募る想い
それは朝のホームルームでの出来事だった。
教壇の前には森山と美愛が立っていた。
「一学期を区切りに、奏多は転校することになった」
森山はよく響く声でそう言った。その瞬間、クラスが一気に騒然となる。
そのざわつきの大半が、なんで今、で埋め尽くされていた。
いまは三年の一学期の終わり。つまり、残りたった二学期しかない中途半端なタイミングで、彼女は新しい中学に転校になるのだ。
そんなの、あまりにむごすぎる。
クラスが驚きと動揺に包まれる中、純だけは、彼女の転校に納得していた。
彼女の父親が学校に来ていたのも、彼女が教室で涙を流していたのも、彼女が――異世界に行きたいなんて言ったのも、きっとこれが原因だったのだろう。
「そんな……! 私達もうすぐ卒業なのに、タイミング悪過ぎませんか!」
まるで噛みつくように、純の隣の席に座っていた一人の女子生徒が異論を唱えた。
彼女の名前は紅葉楓。彼女は美愛と大の仲良しだ。中学一年生のときからずっと一緒にいて、親友とも呼べるべき存在だ。その彼女も、転校のことは知らなかったらしい。
「せめて卒業まではと、私も父親に掛け合ってみたんだが、会社の都合らしくてね。どうしても変えられないらしい」
森山は自分の不甲斐なさを嘆くようにそう言った。
そんな森山に、楓は強く言うこともできず、ぐっと奥歯を噛み締め、縋るように美愛を見た。
「ごめんね、楓ちゃん」
曖昧に笑ってそう言う美愛に、楓は気を削がれたのか、すとんと落ちるように席に座った。肩が震えているのがわかったので、純はそっと彼女から目を逸らした。
「そういうわけだから、ちゃんと転校するまでに喧嘩した人は仲直りして、まだ伝えてないことがある人は、これを機にちゃんと伝えておくように」
森山はそう言うと、ちらりと純のほうを見て、またすぐに戻した。きっと先生なりの世話の焼き方なのだろう。
「その、短い間になりますが、よろしくお願いします」
ホームルームが終わると、多くのクラスメイトが心配そうに美愛に駆け寄って行く。そんな皆に、美愛は終始明るく接していた。
そんな彼女の姿を見るのが辛くて、純は視線を窓の外に移す。いつもと変わらない街並みがそこに映し出されていた。
「おい純」
ぼうっと外を眺めていると、一人の男子生徒――荒田臆人が、からかい顔で純のもとにやってきた。
「あれ、なんだ。思ってたより平気そうだな。世界が終わったような顔でもしてるかと思ってたんだが」
「それ、どんな顔なの」
彼は、中学一年のときからずっと同じクラスで、一番腹を割って話せる友達であり、唯一美愛に片思いしていることを知っている人物でもある。
「いや、ちょっと昨日色々あってさ、なんとなく知ってたというか」
「そうだったのか。で、どうすんだ? 告白。転校まで後一ヶ月くらいしかないぞ」
「い、いやいやそんなの無理だよ!」
ド直球に聞いてくる臆人に、純はきょどりながら首を左右にぶんぶん振る。
「でもお前、二年半も片思いしっぱなしで終わったら、一生後悔するぞ」
そう言って臆人は純の背中をバシッと叩くと、
「気張れ気張れ! この際やらないで後悔するよりやって後悔だ!」
「それ、振られるの前提じゃん……」
ずばずばとした物言いの臆人と、気弱そうに溜め息を吐く純。
性格としては正反対な二人だが、なぜか馬が合うのだから不思議なものだ。
「まあでも、頑張ってみる。今日は、あの日だし」
「なんだ、もうか。じゃ、頑張れよ」
「うん」
こうして今日の時は進む。
ここ八塚中学校の図書室は他の中学に比べれば蔵書が多く、室内も広々としていて、読書をするにはかなり快適な環境となっている。
しかし現実は、そもそもの利用者が少なく、その利用者も本を読むというよりは、テスト勉強の場として使われるのがほとんどだ。
「では、来週の月曜日までに返却をお願いします」
純は受付から生徒にバーコードを通した本と返却期限が記載されたレシートを渡す。
その生徒が出ていったところで、図書室には誰もいなくなり、純は椅子の背もたれに身体を預けてぐっと伸びをした。
外は夕暮れで、窓から痛いくらいに夕日が差し込んで窓際の名が机を橙色に照らしている。
このくらいの時間になると、図書室にはほとんど生徒はいなくなる。閉室まであと三十分。それまではゆったりとした時間が流れるはずだ。
純は中学一年生の頃から図書委員をやっている。もうかれこれ二年半が経とうとしているので、作業は手慣れたものだ。
純が図書員を選んだのは、元々本を読んだり映画やドラマを観るのが好きだからという理由もあるのだが、主となっている理由は他にある。
それは――
「隣、いいかな」
やってきたのは、青ぶちの眼鏡をかけた美愛だった。彼女は図書業務をやっているときはいつも眼鏡をかけている。本人曰く、そのほうが司書っぽいかららしい。
「ど、どうぞ」
美愛はゆっくりと、隣の椅子に腰かける。それだけで心臓が跳ね上がる。髪からほのかに香るシャンプーの匂いが鼻をくすぐった。
「人全然いなくなっちゃったね」
「テスト期間がくれば、もう少し増えると思いますよ」
「いいなぁ。私も本に囲まれながら勉強したい」
「すればいんじゃないですか? いつもがらがらですし」
「んー、勉強は家でやるものって言われてきたから。それに、遅くなるとうるさいし」
美愛はちょっと困った顔でそう言う。
「家でできるなんて凄いですね。僕はすぐに誘惑に負けて漫画読んじゃいます」
「君、それで草刈受かるの? あそこ偏差値結構高いよ?」
困った顔を変えてくすくす笑ってくれる美愛に、純は頭をかきながらはぐらかすように笑う。
この二人だけの空間。
純は、こうなることを夢に見ながら図書委員になった。つまり、美愛と仲良くなるために図書委員になったのだ。
純が美愛に出会ったのは、まだ午前中で授業が終わる入学してすぐの頃だ。
純は偶然、図書室の前を通り過ぎようとしていた。
そのとき、なんとなく廊下の窓から図書室の様子を覗いて、その足が思わず止まる。
彼女は、カーテンから薄く漏れる陽の光を浴びながら、楽しそうに本を読んでいた。まるで、その時だけはこの世界から別の世界にでも行っているかのようで。
純は、目が離せなかった。
それ以来、純は美愛のことを教室でも外でも、居たら目で追うようになった。そして彼女が図書委員になることを聞きつけ、こうして入った次第だ。
こうして二年半、純はこの想いを伝えることなく、美愛と共に図書委員をやっている。
彼女は何も知らない。それに甘んじて、一図書委員仲間として、純は傍にいる。それだけで、満足していた。
――今日、転校を聞かされるまでは。
「昨日は、みっともない姿をみせてごめんね」
純の息がハッと詰まる。心臓が驚くように飛び跳ねる。
「い、いや、こっちこそ、覗き見るようなことしてすいません」
純は美愛の顔を見ることも出来ず、俯きながらそう謝った。
「それでさ、立山くん、一つお願いがあるんだけど……」
急に、美愛の口調が弱弱しくなって、純は思わず顔を上げた。
彼女は恥ずかしそうに俯いていた顔を上げ、こちらに顔を近づけてきた。どんどん、顔が近くなる。髪からふわりと良い香りが漂ってくる。
純が恥ずかしさと動揺で固まっていると、美愛の顔は、純の耳元で止まった。
「あのこと、誰にも言わないでね」
生暖かい吐息が耳にかかり、純は思わず背筋を伸ばす。緊張と恥ずかしさで頭がおかしくなりそうだった。
「い、言いませんよ」
それでもどうにか平然を装いながらそう返すと、美愛はちょっと不満げにこう言った。
「それにしても、君って間が悪いよね。どうしてあのタイミングで来るかな」
「それは奏多さんがちゃんとお父さんを連れて行かなかったからですよ。なんで連れて行ってあげなかったんですか」
「それは……まぁ、反抗というか、抵抗というか」
ふてくされた様子でそう言う美愛に、純は思わず吹き出す。
「奏多さんって子供ですね」
「子供だからね! あーあ、君がパパを連れてこなかったら、もしかすると転校はなくなったかもしれないのに!」
「僕のせいにしないでくださいよ」
いくらなんでも横暴なので反論すると、美愛は寂しそうに笑った。
「でもさ、そう考えちゃうんだよ」
「奏多さん……」
いまにも泣き崩れそうな彼女に、純は何も言えなくなる。そんな自分に腹が立った。
「転校が決まったのも急でさ、まだ実感ないんだ。ほんとに行くのかなって」
そう言う美愛の顔は不安そうで、触れれば今にも壊れてしまいそうだった。
「学校は通うんですよね?」
「うん。でも、出席日数が足りるように調整してくれるらしいから、行きたいときに行けばいいらしいよ」
「そう……なんですね。良かった、と言っていいのわからないですけど」
「うん。不幸中の幸い」
その物言いは、言い得て妙ではあるかもしれないが、決して同調できるものではなかった。
「な、なにか僕にできることはありませんか?」
彼女の力になりたい。そう思った瞬間、この言葉が思わず口をついた。
「できることかぁ……私にすらないからなぁ……」
「あ、そうだ! この前読んだラノベ貸しましょうか? あれ、結構面白くて、元気出ま――!」
「ちょ、ちょっと! いきなりそういうこと言わないで!」
美愛は慌てた様子で純の口を塞ぐと、周りを確認する。そして誰もいないことがわかると、手をどけて、取り乱したことを取り繕うに一度咳ばらいをした。
「君、そのこと他の人に話したりなんかしてないよね?」
疑るように目を向けてくる美愛に、純は笑って答えた。
「言っても信じませんよ、奏多さんがラノベオタクだなんて」
そのことに気が付いたのは、中学二年生のときだった。
ちょうどそのころ、純はほとんど美愛と会話ができず中々仲良くなれないことに悩んでいた時期だった。
そのときに話すきっかけになったのが、ラノベである。
美愛は、いつも本を読むとき空色のブックカバーをかけている。だから、図書委員の仕事を終えて帰ろうとしたときに、空色のブックカバーにかけられた本が机の上に置かれているのを見て、すぐに彼女のものだと気が付いた。
彼女は、ついさっき帰ったところなので、きっと忘れてしまったのだろう。そう思って純はその本を手に取った。明日、渡してあげようと。
だが、ここで純にある思いがよぎる。
彼女が読んでいる本がなんなのかわかれば、話のきっかけになるのではないかと。
そう思ったら、中身を見てみたくなった。図書室にはもう誰もいない。チャンスは、今しかない。
純は恐る恐るその本の一ページ目を開いて――
「ダメ――!」
つんざくような叫び声と共に、その本は瞬く間に取り上げられた。
「か、奏多さん!?」
美愛は走って戻ってきたのか息が絶え絶えで、髪もボサボサになっていた。
「み、見た……?」
顔を赤くしながら、恥ずかしそうに美愛は本を抱えて純にそう聞いた。
その問いかけに対して、純はこう答えた。
「それ、面白いですよね」
「……え?」
予想外の反応に、美愛は戸惑ったような顔をする。
「僕も読んだことあるんです」
純はラノベでも大衆文学でも、あまり隔たりを作らず読んでいた。そしていま目にしたラノベの作品は、以前読んだことがあったのだ。
「ラノベ、好きなんですか?」
「好き、というか……バイブル」
純は美愛が恥ずかしそうに顔を俯かせてそう答えたのを聞いて、くすりと笑ってしまう。
「な、なに!?」
「いや、バイブルって口にする人初めて見ました」
「う、うるさい! それより、絶対誰にも言わないでね! 絶対だよ!」
それから二人はこれをきっかけに話をするようになった。
つまり、ラノベは純にとって話すきっかけを与えてくれた恋のキューピッドだったりするわけだ。
「誰にもばれないようにしてたのに。君くらいだよ、中身を見ようとしたの」
「それは忘れてください……」
「まあ、そのおかげでこうして君と話せるようになったから、いいんだけど」
「え?」
「ラノベ。話せる人いなかったから」
「……あぁ」
一瞬浮足立った純だったが、すぐに現実に引き戻された。紛らわしい言い方である。
「君には、意外と感謝してるんだよ。だから、時々は思い出してね、私のこと。なんて」
冗談めかしてそう言ってくれる美愛に、純の胸が締め付けられる。胸がいっぱいになる。
想いが、爆発しそうになる。
「あの――奏多さん!」
息を張り詰めて、心臓が暴れ出すのを抑えながら彼女の名前を呼ぶ。彼女の顔を見る。
「――――」
彼女の目から、涙が零れ落ちた。それはぽたぽたと垂れて、制服に落ちていく。
「あれ、ごめん……なんか、急に」
美愛は自分でも驚いているのか、あたふたとしながら手の甲で流れ落ちる涙を拭う。
「待って、すぐ――」
「いいですよ。いま人いませんし。ぼく横向いておきますから」
「……うんわかった。あと、ティッシュ」
顔を背けながら手渡してくれと言わんばかりに乗を伸ばしてくる美愛に、純は苦笑しながら机の上に置いてあった箱ティッシュを手渡し、横を向いた。
数分後。
「ありがとう」
美愛はお礼を言って純に箱ティッシュを渡した。
「少しは気が晴れましたか?」
「うん。そういえば、さっき何か言おうとしてなかった?」
「え!? あ、いや、気にしないでください」
「そっか……あ、もうこんな時間。早く閉めないと」
美愛が時計を見て慌てて立ち上がる。
「あ、ほんとだ」
純もそれに合わせて立ち上がり、図書室を閉める準備を始める。
だが、それもすぐに手につかなくなり、気づけば美愛のことを見つめていた。
このまま、終わっていいのだろうか。
図書委員の業務は当番制で、学年クラス関係なくごちゃまぜに回していくため、夏休みが始まるまでに美愛と同じ当番になってこうやって話をするのは、もうないかもしれない。
それでも、告白する気分にはなれなかった。ここで告白しても、彼女は困るだけだ。もうすぐ、離れ離れになってしまうのだから。
だとすると、自分にできることはなんだろうか。
ふと、机の上に置かれた空色のブックカバー包まれた本が目に留まる。このブックカバーは、彼女が中学一年生の頃から使っているはずだが、寄れもしわもなく綺麗で、大切に使われていることがわかる。
出会いも、仲良くなったきっかけも、すべてはこの本から始まっている。
ならきっと、この運命を変えるのも――。
「うわ――!」
窓から、強い風が吹いた。美愛が驚くように声を上げる。
その風は、空色の本のページをめくり始める。
「え……」
純は、その光景に目が離せなくなる。やがて本はあるページでその勢いをぴたりと止める。
そこに書かれていた文を、純は目で追っていく。
そして、ある登場人物の言葉が目に止まる。
『異世界に行きたい』
純は、あのとき美愛に言われた問いかけを思い出した。
「奏多さん」
「なに?」
「奏多さんはまだ、異世界に行きたいと思ってますか?」
その問いかけに、美愛は数秒押し黙る。そして、こう言った。
「思ってるよ」
その言葉を聞いて、純は決心した。
もしこの願いを叶えることができたならば――
ほんの少しくらい――
彼女は救われるのかもしれないと。
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