第15話 開戦①
― 開戦 ―
1560年、旧暦5月19日(現代で6月12日)夜明け前。桶狭間は、これから起こる合戦が嘘のように不気味なほど静まり返っていた。薄い雲に月はぼやけ、山々を微かに照らしていた。
すでに朝比奈泰朝は鷲津砦を、松平元康は丸根砦を包囲していた。
元康は、同時に攻撃を開始するため、泰朝がしかけるのを待っていた。辺りは暗く、日の出までには、まだ時間がある。もう少しだけ休めそうだ、と腰を下ろしていた。
ふと、丸根砦を見上げた元康は、少し違和感を覚えた。旗は立っているものの、人の気配がない。
すると突然、鬨の声が聞こえたかと思うと、どこからともなく現れた敵に襲撃を受け、松平勢は戦闘状態に陥った。
「なにごと!」
元康は、咄嗟のことに状況を把握できないながらも、必死に体制を立て直そうとしていた。
敵が丸根砦の兵とわかると、疑問と後悔の念が押し寄せてきた。
「昨日は閉じこもったままだった! なぜ今頃?!」
織田方からすれば、兵糧を運ぶ松平勢は絶好の標的だったはずである。にもかかわらず、砦を出て襲撃してこなかったことで、元康は、敵は籠城するだろうと決めつけていた。
丸根砦の佐久間大学は、その油断を見逃さなかった。密かに砦を出て奇襲を仕掛けたのである。
昨日、大学は、元康の兵糧入れをじっと見据えていた。しかし、出撃せず見送ったのは、信長から1日でも長く砦を死守してくれと頼まれていたからである。自分の手勢は、僅か4百だった。出撃して、万一のことがあれば、信長との約束をたがえることになる。大学は苦虫を潰すような顔で、兵糧を運ぶ松平勢を見逃した。
だが、今日は違う。砦への攻撃を目前に、我慢をする必要はなかった。相手が兵糧入れで疲労困憊の上、油断しているのを見るや、果敢に出撃し、少しでも敵に痛手を与えようとしたのである。
不意を突かれた松平勢は、混乱に陥り重臣を次々に失っていった。元康自身も刀をもって切り合った。
しかし、時が経つにつれ、松平勢が体制を立て直しつつあった。倍以上の戦力差は如何ともしがたく、佐久間隊はしだいに追い詰められていった。そして、残りの兵も僅かになったところで、大学の体に数本の槍が突き刺さった。
『ここまでか…だが一矢報いた』
大学は、想像以上の戦果に満足であった。ただ、信長と交わしたもう1つの約束を果たせなかったことが心残りだった。
信長は、佐久間大学と織田玄蕃に、それぞれ丸根砦と鷲津砦の守備を命じたとき、2つの約束をしていた。
『すまぬが、援軍は出せぬ。だが、1日でも長く砦を守ってくれ。そして、必ず生きて帰れ』
真っ先に攻撃を受けるであろう両砦の守備はこの戦において、もっとも危険で、もっとも重要な任務だった。早々に陥落したり、寝返られたりすると、信長の作戦が根底から破綻してしまう。絶対に裏切ることのない、信頼のおける家臣にしか任せることができなかった。
大学は、もともと信長の弟、信行付きの家老であったが、信行反逆の際も、一貫して信長に味方した。また、玄蕃も古くから織田家に仕え、家臣団の長老的な存在だった。若くして織田家を継いだ信長の後見人として、信長を献身的に支えてきた。
信長としては断腸の思いで、数少ない忠臣を死地へ送り出したのである。
桶狭間の空は白み始めて来たが、大学の視界はしだいに暗くなっていった。遠くの方で勝鬨も聞こえる。
薄れる意識の中で、大学は最後に信長へ詫びた。
『信長様…生きて帰る約束は成りませんでした…』
ほどなくして、籠城戦を選択していた鷲津砦も、必死の抵抗むなしく陥落した。
佐久間大学、織田玄蕃は揃って討死、砦を守る兵は全滅となった。
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