第2話 ヘッケラー

 扉が開く。冷たい夜気が喉を潤した。だが夜ではない。少なくとも夜を証明する事実は、その空間には無かった。

 ただ、あらゆる照明は落とされている。鳥頭の騎士がたたずむ箱から漏れる光が、砂漠に流れ落ちるコップ一杯の水のように、闇を除けながら床に染み込んでいた。

 

 ウォルフガングが一歩、箱の外へ進み出る。かつり、と乾いた靴音が響き、音に反応したカメラ群が彼の兜を、鎧を、鳥の羽じみたマントを、頭の先から靴の底まで舐めまわした。

 部屋に入ったのが市民ならば、街に属する部屋は灯りを灯し、彼をうやうやしく迎え入れただろう。だがシステムは彼を人間と認識しない。ただ動くだけの物体に気遣いが出来るほど、アルゴリズムは柔軟ではなかった。

 

 それは先客にしても同じこと。いや、機械はより極端にを無視していた。

 騎士は物体として扱われたが、闇の中でうごめく者たちは、硝子の眼には映らない。明確に、ウォルフガングの目の前に存在しているにもかかわらず。そこには無人Nullのみが在った。

 

「アハトか」

 

「そのようだな」

 

「嗅ぎつけられたらしい。人狼め。良く鼻が利く」

 

 思い思いに侵入者への感想を述べる鬼たち。狩人に対する怯えや不安は微塵も感じられない。それが驕慢を基にする余裕故か、それとも恐怖と言う感情を欠いた冷血であるためかは判じかねた。

 もっとも、怪物への詮索は無用。ヴォルフガングは吸血鬼と会話をしたことなど一度たりとも無かった。殺し合うより他にない間柄。冗談を言い合うのは無意味である。

 

「来るようだな」

 

「一人でか?」

 

「いや、もっといる。到着した」

 

 部屋を照らす光線が一挙に増えた。放射状に、わずかに交点をずらして走る輝き。


 照らし出されたのは、どこか古めかしい装飾の服で回路の格子模様を覆う、血色の眼をした男たち。鬼、あるいは不死人。または夜を歩く者。

 光条の逆光から歩み寄るのは、羽根型の小札を綴ったマントと、鳥の仮面を纏う騎士たち。アハト。人狼。あるいは鳥の如く自由なる者。


 足音は数十倍に膨れ上がったが、聞こえる数は変わらない。糸で繋がれたように、同一の歩調で近づき、駆けた。大きな一匹の馬にも似て。

 

 剣戟は鉄板を破るようなつんざく合奏を呈し、対して声は歯ぎしりの一つさえない。狂人の催した人形劇のような乱舞であった。

 騎士の一人が胸を貫かれる。ただちに腕を塞がれた吸血鬼を囲み、無数の剣が突き出された。肉の中で刃と刃が噛み合い、腹を突いた切先が肩より抜け、背中に入った突端が腿を貫いて床をこする。血しぶきが光芒をさえぎって虹色に輝いた。


 どちらとも知れない血が、際限なく流れた。だが数に任せて押し寄せる、鎧武者たちの質量の優位は明らか。

 どれほど過ぎたか、決して短くない時。まるで雀蜂を包む蜂球のごとく団子になった鉄塊が、ほぐれて集団に戻る。後には倒れた戦士と、おびただしい血のり。そしてちりとり数杯分の灰が残っていた。


 汚れを化学センサで感じ取ったのだろう。壁に微妙な隙間ができると、かすかにハーブと森の臭いがする霧が流れ出る。極小の有機機械を含んだ粒子は、汚れを微塵に分解して、部屋の外へと洗い流した。


 外からは区別のつけようもない集団だったが、ヴォルフガングは確かにそこにいた。鎧には幾筋もの傷が刻まれていたが、裏まで通っているものは無い。

 他のアハトたちは任務を終えたと見て取るや、すぐさま今来た道を戻り始める。すなわちどこかの廊下、エレベーター、階段へと。死傷者の分、いくつか空いた経路は、消えていく鎧姿をただ見送るばかりである。


 ヴォルフガングはしばらく立ち止まっていた。先ほどの戦闘に加えての大規模闘争である。装備によって強化はされても、疲れが霧消するわけではない。

 アハトは本来限りなく自由であって、手早く帰投するのは、立ち尽くしたところで得るものも無いからだ。よって、疲れた身体をしばし休めるという名分があれば、その場にどれだけ留まっていても自由である。


 同属の騎士が去って行った出口は自動で閉じ、帰す主を失った穴は、呆然とするように、ただあんぐりと空いていた。

 ヴォルフガングが気配を感じたのは、一人になってすぐのことである。軽い、女か子供の足音。そして安定した息遣い。


 誰かが歩いていることは理解できた。人である可能性もある。むしろそちらの確率が高いか。

 それでも愚直に任務を遂行する。彼は人間狼であった。


 女だった。長く、少し癖のある、緩く波打った銀髪。月の海に波があるとするならばこのようにもなるだろうか。まさに凍れる音楽の如し、と表現すべきか。

 それが月に例えられたのは、明るいからではない。その少女が隠しようのない陰を負っていたからである。


 アハトの兜から突き出るスコープは、特殊な透明スクリーンによってカメラの映像と現実の視界を重ねてみることが出来る。

 普段は見ているものと全く同じ映像が映るため、何ら意味はない。だが、吸血鬼。あらゆる光学媒体、その他の記録機器に存在を悟らせない怪異たちは、その例外である。スクリーンからの光を受けないその輪郭は、逆光に浮かぶ影のように暗い。


 新しき月のような赤い瞳と銀の髪。白浜じみて粒子の細かい肌。黒いドレスは揺れるたびに星を瞬かせる。ところどころで成長している沈金の回路は、銀の月を目指す金の樹木のようであった。


 そのどれも、幽玄なる薄影を引き連れ、無味乾燥な白い通路の真ん中で際立っている。


「……鳥?変な恰好」


 声音もまた、薄いグラスの縁をなぞったように、壊れそうな危うさを持っていた。透明を表現するのは光よりむしろ影である。

 だが、どれほど清新であろうとも、ヴォルフガングはそれを褒めたたえたりはしない。ただ、その精巧な鎧を音もなく動かし、都市で最も硬い物質を打ち出した剣を抜き出す。


「何?遊びでそんなものひけらかさないでほしいんだれけど」


 少女は気の強そうな声で詰問する。

 答えない。自身が人間でないことに気付かれていないとでも思っているのか、女吸血鬼には殺気も無ければ、逃げるそぶりさえ見せない。無論、吸血鬼とアハトが出会えばお互い生きるか死ぬ以外ない。相手がいかに危機感に欠けようと、それは突くべき隙になるだけである。

 忌避と軽蔑が入り混じる表情に、ようやく危機感が浮かんできた。近づいてくるのは怪しげな狂人などではなく、明白な殺獣者であることに合点がいったようである。


 女の踵の高い靴が後ろへ引かれ。騎士は羽のマントを、真実翼であるかのようにはためかせ、跳んだ。

 黒い羽ばたきに目を吸い寄せられる。その時には既に、白刃が少女の喉を切り裂こうとしていた。


 三次元の剣は二次元の弧を描き、一次元の刃が白紙のような肌を分かつ。返す刀で、背中のやや左側に先端が分け入った。致命の一撃だ。いかに吸血鬼と言えど、一瞬で頚骨を断たれ、心臓を破壊されれば絶命は免れない。

 背骨を中心に回転するように刃を抜き出し、ヴォルフガングは目を見開いた。


 切れていない。いや、正確には頸の肉は見事に割られている。滝壺のように紅いしぶきを上げる動脈がその証拠。だが骨に瑕疵がない。

 真珠のようにまろび出た脊椎は、すぐに薄桃色の肉に覆われ、同等の潔白さを持つ皮膚に塞がれた。背中も色付き水を穿ったように、元の波打つ姿に戻っている。再生能力もまた、通常とは比ぶべくもなかった。

 

「……変種?」


 黒翼を閉じ、後ろへと滑って距離をとる。吸血鬼の個体差は人間のそれよりも大きいが、これは度が過ぎていた。もしかすると、まるで別ものかもしれない。

 少女の形をした悪魔は、幼子のように辺りを、そして自分を観察する。飛び散った血が間違いなく己に由来していると知り、すでに消えている傷口を何度もなぞった。


「な、なに?どういうこと?」


「吸血鬼じゃないのか?」


「へ!?」

 

 突如襲われた挙句に化け物扱いされて、冷静でいられる者は少ないだろう。少なくとも少女は常識的だった。

 人間ではない。つまり保護すべき存在ではないが、廃滅すべき怪物共とは多くの点で異なっている。結論。ヴォルフガングは無視することにした。


 踵を返して歩き去る。その一歩にいたるまで迷いはない。


「セバスチャン。終わった。帰投する」


『そうかい。のんびり帰って来いよ。どうせこっちじゃやることもない』


「ちょ、ちょっと待ってよ!あなた私を殺そうとしたでしょ!え、なんで私」


 少女は混乱しているようだった。ひらひらしたドレスをつまんだり、頭を押さえたりと忙しい。

 もちろんアハトたるヴォルフガングにとっては気にするべきことではない。だが管制係のセバスチャンにはまた別の役目がある。


『誰だ?新手か?』


「いや、吸血鬼ではない。だが市民とも違う」


『吸血鬼でも市民でも?じゃあアハトか』


「アハト?」


 ヴォルフガングはつかの間考える。納得のいく論理だった。人間離れした肉体に惑わされたが、人でも吸血鬼でもないならば、残るのはアハトしかない。新種の、全く別のなにかと考えるよりはそちらの方が自然だ。


「アハトなのか。お前は」


「な、なに?アハト?ドイツ語で八よね?」


 本人もそうではないだろうと理解している疑問を返す。彼女の直面した事態は処理の限界を超えていたようだった。


「思考に混濁が見られる」


『ああ、時々いるらしいな、そういうの。じゃあ回収しとけ。うろつかれると面倒なことになる』


「了解。来い。案内する」


「え?え?」


 有無は言わせない。金属の手でがっちりと腕をつかむと、エレベーターに引きずり込む。その部屋が何なのかを理解できなかったらしい。ドレス姿の吸血鬼は、抵抗もないままに貨物室へ詰め込まれた。


 常と変わらず、輸送機関は動き出す。鳥籠の街はまだ、異物を認識していない。



 

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