第9話 前哨戦③

 本格的な冬が訪れようとするころ、各砦の完成が近づいてきた。


 信長と広正は、善照寺砦で仕上げの作業を進めていた。休憩の間に、広正は、先日噂に聞いたことを質問した。


「駿河で山口親子が処刑されたと聞きました。信長様のご計略によるものでしょうか?」


 鳴海城主、山口教継とその息子教吉は、今川義元に呼び出され、信長に通じているとの疑いで切腹を命じられた。信長は、裏切り者に対し、自分の手を煩わせることなく制裁を与えたことになる。


「すこし噂を流した程度だ。義元にしても、いつ裏切るか分からん厄介者を処分する良い口実になっただろう」


「しかし、義元は、こちらの内情や土地勘を持つものを、始末してしまったことになりますが…」


「必要な情報は、とうに得ているはずだ。大した話ではない。いずれにせよ、戦はすでに始まっているということだ」


 信長は、さも当たり前のことのように淡々と答えると、広正へ逆に質問した。


「お前のところにも、今川の使いが来たろう?」


「は…お見通しで…」


 広正は、気まずそうに答えた。恐らく、今川と接触し、何かしら取引をしている家臣も多くいるのだろうが、信長は気にも留めない様子だった。


「それくらいは普通のことだ。それよりも、あそこに登らんか」


 信長は話を変え、できたばかりの物見櫓を指さした。



 善照寺砦は、鳴海城の付城である。本来なら城を監視するのが役目だが、物見櫓は、城とは反対の桶狭間山の方を向いて建てられていた。


 2人が櫓の最上部へ登ると、桶狭間山を中心に、辺り一帯を一望できる風景が目に飛び込んで来た。明らかに、鳴海城ではなく、戦場全体を把握するために建てられたものだった。


 信長は、遠くを見るような目つきで、正面を見つめながら言った。


「義元は、沓掛城に入った後、あの桶狭間山に陣取るだろう」


 広正は、以前から気になっていた重要な疑問を聞かずにはいられなかった。


「慎重なあの義元が、沓掛から出てくるでしょうか」


「出てこなければ、それに応じた作戦を取るまで…」


 そう言いかけた信長は、語気を強めて言い直した。


「いや、必ず出てくる! 儂にはわかる。儂と奴は、似た者同士なのだ」


 しかし、広正はまだ納得できていないようだった。それを感じ取った信長は、ゆっくりと説明し始めた。


「義元はな、頂点に立つものとして必要なものを、すべて持っている。周りの大名は目先の領土を広げることしか考えておらんが、義元は天下を見据えておる。恐らく、儂の生涯において、最初にして最大の敵となるだろう」


 義元の話をする信長を見て、広正は信じられない気持ちになった。


『あの信長様が、明らかに畏怖の念を抱いている…今川義元とは、それ程の男なのか…』


 驚きの表情を隠しきれない広正に、信長は軽く笑って質問した。


「広正、今川仮名目録追加を読んだことがあるか?」


 今川仮名目録とは、義元の父、今川氏親が制定した独自の国法である。義元はさらに、21箇条を追加した。

 その内容は国内を掌握するための、細かな法が定められていた。中には現代の制度に通じる程のものもあった。しかも、室町幕府の権力を完全に排除する内容も含められていた。

 義元は、他の大名に先駆け、幕府からの独立を公に宣言した、はじめての大名なのである。その意味では、日本で最初の戦国大名とも言われている。

 幕府にすれば、完全な反逆行為であるが、それが許されるほど、義元の国力は強大だったのである。


 当然、広正も敵を知るため、また後学のため、熟読していた。


「はい。以前、読みました」


「どう思う?」


「大胆不敵なれど、実に理にかなっていると感じました」


 そう言いながら、広正は、はっとした。確かに信長と似ているのかも知れない。


「そうだ! だからこそ、城なんぞに閉じこもってはおらんのだ」


 信長が、そこまで確信している。それだけで広正は疑う必要など無かった。ただ義元が、わざわざ城を出て戦う目的については見当がつかなかった。

 しかし信長だけは、義元と似ているからこそ、義元の真の狙いに気付いていたのだった。

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