異世界へ
「じゃあまた明日ね、立山くん」
「はい、また明日」
名残惜しさはあるものの、純は校門で美愛と別れた。
楽しい時間は本当にあっと言う間だなと、純は鞄を両手で前に持ち、髪を揺らしながら帰っていく美愛を見て思う。
その帰り道。すっかり陽が沈んで暗くなった夜の帰路を、純は考え事で頭をいっぱいにさせながら歩いていた。
その考え事とはもちろん、この現実に異世界は存在するのかどうかということだ。
純が思うに、異世界が存在するのかどうかは、某猫型ロボットが21世紀からやってくるくらいに非現実的だ。
というか、空想上で作られた世界が現実に存在するかどうかを考えるなんて、絵に描いた餅は食えるのかどうか考えるのと一緒だ。
それでも、考えることを放棄するのはしたくなかった。
そもそも、彼女が言う異世界とは、ラノベにおける転生したら行ける魔法が使えて自然が豊かで、広大な世界のことを指しているはずだ。
その異世界が仮に存在したとすると、異世界に彼女を連れて行くには、様々な問題が立ちはだかっている。
その中で一番問題なのが、行き方だ。
純は歩道から、沢山の車が往来する車道を見る。
異世界転生ものにおいて、異世界に行くためのトリガーとなっているのは『死』だ。その中で一番多い死に方が交通事故になる。
純は赤になっている横断歩道の信号を見て止まる。横断歩道には飛び交うように車がそこを行き来している。一歩でも踏み出せば、瞬く間に交通事故が引き起こされて死ぬことができるだろう。
もちろん、純は交通事故を起こすつもりは微塵もなく、青信号になってから横断歩道を渡る。
死んで異世界に行けるかどうか試すなんて論外だ。そもそも死ななきゃ行けない異世界に彼女を連れて行くとしたら、「異世界に行くために僕と一緒に交通事故で死にましょう」という話になる。
これではただの心中の誘いだ。
というか、そもそも異世界転生ものにおいて死ぬ過程なんでどうでもいいのだ。異世界ものは異世界に行ってからが勝負。だから一番身近で手っ取り早く、人々が不運な出来事だと呑み込みやすい交通事故を選んでるだけなのだ。
なので、もし仮に死んで行ける異世界なんてあったとしても、こちらから願い下げだ。
そして次に挙げる問題として、その異世界は帰ってくることが出来なければならない。それも、特に条件とかも無しに。
行ったら最後簡単には戻れない異世界になんて彼女を連れて行こうとしたら、今度は心中ではなく駆け落ちの誘いになってしまう。
これをまとめると、彼女を連れて行く異世界は『死ななくて気軽に帰って来れる異世界』でなくてはならない。
「……いやいや、何考えてるんだ俺は」
そもそも異世界があるかどうかもわからないのに、行ける異世界に条件を付けてどうするのか。そんなの、絵描きでもない人に見たこともない景色を水墨画で描いてくれと言っているようなものだ。
純は溜め息を吐いた。一旦これまでのことを脳から削除するため、頭をぶるぶると横に振り、頭をリセットする。
それでも、出てくるのは異世界のことばかりだった。
「異世界……あれ、異世界ってたしか……」
一度脳内がリセットされたからなのか、純はあることを思い出す。
それは、異世界ものには二つのパターンが存在するということだ。
一つは、先程考えていた異世界転生。死んでから新たな世界でやり直すもの。
そしてもう一つ――それと似たようなものがあった気が。
純がそれがなんなのか、必死に考えているときだった。
「あれ、ここ……どこだ」
考えるのに夢中になっていたためか、気づけば見覚えのない場所に来てしまっていた。
戻らなければと純は後ろを振り向くが、振り返ってみてもその景色にまったく見覚えがない。というか、ついさっきまでは車が行き交う大通りを歩いていたはずだが、今は一本道のちょうど真ん中くらいにいる。左右は真っ白な壁があって、道は前も後ろも真っ直ぐ。先はどこまでも続いているように見える。
人の気配は皆無で、ただただ静寂がこの空間を漂っている。
純は急に怖くなった。――なにか、嫌な予感がする。
そしてその予感はすぐに的中した。
それは純がおもむろに前を見たときだった。
「うわ――!」
目の前に、黒い渦があった。
行く手を阻むように存在するそれは、まるで障子に指で穴を開けたみたいな形をしていて、とぐろを巻くようにうねうねとうねっている。まるで生き物のようだった。
「な、なんだ……これ……!?」
純は恐ろしさのあまり腰を抜かし、 地面にぺたんと尻餅をつく。そのまま後ろに退き下がろうとしたが、身体は強張って言うことが聞かない。
「だ、だれか……!」
振り絞るように出した声は、無情にも誰にも届かない。怖いという感情が、純の心を埋め尽くす。
動こうとしない身体を必死に動かそうともがきながら、純はほんの少しずつ黒い渦と距離を離していく。
黒い渦に、追ってくる気配はない。それに多少の安堵を覚えたのか、純はここでようやくその黒い渦を冷静に見た。
「あれ……?」
その黒い渦の中心部に、なにやら景色のようなものが映し出されているのが見えたのだ。純はそれが気になって、逃げることも忘れてじっと目を凝らす。
「これって……」
まず見えたのが、真っ青な空と広大な草原だった。次いで、街が見える。その街はどこか西洋を思わせる街並みで、異世界ではおなじみの光景だった。
そこで純は先ほどまで考えていた転生もののもう一つのパターンを思い出す。
『異世界転移』
異世界転移とは、転生とは違って『死』が引き金になるのではなく、異世界側から召喚されるだったり、異世界に続く扉を通ったり、何かを願ったりしたときなどのその事象が引き金になるというものだ。
そして今目の前にあるこの黒い渦と、渦に映し出されている光景を見る限り、もしかするといま、なにかの引き金で『異世界転移』が発生し、この黒い渦が異世界につながるゲートとしてここに現れたのではないだろうか。
もし仮にそうだとするならば――千載一遇のチャンスなのかもしれない。
純は恐る恐る立ち上がる。気づけば、身体は正常に動くようになっていた。そのまま、黒い渦へと近づいていく。
けれど純は、不意にその足を止めた。
もし仮に、この渦が異世界へと通じる扉だったとして。果たしてこっちの世界に帰ってくることはできるのだろうか。
もしこの異世界が帰ってこれない異世界だとするなら、この扉を潜った瞬間、家族とも友達とも、そして美愛とももう会えなくなる。それは嫌だ。
だが、同時にこのチャンスをみすみす逃すわけにもいかないと思っている。こんなチャンス、もう二度と巡ってくることはないだろう。
ならどうするのが正解か。純が考えあぐねていると――黒い渦が動き出した。
「え――」
黒い渦は、その端から黒い触手のようなものを何本も生成し、くねくねうねらせながら純に向かって伸び、いとも容易く純を捕まえる。
「ちょ――!」
純の必死の抵抗もむなしく、純は軽々と職種に持ち上げられると、そのまま黒い渦の中に放り込まれた。
「うわぁぁぁぁ!」
純は頭からその黒い渦に放り込まれ、多少の浮遊感を覚えた後、したたたかに地面に顔を打ち付ける。
「いったぁ……」
涙目になりながら、純はゆっくりと倒れた身体を起こしていく。地面に擦った右頬をさすりながら、あたりを見渡す。
――その瞬間、頬の痛みなんてすっ飛んでいた。
そこはまさしく幻想的な世界だった。青々とした空と、広大な草原。黒い渦からの光景からでは見えなかったが、遠くに海も見える。
ここはどうやら周りより高台になっているようで、周りの景色が一望できる。
その世界はどう見ても――異世界そのものだった。
純はしばし、その幻想的な風景に見とれていた。
やがて風が吹き、草原を舐めるように揺らすと、草原に生えていた草が一斉に舞う。その中の一つが、純の花の上に落ちた。
純はそれを恐る恐る拾って眼前に持ってくると――それはうねうねとまるで純の手から出ようともがくようにその身体を動かし始める。
「うわぁ!?」
慌ててその草を話すと、草は開放されたことを喜ぶように空を跳ねまわり、浮遊している草の群れに加わっていく。
それはまさに、目を疑うような光景だった。
「本当に来たんだ……」
呆然と立ち尽くしながらその光景を眺めながら、不意に気づく。
「そうだ――! あの渦!」
純は勢いよく振り返り、後方を見る。そこには鬱蒼と生い茂る暗く深い森しかなく、そこには黒い渦はなかった。
「そんな……」
たちまち、この幻想的な世界が灰色と化し、不安と恐怖がたちどころに純の心を支配していく。身体が震える。
この世界には、自分を知っている人は存在しない。ましてや、なにか危機的状況に陥ったときに、それを助けてくれる人もいない。
けれど大抵、そういうときにこそ危機的状況はやってくるのだ。
「グゥゥゥ……」
森から、真っ赤に染まった二つの目が見えた。次いでそれはゆっくりと徐々に森から姿を現していき、その体躯を露にする。
体長はおよそ二メートルほど。短い茶色の体毛で覆われており、四本足で立っていることから、その様相は熊を彷彿させる。
だが、普通の熊にはあるはずのない長い爪と牙――そして真っ赤に血走った目が、それを熊だということを否定する。
熊のような獣は、涎をだらだらと垂らしながら、まるで犬が警戒したときに出すような低い唸り声を上げている。――俺の縄張りに何の用だ。そう言わんばかりに。
「うぁ……!」
純の頭は、真っ白になった。
こんな大きい動物なんて、檻の中にいる状態でしか間近で接したことはない。しかもその動物は、調教され、人間慣れしている。少なくとも、こんな警戒心むき出しにして近寄ってくることはない。
「ひ……!」
純は熊のような獣に背を向けるようにしてその場から逃げ出そうとした。だが、上手く足が動かず、足がもつれてそのまま勢いよくその場にすっ転ぶ。
――それを合図に、熊のような獣が四本の足を駆使して一気に地を駆けた。
その速さは巨体に見合わず俊敏で、あっと言う間に純との距離は目と鼻の先になった。
目の前にいる熊のような獣が、よだれを垂らしながら、人間の胴体ほどの太さの前足を、勢いよく振りかざし、払うように落とす。
「――がっ!」
純はまともにそれを食らって草原をものの見事に跳ねまわり、やがて止まる。
「あぐ……!」
服は切り裂かれ、色んな所をしたたかに打った身体はどこもかしこも痛む。
――だが、それだけだった。
「……あれ?」
純はゆっくりと地面から身を起こしながら、体の傷を検分する。
身体を引き裂かれ、絶命してもおかしくないほどの攻撃を受けたはずなのだが、衝撃としてはがたいのいい人に芝生の上でタックルを食らったような感じだ。爪の食い込みも浅く、かすり傷程度しかついてない。
ようするに、大したことなかった。
「これ、もしかして……」
「グオォォォォ!」
熊のような獣は雄叫びを上げると、畳みかけるようにこちらに迫ってきた。
その速度は先程と同じなはずだが、どういうわけか遅く見える。これなら、かわすこともできるかもしれない。
熊のような獣が、先ほどと同じように前足を振りかざし、純を切り裂かんとした。だがそれを純は、身体を半歩後ろに下がることで避ける。
「グオォォォォ!」
熊のような獣はそのままの勢いで純に肉薄すると、口を大きく開けた。真っ白な牙と涎で濡れた口内が顔を覗かせる。かぶりつくように、純に迫ってくる。
それを純は、身体を前傾にして前に出ることで避けた。
そして、その踏み出した先は熊の懐だ。純はそのままお腹の部分に拳を叩きつけた。
「グオォォォォ!」
熊のような獣はかなりダメージを負ったのか、身体をよろめかせながら後ろに退いた挙句、痛みで呑み込めないのか涎が大量に滴り落ちる。
――やっぱり。
異世界ものにおいて、異世界にやってきた人間は、その世界では大抵身体能力が高くなっていることが多い。いわゆるチートだ。
これが、純にも働いているのかもしれない。その証拠がこの状況だ。
人間が素手で、熊にダメージを与えられるわけがないのだ。
「なら、もしかして魔法も……」
純はごくりと唾を飲み込んで、自分の手を前に突き出した。
異世界においてたいてい魔法を使う時に大切なのはイメージだ。具体的に色や大きさ、形などを頭の中で思い描くことができれば具体化できれば、きっと魔法はこの場に顕現するはずだ。
――イメージは自分と同じくらいの大きさの球体の炎。
「ファイアーボール!」
純はご丁寧に技名まで発しながらやってみたが、魔法は発動しなかった。
「あれ……違ったかな」
なんだか無性に恥ずかしさを覚えながらおどおどしていると、急に熊のような獣がくるりと身を翻して森へと駆けて行ってしまう。
「よかった……」
熊のような獣が森に消えたのを確認してから、純はへなへなと地面にへたり込んだ。
いま、こうして自分が生きているのが不思議だ。本当ならあの熊みたいな獣に殺されていてもおかしくなかった。
これも全部、このチート能力のおかげだ。
「これから、どうしよう……」
どうにか目の前の危機は乗り越えることができたが、これからのことについてはまったく考えていない。
「あの街に行ってみるのもありかな……」
今ここから見える街のことだ。そこなら、なにかしらこれから生きていく方法が見つかるかもしれない。
そう決心して立ち上がる――その瞬間だった。
「う――!」
せりあがってきたなにかが、純の口から飛び出す。
「え……?」
口から飛び出したのは、真っ赤な血だった。口の中が血の味でいっぱいになり、吐き出す。
「なに、これ……」
次いで襲われたのは、眩暈だった。次いで悪寒、手足のしびれ。吐き気。
「おえぇぇ……!」
視界がぐるぐる回りながら、胃からせりあがってきたものを吐き出す。血と混じった吐しゃ物は綺麗な草原を汚していく。
「う……ぐ……」
純は立つこともできなくなり、膝立ちになって手をつく。脂汗が流れ、動悸が激しくなる。
「どうなって……」
手に力が入らなくなり、崩れるように地面に倒れる。
「たす……け……」
掠れるような声を出しながら、必死に助けを呼ぶ。
そのとき、森の奥からドドドドドという地を揺らすような地響きが聞こえてきた。
誰か来る、そう思って森を見ていると、出てきたのは熊のような獣の群れだった。先頭には見覚えのある熊がいて、後ろにはその獣の体躯よりも一回りも二回りも大きな獣がひしめき合うようにしてこちらに向かってきている。
純は絶望した。死を悟った。
どうしてこんなことに、という想いが純の胸の内をぐるぐると回る。ただ、自分の想い人を異世界に連れて行きたいと願っただけなのに。
「奏多……さん」
結局、彼女には告白できずじまいだ。それが、心残りだ。
「僕は、あなたのことが……」
どうせもう言えないのなら、ここで言ってしまおう。
「す――」
「馬鹿お前。その先は本人の前で言えっての」
そのとき、声がした。しかもそれは、どこかで聞いたことがある声だった。
「あとは任せろ」
その声に安心した純は、ゆっくりと目を閉じた。
プツンと、意識が途切れた。
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