもっ!」
「もっと、力を抜いていいと思いますよ」
ユリウスの大きな手のひらが、拳を固めた私の手の甲を優しく包み込む。
「お嬢様の努力は、ちゃんと私が見ています。周囲が何か言ってきたとしても、私が『ふざけんなっ!』って怒鳴りつけて、蹴散らしてやりますよ」
白い歯を見せながら、ユリウスはニッと笑った。
「ふふっ。ユリウスなら、本当にやりかねませんわね」
「やりますよ、私は。やる時はやる男ですから」
私が口元に手を当てて忍び笑いを漏らすと、ユリウスは得意げな表情で袖をまくり、力こぶを作る。
無茶苦茶な意見だけれど、なぜだか心が軽くなった。
私の努力を、誰かが見てきちんと理解してくれている。
その程度のことだけれど、今の私には、本当に必要なものなのかもしれない。
ユリウスのおかげで、鬱ぎ込んでいた気持ちも和らいできた。
力の抜けていた足腰も、どうやら元通りに戻ったようだ。
「さぁ、お嬢様。このままここにいても、危険かもしれません」
立ち上がったユリウスが、私に手を差し伸べた。
私は慎重に手を取り、えいっと立ち上がる。
「ナターリエ、いつまでも鬱ぎ込んでいる場合じゃないわっ!」
私は頬を軽くはたき、気合いを入れ直す。
「その意気です、お嬢様。さ、いきましょう」
ユリウスと連れ立ち、王宮をあとにした――。
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