第2話 虚無

 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。オカアサンナノ。まるで外国の言葉みたいだった。


「……お母さん?」


 俺の問いかけに、由佳は「うん」と真顔でうなずく。


「ごめんね、今まで黙ってて」


 お母さん。……一体なにを言ってるんだ? 冗談だとしたらまったく笑えないし、突拍子のないことを口走って周囲を困らせるような趣味も、彼女にはないはずだった。


「どういう意味、それ」

「驚くのも無理ないよね。でも本当。わたしが利弥を産んだんだよ。信じられないでしょ? だから、最初はずっと隠し通すつもりだった……でも、利弥と一緒に働いてるうちにね、やっぱり友達のフリじゃ嫌だって思ったの。打ち明けようか、しばらく悩んだんだけど」

「……ち、ちょっと待て、本気で言ってるのか?」

「ウソついてるように見える?」

「いや、だってさ、普通に考えてありえないだろ」


 確かに俺は母親の顔を知らないし、生きているのか死んでいるのかすらわからない。だから、もしかしたらいつか、こういう日が来るかもしれないと思ったことはあった。感動の母子再会。だが、子どもより親のほうが年下だなんて、いくらなんでも起こりえない。

 由佳は笑ったような、困ったような、複雑な顔をした。


「わたし、こう見えても四三歳なんだよ。利弥には一六歳って言ったけど」


 俺は思わず吹き出した。


「ムチャ言うなよ」


 どこをどう見たって女子高生にしか見えない。


「無理ないよね……」


 由佳は一気に力が抜けたかのように、そばのベンチにすとんと腰を落とした。


「一〇年以上眠ってて、起きたら若返ってたなんて、わたしだって夢じゃないかって思うよ」


 うつむく由佳を見下ろす。たまらなくなって、俺も由佳の隣に腰を下ろした。


「わけわかんねえよ……」


 ただひとつ確実なのは、名前。俺と彼女は偶然にも同じ名字だということ。そして、母さんの下の名前も、彼女と同じ「由佳」だということ。これがただの偶然なのか? 心臓の音が耳を打つ。


「うーん、やっぱり、信じてくれないかな?」


 懇願するようなまなざしで問いかけてくる。

 ふと、これは彼女なりの意思表示なのかもしれないと思った。ものすごく遠まわしな拒絶というか、いわゆる「お兄ちゃんみたいな存在だから」という断り文句と一緒で……と、いきなり由佳の手が俺の二の腕を撫でた。


「ああ、そうだ、ここ、傷跡残ってない?」

「……なんで知ってるんだ?」


 俺の左腕には赤ん坊のころについた古傷があったが、仮に半袖を着たところで、よほど注意して見ないとわからない場所だ。


「事故のとき、気がついたら目の前に利弥が倒れてて、ここからいっぱい血が出てたの。すごい声で泣いてたから、意識があるんだなぁって安心したら、すぐにわたしのほうが……」

「いいかげんにしろって」


 俺は由佳の手を振り払った。彼女は肩をひくりとさせて手を引っ込め、悲しそうに瞳を歪めた。

 泣きたいのは俺のほうだ。目の前にいる彼女が少し前とは別人に見えた。なんでそんなこと言うんだ。言えるんだ。

 由佳はすぐに笑顔を取り戻した。


「そうだよね、いきなりでびっくりしたよね。ごめん。でも、わかってほしいな。今すぐじゃなくてもいいから、ね」


 優しく諭すように彼女は言った。俺の返事を待っているようだったが、うんともすんとも返せなかった。


「いこっか」


 由佳は歩き出す。こちらに背中を向けて、駅に向かっていく。俺はかろうじてそのあとについていった。地面を踏んでいる感触がなかった。


「そういえば、利弥もわたしに言いたいことあるんじゃない? なんとなく、そんな感じだったけど」


 のんきな口調で由佳が振り返った。


「なんもねえって」


 俺は由佳の目を見られなかった。

 今さら言ったところで、もう、どうにもならない。「おまえのことが好きだ、付き合ってくれ」だなんて、万が一、彼女の言ったことが真実だとしたら、なおさら言えるわけがなかった。

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