とある少女の涙

 純は教室のドアを閉めると、体内に溜まっていた緊張をすべて吐き出すかのように息を吐いた。そして先ほど話していた内容を思い返して、頬が上気する。


 他の誰かに、自分の恋心を知られてしまった。生徒ではないにしろ、それは思春期の学生にとっては穴があったら一生入っていたいくらい気恥ずかしい。


 森山は他言しないとは言っていたものの、もしなにかの拍子に喋ってしまい、彼女に自分の想いが伝わってしまったとしたなら。


 そう思うだけで身震いしてしまう。自分と彼女では、あまりに釣り合ってないからだ。


 ふと純は、洗面台に映った自分を見つめた。


 鏡に映った自分は、どこか自信なさげで、おまけに背も小さくて、線も細い。成績も良いとは言えなくて、運動神経はどちらかといえば悪い。


 対する彼女はどこにいても目を引くような雰囲気を持ち合わせていて、背も高く、すらっとしている。成績もトップクラスで、運動神経も良いと聞く。おまけに家はお金持ちだそうだ。


 言うならば彼女は、高根の花なのだ。


 そんなことを考えながら階段を下り、昇降口に差し掛かったときだった。


「あ、立山くん。おはよう」


 いま現在進行形で頭を埋め尽くしていた彼女――奏多美愛が、純に向かって手を振っている。もう片方の手には靴が握られていた。


「あ、その……」


 急に声をかけられて心の準備ができていなかった純は、舌が回らず口ごもる。


「あ、おはようはおかしいか。こんにちは? いや、こんばんは?」


 そんなことなど露知らず、美愛は夕暮れに差し掛かった空を見ながらそうつぶやいた。


「まあ、どっちでもいいか、そんなこと。立山くんも面談?」

「あ、う、うん。今終わったとこ」


 ようやく舌が回り始めた純は、頷く。


「じゃあ私の前は立山くんだったんだ。どうだった面談? 志望校決まった?」

「う、うん、まぁ……」

「へぇ、どこ受けるの?」

「……草刈」


 草刈高校は、純のいまの第一志望の高校であり、それは同時に美愛の第一志望でもあるはずだ。以前そう言っていたのを偶然――聞き耳は立てていたが――聞いたので、間違いない。


 驚くだろうか? ひょっとして嬉しがるだろうか? それともなんの反応もないだろうか?


 美愛の反応を、心臓をどきどきさせながら待つ。


「……そっか。そうだったんだ。……知らなかったなぁ」


 美愛はどの反応とも違った。彼女は――寂しそうにそう言ったのだ。

 その意外な反応に、純は思わず口をついた。


「え、奏多さんも受けるんじゃ……」

「あれ、知ってたの?」


 純はその瞬間、しまったと思った。


「あ、いや! 受けようかなって先生に言ったら、奏多さんも受けるって言ってたから!」


 咄嗟にそれっぽい嘘を吐いて場を凌ぐと、美愛は、え、と驚くような表情を浮かべた。


「先生が? ……まだ知らなかったのかな」

「どうかしたんですか?」


 純はまたしても思ってもない反応をする美愛に不安を覚え、恐る恐る聞いた。


「あ、うん……私、もう志望校違うんだ」

「え、そうなんですか!?」


 驚愕の一言に思わず大声を出してしまった純に、美愛がくすりと笑い出す。


「そんなに驚かなくても。よくある話じゃない?」

「え、じゃあ志望校はどこにするんですか?」


 さりげなく志望校を聞き出す純に、美愛は困ったように眉をひそめた。


「それがさ、まだ決まってないんだよね」

「決まってない……?」


 純の頭の中が疑問符でいっぱいになる。志望校を変えるのにその志望校が決まってないとはどういうことなのだろうか。


「それは、どういう……?」

「まあ、後々わかるんじゃないかな。そろそろ私行かないと。じゃあまたね」


 まるで追求から逃げるように、美愛は手を振って歩き始める。


「あ……」


 純の手が無意識に美愛を引き止めるように肩に伸びた。だが、それはすぐに自分の元に引き戻される。


 彼女はなにかを隠している。そしてそれは人に言いたくないことなのだろう。


 それを聞き出したところで、力になれる自信はなかった。臆病なのだ。


 だから願う。


 彼女が抱える悩みが少しでも解消されればいいと。


 そして可能であるならば、その悩みを解決するのが自分であればいいと。


「ねぇ、立山くん」


 だから彼女の足が止まって声をかけられたとき、願いが通じたのかと思った。


「な、なんですか?」


 震えそうな声を抑えながら、聞き洩らさないように全神経を耳に集中させた。

 彼女は振り返らず、こんなことを言った。


「異世界って、あると思う?」


 そう聞かれて、純は言葉に詰まる。


「い、異世界ですか?」

「うん、そう。あるのかな」


 異世界――ここではない別の世界のこと。


 この異世界という言葉は、最近ではもっぱらライトノベルの転生もので取り上げられている。美愛もきっとこの異世界のことを指しているのだろう。


 ライトノベルにおいて異世界とは、今までの過去を一切合切切り捨て、新しい自分となって別の世界で生きる場所とされている。


 その異世界では基本、魔法が使えたり、魔物と呼ばれる凶悪な生き物が生息していたり、人間ではない人種が住んでいたり、とにかくファンタジー要素を全面に押し出されていることが多い。


 そんな異世界という場所が本当に実在しているのか、美愛はそれを純に聞いているのだとしたら。


 それは、なんて答えるのが正解なのだろうか。


「もしあるとしたらさ」


 美愛は純の答えを待つことなく、続けた。


「私の第一志望は魔法学校がいいかも」

「魔法学校、ですか」


 魔法学校とは、異世界ものでよく登場する魔法を学ぶための学校だ。この世界でいう高等学校のようなもので、魔法版高等学校ともいえる。


「だって、楽しそうだし。私も魔法、使ってみたいしさ」

「まあ、そうですね」


 異世界ものの魔法学校といったら、それはもう和気あいあいとしていることが多い。そこに憧れる人も、少なくはないだろう。


「それに――自由じゃない?」

「自由……?」

「うん。そこには夢があって、冒険があって、笑いがあって、涙があって、それらすべて自分たちの力で切り拓かれていく。素敵だなぁって。私も行ってみたいなぁって、そう思うんだ」


 まるで夢を見るかのような口調で、美愛はそう口にする。


「だからさ、私いつか行ってみたいんだよね、異世界」


 純はその言葉に、なんて返事をしていいのかわからなくて、黙り込む。


「なんてね。いまのは忘れて」


 それを察したのか、美愛は明るい口調でそう言った後、そのまま歩き去ってしまった。


「…………」


 いまの会話はなんだったのか、純は彼女の胸の内がわからず呆然としていると、


「君、ちょっといいかな」


 突然後ろから声をかけられて、純は肩を震わせて振り向いた。


 そこには、スーツ姿で強面の中年の男性が、純をじろりと凝視していた。


「あ、は、はい」


 物怖じしながらそう答えると、強面の中年男性はこう言った。


「奏多美愛を見かけなかったか?」

「奏多さんですか? それなら、いま面談で教室に向かってると思いますけど」

「そうか。ありがとう」


 強面の中年男性はやれやれといった様子で溜め息を吐くと、純の横を通り過ぎていく。


 そして、丁度先ほどまで彼女がいた地点で、中年男性の男性も足を止めた。そして振り返る。


「すまないが、その教室に案内してもらえないだろうか?」



 純はいま、強面の中年男性と共に階段を黙々と上っている。なんだか気まずくて、階段の段数が先ほどの三倍くらい増えたような気がしている。


「君は、同じクラスの子かね?」


 もう少しで教室が見える三階にたどり着きそうになったとき、だんまりだった強面の中年男性が純にそう声をかけた。


「あ、はい……」

「そうか。すまないね」

「え? なにが、でしょうか?」

「いや、なんでもない」


 強面の中年男性との会話はこれで終わった。


 まもなくして教室にたどり着いた二人。純は安堵で息を吐く。


「ありがとう、助かったよ」

「い、いえ……」


 大の大人に率直に礼を言われて、なんだかむずがゆさを覚えながらも純も頭を下げた。


 そしてそのまま去ろうとしたのだが、強面の中年男性が教室のドアを開けるのが一歩早かった。


 がらがらと、教室のドアが開いていく。


 こんな急に開けて入ると思っていなかった純は、驚きのあまりつい開かれたドアの向こう側に視線を向けてしまう。


「あ、いらっしゃいましたかお父さん」


 初めに見えたのは森山の顔だ。出迎えるように、森山が席を立つ。


 ここでようやく、この強面の中年男性が美愛の父親なのだということを理解する。


 純は次に美愛の姿を見た。彼女は、自分と同じように森山の向かい合わせの席に座っていた。


「――――」


 美愛を見た瞬間、息が出来なくなった。身体が固まり、目が離せなくなる。


 彼女は、泣いていた。


「遅れて申し訳ありません。娘が一人で勝手に行ってしまい、案内が無かったらもっと時間がかかっていたところでした」


「案内……?」


 森山がそこでドア越しに立っている純の存在に気がついた。


「あ、立山くん――!」


 森山が驚いたように名前を呼ぶと、それを聞いていたのか美愛が純のほうを向く。


 彼女の頬は濡れていた。目は赤くて、前髪が頬に張り付いている。


 そんな泣き顔に包まれていた彼女が一転、驚いたように瞠目し、顔を後ろに背けた。


 そこでようやく純の頭が回り始めた。


「す、すいません! 失礼します!」


 純はそこから逃げるようにして走り去る。そのまま、勢いを緩めずに階段を下りて、昇降口まで戻る。


「はぁ……はぁ……」


 下駄箱に左手をつきながら、右手で心臓を抑えて呼吸を整える。


 その間、彼女の泣き顔が頭から離れない。


 一体、彼女の身になにが起きたのか。


 その理由を、純はこの翌日に知ることとなった。

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