第10話 真意①

 ― 真意 ―


 今川義元は、1536年、2人の兄の相次ぐ死により、家督を継いだ。その後も、異母兄弟が反乱を起こしており、順風満帆な船出とは行かなかった。そのせいで、元来の疑り深い性格にも拍車がかかったと言える。しかし、当主となると、その手腕を発揮し、織田信秀を退け三河の松平家を傘下にした。東隣の武田家、北条家と三国同盟を結ぶと、西の尾張へも着実に侵入しつつあった。


 今川家からすると、尾張は元々、自分達の領土だとの認識があり、尾張奪還は義元の悲願でもあった。

 そのため、織田家の動向は、つぶさに偵察していた。信秀の後を信長が継いだと聞いた時から、信長とは如何なる人物か探っていた。


 はじめは、大うつけとの噂だった。それが、徐々に改められていく。


 きっかけは三河の松平元康(後の徳川家康)だった。元康は、幼少のころ、人質として尾張に捕らえられていた。そのころ、短期間ではあるが、信長とともに過ごしたことがあった。

 義元は、元康に信長の人となりを聞いた。元康は、幼少のころの話で、参考にならないと断りを入れた上で、話した。


「常人には理解出来かねない人物です。やることなすこと破天荒のように見えて、今から思えば、どれも理にかなっていたように思います」


 その言葉に、義元は背筋に少し寒気を覚えた。義元は、元康の才能も、かなりのものと買っていた。しかし、その元康をもってして、そう言わせたのである。しかも幼少のころ、少し接点があっただけで。


 さらには、信長がマムシと恐れられた美濃の斎藤道三と会見したとき、道三を感嘆させ、偉く気に入られたと言う。また、会見後、信長を軽く見た家臣に対し、道三は


「美濃は信長の手に渡るだろう」


とまで予言した。


 極め付きは、武田信玄が会ってもいない信長を認めたと言う話が入ってきた。義元は同盟の証として、自分の娘を、信玄の息子、義信に嫁がせていた。その娘から武田家の内情を手紙にて送らせていた。もちろん、確信をつくような情報は得られなかったが、時に役立つ情報もあった。その手紙によると、こう書いてあった。


 尾張の高僧が、甲斐を訪れた時、神仏好きの信玄が、話をしたがって呼んだ。信玄は、高僧が清州近くの出身と知ると、信長がどのような人物か、余すところなく話すよう求めた。信長は、槍や弓、とくに鉄砲の鍛錬を毎日行っていること、敦盛を好むことなどを伝えた。中でも信玄を感心させたのは、鷹狩の話だった。

 高僧は、信長が鷹狩をするときのやり方を伝えたところ、信玄は唸りながら、こう話したと言う。


「まこと理にかなっておる。信長とは戦上手なのであろう」


 あの甲斐の虎と言われた信玄まで認めたとあっては、信長の力について疑う余地はなかった。


 その間も、着実に信長は尾張を手中に収めていく。


 そして義元は、自らの目で信長を見ることでしか、その器を正確に測れないと考えるようになった。

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