第3話 番所

 冷たい振動が床から這いのぼってくる。吸血鬼かもしれない少女は、骨の内側が冷たくなるような寒さを覚えた。それはレールの上に敷かれた微細なモーターから伝わる抹消し切れない震えだった。

 その不快感は、加速の感覚がありながら微妙過ぎる揺れがもたらす違和感なのか。あるいは白と黒だけの無味乾燥な部屋、無機質に見える鎧姿の同乗者、それらの環境の総合から来る寂寞の感情なのか。目覚めてすぐの彼女には判断が付かない。


 そして誰かに聞こうにも、隣に立つ男に少女の感じ方は理解しえないことは確かだと、霞がかった論理の中でも信じられた。

 鳥の仮面からは、その奥にあるはずの心の機微は一分子たりとも読み取れない。機械でないことは、先ほどまでわずかに荒かった呼吸から分かったが、すでに深く細く変わった吐息は、彫像を巡る風のようである。あの疲労の反応は気のせいだったのではないかと、少女は自身を疑い始めていた。


「あなた、誰なの?」


「アハト」


「それが名前?」


「識別名はヴォルフガングだ」


 聞き覚えのあることしか言わない。それは男にとっては聞くまでもない当たり前の情報なのだろう。にもかかわらず、分かり切ったことを問われる不快感も見せなければ、もう少し説明してやろうと憐みを向ける気もないようだった。


「ここはどこなの?私、記憶がないみたいなの。何も思い出せない」


 思いつめたような口ぶりで、少女は訥々とつとつと語る。それにはかなりの勇気が要るようであったが、ヴォルフガングには意味が分からなかった。


「ここは街、お前はアハトだ。吸血鬼でも市民でもないのだから」


「私はそんな変なのじゃないわよ!第一その、へんてこな鎧もつけてないし」


「ならやはり吸血鬼か?不明な点は多いが、お前は吸血鬼の特徴を多く備えている」


 ヴォルフガングは剣の柄に手をかけた。吸血鬼は敵。敵は滅する。これ以上なく単純で、単純とはすなわち自由であった。

 適当過ぎる考察にあわてて非難声明を出す少女。


「ち、違うわよ!吸血鬼なわけないでしょ!私は人間。あなたもそうじゃないの?」


「俺はアハトだ。お前も、恐らくは。識別名はあるか?」


 ほとんど脈絡がない、切れそうな一線の上で、会話らしきものが成立していた。頭の中身では宇宙人に近い男の話を理解しようと、記憶を探る。


「わ、分かんないわよ。識別名?覚えてるのは……ヘッケラー?ヘッケラー、ヘッケラーだけ」


 名前なのだろうか。ヘッケラーにはそれさえも分からない。そもそも名前には苗字と名があるはずだと、彼女の常識は告げている。

 だがその常識は一体どこからやって来たのか。いくら脳裏をひっかいても、零れるのは砂のような焦燥感だけだった。


「それが識別名だ。お前はヘッケラー。アハトだ。回収されたアハトは回収したアハトの分隊に入る。付いて来い」


「なに、そのルールって誰が決めたの?」


「都市が全てを決める。都市の中枢から命令を下すアルゴリズム、”イデア”が全てを判断する」


 やはり覚えの無い固有名詞だった。イデアというのは旧い哲学の、観念上の実在のことではなかったかと怪しむが、全く別の意味であることは間違いない。

 恐らくAIのようなものが行動の成否を峻別しているのだろうが、その支配者の気配は一向に見えてこなかった。


 ヘッケラーは悩む。完全な孤独の中だったなら、吠えて喚いて、エレベーターの広い床を転げまわり、狂気じみた罵声でも飛ばしたかもしれない。

 しかし冷徹に自分を観察する第三者がいる前で、そんな醜態をさらすのは自尊心が許さない。

 そんな己は自尊心が強いか、厳しく教育されてきたのではないかと推理するが、それより先に踏み込めない。推測に必要な情報があまりに乏しかった。


「これから、どこへ行くの?」


 恐る恐る、初めに聞いておくべきことについて尋ねた。過去が無ければ未来も予想がつかない。次への不安が豪奢なドレスの内の胸を押しつぶす。

 ヴォルフガングはそれを慰めたりはしない。彼は慰めを知らなかった。


「番所へ行く」


「番所?」


「アハトが集まっている場所だ。そこで待ち、吸血鬼が現れれば討伐に向かう」


 減速の気配を内蔵が感じた。速度が大地に立つビル群と同期する。扉が開いた。


「お、着いたのか?そいつが、拾った奴か。なるほど見たことねえな」


 迎えたのは、茶色い髪のがっしりとした体格の男。仮面をかぶっていないことに、ヘッケラーは面食らう。


「鳥のマスクは、かぶっていないのね」


「あん?面頬か?おいおい、あんなのいつもかぶってたら蒸れるだろが。そんな頭のおかしいやつと思われたんなら心外だぜ」


「あ……、ごめんなさい」


 考えてみれば当たり前のことだ。中身が人間なら年がら年中兜をかぶっている訳がない。それが常識。

 ここの常識と自分の常識に共通点がある。それだけでどこか安心する部分があった。少なくとも、全く意味不明の魔都ではない。


「まあいいって。謝る必要なんかないさ。これから長い付き合いになる。最低でも死ぬまではな!ようこそアハトへ!お嬢さん。識別名はあるかな?」


「ヘッケラー」


 答えたのはヴォルフガングだった。台詞を取られてヘッケラーが紅い目を細めて鳥の顔を睨む。もちろん睨まれる側に動揺はみられなかった。


「そうかい!よろしくヘッケラー。俺はセバスチャンだ。まずは他の連中の紹介からだな。案内するぜ。カマン!」


 解体前の建物のような壁と配線がむき出しの廊下を突き進んでいく。ヴォルフガングもまた、ついて行くというよりは勝手に自分の道を歩き出した。

 その薄暗い井戸のような廊下に気後れするヘッケラーだったが、先を進むどちらの男にも、振り返るという発想がないことを理解すると、意を決して、なぜかはっきりと見通せる闇の奥へ歩き出した。


廃墟のような空間は、どこまでも廃墟のようだった。というよりも事実として打ち捨てられているのだろう。ヴォルフガングと出会った地点のような清掃機械は、影さえも見えない。

 経年劣化で砕けた壁を乗り越え、蔦のように垂れさがる無数の電線をかき分け、ランプの灯火さえない暗闇の中を歩いていく。

 普通の視覚だったら転ばないよう這いまわっていたかもしれない。だがヘッケラーの血の色の視線は、分厚い闇を錐のように貫通する。ヴォルフガングには暗視装置があり、セバスチャンは道のりにある障害を知り尽くしていた。


 穴だらけの廊下の壁は薄っすらと輝き、雲上の月に照らされた森の肌のようにも映る。灰の石でできた、暗い森だった。

 その立体感の無い筒の中を切り取る白い線が伸びた。扉から光が漏れている。光だと気付けなかったのは、暖かさの存在しない人工の光源ゆえであったろうか。


 ようやく表れた目的地に、案内人の二人は何の感慨も無いようで、足音は早くも遅くも、大きくも小さくもならない。

 明かりは等速で近づき、セバスチャンがドアを開けたことで周囲に満ちた。


「着いたぜ。ようこそアハト。ここがお前の巣だ」


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