特訓とお見舞い

 臆人の特訓は翌日から始まった。


 この日は土曜日だったので、日曜日も含め、朝から夜まで特訓は続いた。

 特訓の内容は、大まかにこんなものだった。


「今回純に会得してもらうのは一つ。魔力循環だ」

「魔力循環?」

「身体に魔力を巡らせて大幅に身体能力を強化させる技だ。魔人が戦闘するときは、基本この魔力循環を使って身体能力を高めながら戦闘する」

「ふぅん、具体的にどうやるの?」

「んーとだな、魔力をイメージしてそれを身体に流しこむ感じだな。因みに、いま純は魔力循環を無意識に行ってるぞ」

「え、そうなの!? あ、だから身体がおかしいのか!」


 昨日の天井まで届きそうなくらいの跳躍力は、勝手に魔力循環が行われているからそうなってしまったのだ。


「あぁ。だから今回純がやるのは会得というより、コントロールだな。いまの純は蛇口は捻ったまま水が出っぱなしなんだ。その蛇口を開け閉めして出る量を調整できるようにする」

「蛇口……水……」


 蛇口から出る水の量を調整する。これは頭の中でイメージしやすいのではないかと思い、純は頭にそれを思い浮かべながら、水という名の魔力の栓を閉める。すると、身体からなにかがスッと消えたような気がした。


「お、発してた魔力が消えたな。なら、次は消えた魔力を放出してみろ」

「うん、わかった」


 蛇口から水が出る感覚をイメージして、魔力を放出する。その瞬間、身体が熱を帯び始めた。


「え――ちょ、身体が熱い! さっきと全然違う!」

「それはさっきは捻った蛇口がほんの数ミリだったからだ。今お前はようやく蛇口をちゃんと捻って魔力を放出したんだ。純、そのままの状態を維持してみろ」

「い、維持……こ、これ……結構……きつ」


 力むようにして固まっている純の額からは大粒の汗が滲み始め、それは顎を伝って床に落ちる。数滴垂れたところで、純はその場に崩れ落ちた。


 その瞬間、臆人はいつの間にか持っていたストップウォッチのタイマーを止めて唸る。


「大体、一分ってとこだな」

「ぜぇ……ぜぇ……」


 純はまるでフルマラソンでも走り終えたかのような大量の汗と息切れを起こしていた。


「お、臆人……身体が動かないんだけど」

「魔力がなくなった証拠だな。じゃあ少し休憩して、またやるぞ。この魔力循環の目標は三分維持させることだ。頑張れよ」

「ひ、他人事みたいに……」

「実際、他人事だからな」


 こうして純は三分間魔力循環を維持できるよう、寝るまでの間休憩を挟みながらこの魔力循環を何度も繰り返して身体に慣れさせていく。


 その結果として、月曜日。


「すー……すー……」


 純は月曜日に行われたすべての授業で爆睡をかました。これには自分でも驚いたが、おかげで少しは体力が回復したので、これで放課後も魔力循環の特訓ができそうだった。


 だが、ここで思わぬ事態が起きていたことを知る。それを知るのは不覚にも放課後だった。


 ――美愛が、風邪で休んでいるのだ。


 風邪を引いた原因は、どう考えてもあのとき雨に降られたからだろう。残り少ない学校生活だというのに、何たる仕打ちをしてしまったのか。本当に申し訳ない気分でいっぱいだった。


 なにかしてやれることはないか、と考えたが、特に良い案も浮かばず、すごすごと純は家に帰った。


 魔力循環に関しては、とりあえず目標であった三分間の維持そのものはできるようになった。けれど、維持するだけで身体を動かすこともままならないので、とにかく試行回数を増やして無意識にでも維持できる状態にならなくてはならない。


 そう意気込んで自室のドアを開けると、臆人はいつものようにだらだらと漫画を読んでいた。つい先程まで一緒に授業を受けていたのに、どうして一直線に帰って来た自分より臆人のほうが早いのか、その理由は聞かなくてもわかるので聞いてない。


「ねぇ臆人。風邪を早く引かせる魔法とかないの?」

「あってもお前には魔力が足りん。諦めろ」


 漫画を読みながら一刀両断されて、純は嘆息した。世の中、そんな甘くない。


「純。今日は悪いが魔力循環の練習はなしだ。それよりも大事なミッションがお前にはあるからな」

「大事なミッション? なにそれ?」


 すると臆人は読んでいた漫画を閉じ、にやりと笑って純を見た。嫌な予感がする。


「奏多がいま、風邪で学校を休んでるのは知ってるよな?」

「……うん、まあ」

「それは誰のせいだと思う?」

「……僕のせいだけど」


 自覚はしているが、臆人にこうしてはっきり言うのはなんだか癪だったので、目を逸らして言った。


 すると臆人は満足げに笑うと、こう言った。


「なら、お見舞いに行くのが筋じゃないか?」

「お、お見舞い!? 無理だよそんなの! ていうか奏多さんの家知らないし!」

「風邪を引かせた張本人がお見舞いにも来ないなんて、そう思ってるかもしれないっていうのにか?」


 けれど臆人のなにやら含んだ言い方に、あっと言う間に純の心は揺らいだ。


「え……そう思ってるってこと? まさか、魔法で調べたの!?」

「いやいや、俺はあくまで可能性の話をしただけだ。でも、そう思ってる可能性はあると思わないか? 後少ししかないここの学校生活を奪ったも同然だからな」


 そう言われると、純に反論の余地はない。


「で、でも僕、奏多さんの家どこにあるか知らないんだけど……」

「住所は楓から聞いたメモがある」


 臆人はまるでこうなることを予想していたかのように、ポケットから住所が書かれたメモ用紙を純に渡す。


「……でも、行ってなに話せばいいのかな?」

「まずは謝る。そんで、そのお詫びとしてデートに誘う。その話をして帰ってくればいい。そしたら次につながる」

「デート!? い、いやいやいやいやそれはもう本当に絶対無理! 風邪もひかせちゃったのに!」


 デートに誘うなんてそんな高度なことができたら、魔界に連れて行って告白する、なんて手段を選ぼうとはしない。ましてや、風邪を引かせてしまったのだ。そんなの雲を掴むような話だ。


「純。逆転の発想だ。普通にデートに誘うんじゃない。風邪を引かせたお詫びとしてデートに誘うんだ。この建前があるかないかってのは凄い大きい」

「……いや、でも」

「引っ越しはもうすぐだ。こんなチャンス、多分もう二度と来ない。それに、魔界で告白するにしても、振られたら元も子もない。振られる可能性を下げるためにも、デートに行って、親密度を高めたほうがいいと思わないか?」


 そう言われると、純も反論できない。


 それに、これは臆人なりの気遣いなのだろう。友達として、彼は純と美愛が上手くいってほしいと思ってくれているのだ。ならば、それに応えるしかない。


「わかった。行ってみるよ」

「そう言うと思って、ここにデートに誘う用のチケットを用意しておいた。期間内ならどの映画も観れるから話して決めろ。そんであとお見舞い用のフルーツも用意しておいた」


 用意周到とはまさにこのことだな、と内心思いながら、純はチケットと茶色の紙袋に入った果物の詰め合わせをもらう。


 そして純はメモを頼りに美愛の家へと向かった。



 美愛の家は、自転車で三十分ほど行った場所にあった。


 綺麗な住宅が建ち並ぶ一角に、彼女の家は一際大きな存在を放ちながらそこに建っていた。


 美愛の家は有り体に言ってとても綺麗で大きかった。まるでお城を思わせるような造りで、純の家と比べたらその広さは二倍近く違うかもしれない。


 こんな家に住む彼女はさながらお姫様だな、と白いドレスを着た美愛の姿を想像して思わず頬が緩む。


 ――けれど、白いレースのカーテンで閉められたガラス張りの窓から、ぼんやりと積まれた段ボールが見えて、純はあっと言う間に現実に引き戻された。


 彼女はもうすぐ、ここからいなくなるのだ。家庭の事情という、子供には絶対に覆せない大魔王にさらわれて。


 インターホンはすぐに見つかった。重厚な門の横に取り付けられている。


 だが、そのインターホンが中々押せなかった。


 臆人の話によると、両親は共働きで夜まで帰って来ないとのことなので、インターホンを押して出てくるのが母親、なんてオチはまずないはずだ。


 だが、勇気が出ない。とりあえず用件だけ伝えてお見舞いのフルーツを渡してさっさと帰ればいい。それだけなのだが。


「あら、どなた?」


 不審者と間違われてもおかしくないくらい家の前でうろうろしていたとき、背後から声がかかって、純は体をびくりと震わせた。


 振り返ってみると、そこには買い物袋を提げた一人の女性が不思議そうにこちらを見ていた。


 ほんのりと青みがかった髪に、多少皺が寄ったが綺麗な顔つき。その顔立ちはまさしく美愛を想起させるようで――。


「あら、もしかしてお見舞いに来てくれたの?」


 その女性は純が持っている茶色の紙袋を見て、嬉しそうに微笑む。

 間違いない。この女性は美愛の母だ。


「あ、いや、その――はい……」


 純は観念し、恥ずかしさに震えながらこくりと頷いた。


「お名前は? 私は八千代」

「純です。立山純」

「……あらそう。なら、中に入って。美愛も喜ぶと思うし」


 名前を聞いた途端、八千代は納得したように何度か頷いて、門を開けてくれる。


「え、で、でも――」

「いいから。さ、どうぞ」


 急かすように家に入ることを促す八千代に、純は従うしかなかった。


 家の中は想像通りとても綺麗で、いい匂いが立ち込めていた。今いるのは玄関の土間だが、これならずっとここにいられそうだ。


「待っててね、いま美愛の様子見てくるから」


 八千代は大きな買い物袋を二つ上がり框に置くと、純のほうを振り向いてそう言った。


 ちょうどそのとき、廊下を少し行った先の階段から、誰かが降りてくる音が聞こえてきた。


「あ、お母さん。ポカリ買ってき――」


 階段を降りてきたのは、案の定美愛で、そして彼女は廊下に降りてこちらを振り向いた途端、ぴたりと動きを止めた。


 彼女は、あまりに無防備な格好をしていた。ピンク色のふわふわとした寝間着を着ており、額には冷えピタを貼っている。表情は少し苦しそうで、顔もほんのりと赤い。


 そんな彼女が愕然とした表情でこっちを見た後、やがて「な、なんでいるの!?」と声を上げ、一目散に階段の陰に隠れてしまった。


「あらあら照れちゃって。可愛いわね」


 面白がるように八千代が笑うのを見て、さては確信犯だな、と純は思ったが、口には出さなかった。


「ちょっと待っててね。それと、そのフルーツ、カットするからそこの袋と一緒に置いといてくれる?」


 八千代はそう言い残すと、階段の陰に隠れてしまった美愛の下へ行き、そのまま階段を上っていった。


 ようやく一人になった純は、安堵したように息を吐く。そして一人ぼそりと。


「親いるじゃん……」


 臆人を忌々しく思いながらも、もし美愛の母親が家にいると言われていたらここまでこれなかったと思うので、その点だけは感謝する。


 それにしても、あんなにも無防備な美愛の姿を見れるとは思わなかった。きっと、一生忘れないだろう。というか、忘れたくない。頭に焼き付けておく。


 ここで誰かが階段を降りる音が聞こえてきた。顔を覗かせたのは八千代だ。


「準備できたみたいだから上がって。一番奥が美愛の部屋だから」

「わかりました」


 純は緊張しながら廊下に上がり、階段を使って二階へと上がる。


 美愛の部屋はすぐに見つかった。緊張で手が震える。


「えっと……失礼します……」


 恐る恐る純は部屋のドアを開けた。


 中はもう片づけが進められているのか、がらんとしていて物がほとんどなかった。広さとしてはかなり広いので、なんだか物悲しさを感じる。


 けれど、ベッド際のサイドテーブルには、空色のブックカバーがかかった本が置かれていたので、なんとなくそれで安心した。


 美愛は入って右奥のベッドの背もたれに背中を預け、こちらを見ていた。その顔はほんの少し不機嫌そうだった。


 彼女は白いワンピースを着ていた。初めての私服姿にどきりと心臓が高鳴る。本当にお姫様みたいだと、純は思った。


「どうしたの?」


 立ち尽くしている純を見て、美愛は不思議そうに首をかしげた。


「そこの座布団に座りなよ」


 部屋の中央には、空色の丸机が置かれていて、そこには座布団が対面するように二枚敷かれている。


「あ、うん……ありがとう」


 純は美愛の顔を見ることもできず、おずおずと座布団に座る。沈黙。


「君ってさ、本当に間が悪いよね。なんであのタイミングで来るかな。あのときもそうだったけど」


 ちょっとむすっとした様子で、美愛は言う。


「なんか君には、知らなくていいことばかり知られてる気がするよ」

「そんなことないと思いますけど……」

「だって君は私の両親に会って、私が泣いてるのも見て、ラノベが好きなことも知ってて家の場所も知ってる。おまけに私が異世界に憧れを抱いてるのもね」

「そのほとんどが不可抗力ですけどね……」

「それでも――ここまで知ってるのは君だけだよ」


 思わぬ一言に、頬が上気していくのがわかって、慌てて顔を逸らす。


「ありがとね、お見舞いに来てくれて。退屈だったからさ」

「そんなの、全然。そもそも僕のせいですから。ほんとすいません風邪を引かせてしまって」

「別に君のせいじゃないよ。悪いのは雨。というか、立山くんは風邪引かなかったんだね」

「まあ、馬鹿は風邪ひかないみたいな感じですかね……あはは」


 自虐気味に言ってみたが、美愛はきょとんとするばかりで、笑ってくれなかった。


 そこで自分が空回りしていることに気づき、慌てて話題を変えようとする。


「そ、それにしても結構片付いているんですね! お、驚きました」

「まあ、もうすぐだからね、引っ越し」


 美愛が寂しそうな顔をしたので、やってしまったと純は後悔する。これは完全に話題のチョイスミスだ。


「そういえば、立山くんは大丈夫だったの? 急に苦しそうにしてたけど……」

「あ、あれは気にしないでください! ちょっと、色々あって……」

「……そっか。なら、いいんだけど」


 またしても静寂。そして。


「ねぇ、あのときさ、なんて言おうとしたの?」


 美愛の瞳が、純を捉える。


「それは――」


 純は言葉に詰まった。あの続きの言葉なんて、あのときで無ければ言う勇気なんて出ない。


 なんて返せばいいのか逡巡していると、部屋がノックもされずに突然開いた。


「はい、お待たせ。切ったから食べて」


 入ってきたのは八千代だった。フルーツが山盛りに入った器とポカリを持っていて、丸机の上に置いた。


「美愛。ちゃんと水分とりなさいよ」

「わかってるよ。早く出て行って」


 八千代の注意を気恥ずかしそうに聞いている美愛と、その反応を楽しんでいる八千代。仲睦まじい様子にほっこりとする。


「じゃ、ごゆっくり」


 八千代は満足したのか、純に微笑みかけた後、部屋を出て行った。


「……食べよっか」

「そうだね」


 ベッドから出た美愛は、丸机の前に座って爪楊枝が刺さった一口サイズのフルーツをぱくりと食べる。そして美味しそうに顔を綻ばせる。


 純がその様子をまじまじと見ていると、美愛が不思議そうにこちらを向いて、「食べないの?」と聞いてきた。


「いや、食べますけど……フルーツ好きなんですか?」

「うん、大好き」


 大好き、という言葉にどきりとしながらも、純は平然と「そうなんですね」と返しながら、奏多さんはフルーツが好き、と頭に記憶させておく。


「ねぇ、異世界ってどんなところだった?」


 唐突にそう聞かれて、思わず純はむせた。口からフルーツが飛び出しそうになる。


「え、だ、大丈夫? あ、ポカリあるよ! ――あ、でもこれ」


 純は渡されたポカリを口に流し込んだ。これで吹き出す心配はなさそうだ。


「ありがとう、奏多さん」

「あ、うん。でも、風邪移しちゃったかも……」

「え?」

「あ、いや何でもない! それより、異世界の話聞かせてくれないかな」

「信じてくれるんですか?」


 純の言葉に、美愛は頷いた。


「最初は、信じられなかった。でも、よくよく考えたら、君があんな嘘をつくなんて思えないし、そもそも嘘をつく必要なんてないしさ。まあでも一番は――信じてみたくなって」

「信じてみたい?」

「うん。異世界は存在する。そう考えたら、少しは楽しい気分になれるから。だからさ立山くん。私に教えてよ。異世界がどういうところだったのか。魔物はいた? 西洋風の街はあった? 魔法は?」


 まるで子供みたいに目をきらきら輝かせながら質問してくる美愛に、純は思わず笑ってしまう。本当に、異世界が好きなんだな、と思う。


「そもそも異世界には変な黒い渦みたいなのに巻き込まれて行ったんだけど――」


 そこから草が空中を踊るように飛び回っていたこと。熊に似た魔物がいたこと。真っ青な空と広々とした草原。西洋風の街。森。高台から見た素晴らしい景色。


 ほんの少しだけしか見れなかった景色のすべてを、余すことなく美愛に伝えた。


 美愛はその話を、本当に楽しそうに聞いてくれた。それが嬉しくて、純は時を忘れて無我夢中で話した。


「あ、もうこんな時間……立山くん、時間大丈夫?」


 そう言われて時間を見ると、時刻は七時前。もうすぐ夕飯の時間だ。流石にそんな時間まで居座るのはまずい。


「そろそろ帰ろうかな。親もうるさいだろうし」

「わかった。あ、そうだ、立山くん」


 美愛はそこで何かを思い出したように携帯を取り出した。


「その、また急に来られても困るし、ライン交換しておかない?」


 そう言われて、純は嬉しさのあまり跳び上がりそうになった。今なら魔力循環をしたときなみに跳べる気がする。


「う、うん! わかった」


 あくまで冷静さを保ちながら、純は美愛とラインを交換した。


「じゃあ外まで送るよ」

「い、いやいや風邪引いてるんだから寝てないと!」


 上着を羽織って美愛がそう言ってくれるのは嬉しいが、外に出て悪化しても困る。


「そうよ美愛。あんたは寝てなさい。私が下まで送っておくから」


 話を遮って入ってきたのは、八千代だった。いつの間にか、部屋に入ってきていた。


「えー、別に大丈夫だよ」

「いいから。無理は禁物」


 八千代は美愛を急かすようにベッドに連れていく。美愛は渋々と言った様子でベッドまで行くと、振り返る。


「じゃあまたね、立山くん」

「うん、またね」


 こうして八千代と共に部屋を出て一階に降り、玄関に向かおうとするが、それを阻むようにがしっと肩をつかまれた。


「立山くん。少し話さない?」


 美愛を強引にベッドまで運び、自分が送ると言ったのはこのためか、と今更ながらに思った純は、拒むこともできずリビングへと通される。


「さ、座って座って。いまお茶淹れるから」


 こうして温かいお茶が運ばれてきたが、口を付ける気にもなれず、純は美味しそうにお茶を飲んでいる八千代を見た。


「それで、話ってなんでしょうか?」

「私たち、もうすぐ引っ越すでしょ? それでね、いま家がぎくしゃくしてるのよ。まあぎくしゃくしてるのは美愛とパパなんだけど」


 いきなり突っ込んだ家庭の事情に、純は何を言っていいのかわからず押し黙る。


「引っ越しがね、すごくショックだったみたい。あの子、初めてパパと喧嘩したの」


 美愛が怒っている姿は想像できなかった。八千代が顔を俯かせる。


「もちろん理由はわかってるから、私もパパも結構会社には反対したんだけどね。こればっかりはどうにもならないらしくて」

「……そう、なんですね」


 森山もそんなことを言っていたが、やはり当事者から聞くと重みが違う。


「美愛は、ここを出て新しい場所に行くのを怖がってる。新しい生活とか新しい友達関係とか、美愛は子供だからその気になればすぐに馴染めるのに、そこに恐怖心を抱いてる。上手くできるかどうか不安になってるの」


 八千代は真剣な表情で純を見た。


「だから、勇気づけてあげてほしいの。新しいところは怖くないって。その一歩を、その勇気を、あの子に与えてほしい」


 その言葉に、純はある疑問を抱いた。


「な、なんで僕なんですか?」

「それは純くんにはあの子、心を許してそうだったし、女の子より男の子に励まされたほうが勇気出ると思うの」

「な、なるほど……」


 でもそれなら励ますのが純でなくても、他のクラスメイトでもいいのではないかという思いが頭を掠めたとき、八千代はふふふ、とにんまり笑って思わぬことを言った。


「でも、一番の理由はね――あなたが若いころのパパそっくりだからよ」



 純は半ば呆然としながら家路についた。


 家に帰ると即座に自室のベッドにダイブした。なんだか凄い疲れた。


 それもしても、八千代が最後に言っていた言葉の意味がいまいち理解できない。美愛の父の若いころと似ているからなんだというのか。


 臆人に聞いてみようかと思ったが、馬鹿にされそうな気がしてやめた。


「臆人……? あ、チケット!」


 そこで臆人にもらった映画のチケットを思い出し、顔を青ざめる。せっかくお膳立てしてもらったというのに、すっかり忘れていた。


「そうだ!」


 だが、ここで頭が働き、純はすぐさま携帯を開く。


 そして、しばし画面の前で黙考した後、文字を打ち込んでいく。それは美愛宛てのラインのメッセージだった。


『風邪を引かせてしまったお詫びとして、映画でも観に行きませんか? チケットはあります』


 ドキドキしながらラインを送信すると、その返事はすぐにきた。


『今度の日曜日ならいいよ』


 舞い上がった純はすぐさまその返信に『大丈夫です』と送った

 するとすぐにまた返事が届き『じゃあ楽しみにしてるね』と返ってきた。その瞬間、純の胸はいっぱいになった。


 そして気づけば、純はそのまま眠っていた。

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