ミノタウロス
“地球上で最大の権力を持つ組織はメディアだ。連中は無実の者に罪を着せ、罪深き者を無実にする力を持つ。これこそが権力だ。連中は大衆の心を操っている。”
――マルコムX
「あの時代を一言で表すなら、飢えていた」
「飢えていた、とは?」
薄汚れた窓の向こうに銀行が見える、人の疎らなカフェで、私はその初老の男性と向かい合った。電話で話したときよりも、彼は随分と礼儀正しく見えた。無精髭を生やした枯れ木のような肌の老年の男を想像していたからだ。しかし、予想を裏切って、私の目の前に現れたのは小綺麗な身なりの男だった。
彼は、灰皿に短くなった煙草を押し付ける。そして、ゆっくりと紫煙を吐いた。
「まだCNNもインターネットもなかった時代だ。みんな暇してた。何か刺激的なことはないかって」
「刺激……、ですか」
「そんなつまらない時代の只中にあの事件は起きたんだ。事件の話をする前に覚えておいてくれ。そういう時代だったってことを。そうでなければ、真実は捻じ曲がってしまう」
そう前置いて、彼は語り始めた――
地下鉄のホームへと繋がる階段を駆け下りた瞬間、彼は舌打ちした。
「クソッ!」
彼の乗るべきだった車輛が、目の前で鉄輪を軋ませながら遠ざかってゆく。息を切らせ、大急ぎで走って来たにも関わらず、彼の努力は汗となって頬から流れ落ちた。三番線はこちら、という案内の書かれた柱に寄りかかり、シャツのボタンをひとつ外して、彼は次の電車を待つ。
紙タバコをスーツのポケットから探り出して、オイルライターを擦った。
――またぼやかれる。
不機嫌そうな上司の顔を想像した彼は憂鬱に紫煙を吐き出す。刑事事件を任される記者として、彼は窮地に立たされていた。
第二次世界大戦が集結し、日本軍の攻撃に怯えていたロサンゼルス市民の暮らしには平穏と安定が戻って来た。戦争によって引き裂かれた憐れな恋人たちも再会を果たした。久しぶりに会った恋人たちのすることはひとつだ。空前のベビーブームが到来し、アメリカの景気は上向いたが、同時に社会は刺激を失った。一九三〇年代まで華々しく、そして、暴力的だったマフィアやギャングと警察の抗争劇も随分と大人しくなり、ロサンゼルスはハリウッドの銀幕を求めて若者たちが集まって来る夢と幻想の街と化す。シカゴ・ピアノの一斉掃射も、銀行に車で乗り付けての強盗も、密造酒の摘発も、すっかり過去のものになって仕舞った退屈な時代。
そんなご時世だと言うのに、上司は売れるネタを拾って来いと喚き散らし、灰皿を放り投げる。
最近は、シカゴで世間を賑わせているリップスティック・キラーの記事で新聞各紙は大盛り上がり。その事件にアメリカ中が激震していた。いつの時代も多くの人々の興味を集めるのは、有名人や政治家のゴシップではなく、狂気と暴力で染められた陰惨な事件だ。
第二次世界大戦後の一九四七年のアメリカ。ケネディ暗殺も、ベトナム戦争も、テート・ラビアンカ事件も、シリアル・キラーという言葉さえも無い頃。警官の目を恐れてグリースをキメて、ビールを流し込むのがワルの象徴だった――やさしい――時代。彼の取材する事件はどれもリップスティック・キラーに比べれば取るに足らないものばかりだった。
その殺人事件はシカゴで起きた。
一九四五年六月五日、四十三歳の未亡人ジョセフィン・ロスが自宅で殺害される。彼女の遺体は頭部を殴打され、首を鋭利な刃物で何度も刺されていた。殺害された現場であった寝室は血の海だったが、不自然なことに彼女の遺体は“奇麗”だった。どうやら犯人は彼女を殺害したあと、遺体を浴室で洗浄した様だ。そして、傷口をダクトテープで丁寧に塞ぎ、首に赤いスカートとベージュのストッキングを巻きつけて、全裸のまま寝室に放置した。
同年十二月十日、海軍の元婦人部隊員フランシス・ブラウンが自宅のアパートで殺害された。浴室で発見された遺体は、浴槽にもたれ掛かるような格好で、右手首は浴槽に浸かっていた。彼女の首には左耳の下に深い刺し傷があり、その傷を覆い隠すようにパジャマの上着が巻きつけられていた。頭と腕には銃で撃たれた痕があった。
この一連の殺人事件は、各メディアでセンセーショナルに扱われ、一九四六年の一月にみじん切りにされた六歳の少女スザンヌ・テグナンの遺体がシカゴ中の下水道から見つかると、シカゴの街角から子供たちの遊ぶ姿が消えた。その後、三件の殺人事件の容疑者として十七歳の青年ウィリアム・ハイレンズが逮捕され、彼が犯行を自供したことにより、このショッキングな連続殺人事件は幕を閉じる。極刑判決が確実だった裁判を避け、三件の殺人を認めることを条件に、司法取引の末に彼は病院送りとなった。
“畜生! 次の殺しをやる前に俺を捕まえてくれ! もう自分じゃ止められないんだ!”とハイレンズが二件目のフランシス・ブラウンの殺害現場の壁にルージュで伝言を残した様に、自分も現場に何か残そうか。何度、彼がそう思ったことか。
再び、彼は溜め息をついた。
「シカゴで起きたリップスティック・キラーのことは私も調べました。確かに当時としては強烈な事件だったと思います」
「リップスティック・キラー。ウィリアム・ハイレンズ」
彼は窓の外に目を向けて呟いた。そして、次に彼が発した言葉は、特に印象深かった。
「羨ましかった」
「羨ましい?」
「記者っていうのはそういう生き物だ。文章の中じゃ良識のある人間を演じているが、実際はスクープが欲しくて堪らない。それこそ、自分で創り出したいと考えるくらいに」
彼は続ける。
「犯行現場にメッセージを残すタイプの殺人犯と、その殺人事件を取材する新聞記者は極めて近い生き物だ」
年が開けた一九四七年一月十五日。
ハリウッドの平和な日々にもピリオドが打たれた。午前十時、彼が日課の警察無線の傍受を行っていた時、その情報は舞い込む。無線で伝えられる内容を聞いた瞬間、事件の匂いがした。彼は急いで現場のノートン通りと向かう。
――女性が倒れている。
この通報を受けた警察は、当初、呑み過ぎて酩酊した迷惑な奴が道端で寝込んでいるのだろうと判断し、付近を巡回していた警官を現場へと向かわせる。しかし、この判断は間違っていた。漸く警官が到着した頃には、詰めかけた野次馬や新聞記者に現場を踏み荒らされ、犯人の足跡や、車のタイヤ痕が消えて仕舞っていたのだ。
「最初はマネキンが転がっているんだろうと思った」
ノートン通りを散歩していた第一発見者の女性は後のインタビューでそう語る。
一番乗りで現場に到着した彼の前に広がっていたのは、壮絶で異常な芸術作品だった。
青い芝生の上、その赤い髪の白人女性の死体は切断され、上半身と下半身が真っ二つに別れていた。死体の両腕は肘を直角に曲げられて手を頭の上にあげている状態で、少し離れた場所に脚を広げられた下半身が置かれている。
切断面からは収まる場所を失った赤黒い臓物が這い出しており、右の耳から左の耳まで口を切り裂かれ、美しかったであろう彼女の顔は、不気味な微笑みを浮かべている様に見えた。死体は完全に血抜きれた上、丁寧に洗浄されていた。彼女の純白の肌は、さながらマイセンの陶器の様で、その白さが乳房や太腿、腹部などに刻まれた緋色の裂傷を、より一層、美しく魅せている。
感動のあまり、彼は夢中でシャッターを切った。
彼は写真を撮り終えると、喜び勇んで急いで会社へと向かう。
それは、大スクープだった。その日の午後、遺体は検死に回され、新聞はこの事件の第一報を掲載する。被害者はハイティーンの少女、とされた。
これが後世まで語り継がれる“ブラック・ダリア事件”の発端だ。
「お手柄だ! よくやった!」
上司もコーヒーを片手に歓喜した。
「明日の見出しもこれでいこう」
翌日、FBIで被害者の指紋が照合され、遺体の身元が判明する。
被害者の名前はエリザベス・シヨート。遺体の髪は赤く染められていたが、本来ならば艶やかな黒髪に青い瞳、そして、大理石の様に白い肌が魅力的な二十二歳の白人女性だった。彼女が黒い服を好んで身に纏っていたことから、一九四六年公開のアラン・ラッドとヴェロニカ・レイクの主演映画『ブルー・ダリア』に因み、エリザベスは“ブラック・ダリア”と呼ばれていた。
第二次世界大戦終結後の一九四〇年代の映画の都ハリウッドには、明日の大スターを夢見る若者たちが次々とやって来ていた。しかし、チャンスを勝ち取って成功し、夢を掴めるのはその中の一握り。大抵の者は夢叶わず、次第に身持ちを崩して落ちぶれてゆく。才能は持っていても、金もコネも持っていない彼らは、日銭を稼ぐためなら何でもした。華々しいアメリカン・ドリームの裏側にあったのは“ハリウッド・バビロン”とも呼ばれる悪徳の街。女優志望の上玉なら腐るほど居た。映画の出演や、金をちらつかせて肉体関係を迫る。それで彼女たちが得るのは、はした金とセリフのないエキストラ役。
彼女もその典型的な被害者だった。
「被害者は女優の卵だとさ。これはおもしろくなるぞ。何でもいいからネタを集めろ!」
編集長が叫び、オフィスから記者がロスの街へと飛び出してゆく。
検死の結果、エリザベスの肛門と膣の中には人間の皮膚が押し込まれていた。パズルのピースを並べる様に、切り刻まれたその肉片を組み合わせると、それは大腿から切り取られていた部分であることが判明する。遺体の首に細い紐で絞められたような痕があることから、直接の死因は絞殺であるかに思われたが、気道は塞がれていなかった。胴体を切断されたことが直接の死因と推測された。そう、彼女は生きたまま、上半身と下半身を第二腰椎と第三腰椎の間で真っ二つにされたのだ。
更に、彼女の膣は発育不全だったということも判明した。性交はできない。そのせいで、彼女はお高く止まった女と思われており、それ故に、恨みを持つ男も多かっただろう。彼女と肉体関係を持ったという男性は最後まで現れなかった。
しかし、記者たちは躍起になってエリザベスと接点があった者を、特に彼女と交際していた者を探していた。忙しく動き回るオフィスに怒鳴り声が響く。
「ネタはないのか? エリザベス・ショートの記事を一面に載せるんだぞ!」
灰皿に紙タバコを押し付けながら、彼の上司は叫んだ。ブラック・ダリアを一面にすれば、新聞は売れた。この頃には他の新聞社もブラック・ダリア事件を一面に載せるべく情報を掻き集めていた。この部数競争に勝つには衝撃的な見出しが必要だ。いち早く、彼はエリザベスの実家の電話番号を調べ上げる。彼女の母親はマサチューセッツの小さな街に住んでいた。
受話器を持った彼の後ろで上司が睨みをきかせる。
「娘が殺されたことは伝えるな」
「何故です?」
「いきなりお宅のお嬢さんが真っ二つにされて殺されました。ご感想をお聞かせ願えないでしょうか? なんて聞いて、素直に答える奴がいると思うか?」
「じゃあ、何と言えば……」
「お宅のお嬢様が美人コンテストで優勝しました。お嬢様のことをお聞かせ願えないでしょうか。これでいい」
「……はい」
彼の中で罪悪感が芽生える。しかし、仕方のないことだった。
当時、ラスベガスの生みの親でギャングのバグジー・シーゲルと共に容疑者リストにも挙がっていた映画監督オーソン・ウェルズ。映画史上、最も偉大な映画の一本とされる“市民ケーン”は彼の作品である。実在の新聞王をモデルに、その人生をスキャンダラスに描いたこの映画は、一九四一年に公開されると全米で議論を巻き起こし、アカデミー賞では九部門にノミネートされ、脚本賞を受賞した。“見出しを大きくすれば、事件も大きくなる”の台詞どおり、この映画のモデルになった新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、虚構と脚色に彩られたイエロー・ジャーナリズムの先駆者である。
彼の務める新聞社もハーストの所有だった。
そこでは良心など何の役にも立たない。記事がおもしろくて、新聞が売れればそれでいいのだ。
呼び出し音の後、受話器の向こうで、初老の女性の声が聞こえた。
彼が口を開く。
「おめでとうございます、奥様。この度、エリザベスさんが、あるコンテストでグランプリに輝きました。私は新聞社の者で、お嬢様のことについて伺いたいのですが」
「本当に!? エリザベスが?」
愛する娘の大出世に、彼女の母親はすっかり有頂天になっていた。「エリザベスは女優を目指してハリウッドに行きました」
母親はエリザベスがスクリーン・テストを受けていたこと、まだ映画の出演は果たせていないことは知っていたが、彼女のロサンゼルスでの交友関係や私生活には詳しくなかった。母親からはこれ以上の有益な情報を聞き出せないと悟ると、彼は受話器を置いた。
彼は罪悪感に苛まれた。しかし、これが彼らの正義だった。
事実かどうかも深く追求せず、噂や憶測、勝手な推理を元にした信憑性に欠けるスクープをでっち上げるようなジャーナリズムが歓迎されるはずはない。しかし、実際には記事をおもしろく書けば書くほど売上部数は伸びたのだ。真実の探求は、虚構の創造にあっさりと敗北した。更に、この残忍な猟奇殺人事件に新聞各社の報道は燃え上がる。
こうして、皮肉にもエリザベス・ショートことブラック・ダリアは、世界で最も有名な死体となって仕舞った。
一月十八日。エリザベス・ショートのトランクが発見される。
見つけたのは彼の同僚の記者だった。そのトランクは独占記事と引き換えに警察にへと引き渡された。トランクの中には交際相手との写真や手紙などが多数見つかり、その中の一人が警察に拘束され、取り調べられたが無実だと判明した。
この時、事件の直前のエリザベスの行動が鮮明になった。一月九日、ロサンゼルスのビルトモア・ホテルでロバート・マンリーというセールスマンと別れてから、彼女の足取りは判っていない。ホテルのドアマンが、エリザベスがホテルから出たところを目撃したのが生前の最後の姿だった。その一週間後には、彼女は真っ二つで芝生の上に横たわっていたのだ。
犯行があったとされる時間にアリバイのあったロバート・マンリーの容疑は晴れた。しかし、疑惑は残った。
独占記事を得るために新聞社が、トランクを警察よりも先に開けていたのではないか、というものだ。
彼にその真偽を問い掛ける。
「分からない。僕は取材に出ていて、その場所には居なかったんだ」
「では、あなたの上司がブラック・ダリアのトランクを警察に渡す前に中身を確認し、不都合になるようなものを抜き取った可能性はあると思いますか?」
「あるだろうね。でも、真相は知らない」
紫煙を吐きながら、彼は続けた。
「俺が居たのはハーストの新聞社だ。イエロー・ジャーナリズムの急先鋒。何を隠して、何を見せびらかすか。それだけさ」
呆れたように彼は笑った。
一月二十三日。オフィスの電話が鳴った。
ひとりの記者が受話器を取る。
「――もしもし?」
「ブラック・ダリアの遺品を送ってやる」
「それはどういう……」
彼が聞き返した時には、既に電話は切られていた。
衝撃的な内容だった。この犯人と思われる人物からのメッセージは警察に通報され、その後、ビルトモア・ホテル近くのポストから不審な小包が発見される。そこには新聞の記事から切り抜いた文字を組み合わせて“ダリアの所持品”と書かれていた。中には何ページか破り取られたアドレス帳、彼女の出生証明書、名刺、社会保険証、それぞれ違う男性と撮った写真が数枚入っていた。どれも犯人を特定する手掛かりにはならないものばかりだった。更に、それらの品々はガソリンに浸されていた。指紋を消すためだ。
翌日、市内のゴミ集積所からエリザベス・ショートの靴が発見された。
しかし、この日から犯人の姿も、ブラック・ダリアの痕跡も、忽然と消える。
ブラック・ダリアの関係者、或いは、殺害犯を名乗って、新聞社に葉書を送ったり、警察に自主したりする者は大勢いた。その数は五百人以上。しかし、どれも偽物で、警察は有力な手掛かりは何ひとつ得られなかった。
「その内、他の新聞社もブラック・ダリアを扱わなくなった」
「でも、あなたの新聞社は一面に載せ続けましたよね? 少なくとも一カ月間は」
「ブラック・ダリアの記事は売れたからね」
彼はタバコを灰皿に押し付け、脚を組み直してこう続けた。
「でも、あの記事を書いた日からおかしくなった」
エリザベス・ショートが殺害される約二年前。
ジョーゼット・バウアドーフという女性の遺体が、彼女の自室で死体となって発見されている。彼女は口にタオルを押し込められた状態で浴槽に浮かんでいた。
ジョーゼットはエリザベスの友人である。
彼女は名門出身のお嬢様だったのだが、どういう訳か家を飛び出し、ホステスをしながらハリウッドで男漁りに耽っていた。エリザベス同様、彼女の交友関係も広く、捜査は難航し、事件は未解決のまま残された。
彼がその事件についての話を聞いたのは、ダウンタウン五番街のバー“キング・エドワード・サロン”の薄暗いカウンターだった。
ワイルド・ターキーのグラスを傾けて、その刑事は語り始めた。彼とは友人だ。
「俺はブラック・ダリア事件とジョーゼット・バウアドーフ殺しに何か共通点があるんじゃないかって思うんだ」
「あれは二年も前の事件だろ?」
「シカゴのリップスティック・キラーを覚えてるか?」
「ああ。それも今回の事件と関係が? まさか。犯人は逮捕されて塀の中だぜ」
「あれの犯人はハイレンズじゃないかもしれない」
その刑事はシャツの胸ポケットから紙タバコを取り出しながら「ベスの死体は洗われていた。リップスティック・キラーの事件でも死体はキレイに洗ってあった。三件目はバラバラに切断されてた」
シカゴで殺されたジョセフィン・ロスとフランシス・ブラウン、二年前に浴槽に浮いていたジョーゼット・バウアドーフ、この三人の遺体の状況はよく似ている。ジョセフィン・ロスの遺体に関しては身体中の傷口を粘着テープで貼ってあった。生前と死後に性行為が行われた様子はなかった。そして、スザンヌ・テグナン、エリザベス・ショートの遺体はどちらも切断されていた。それも、胴体は第二腰椎と第三腰椎の間で、骨を傷つけずに……。
「でも、ハイレンズは自供したんだろ?」
「そう。だが、一ヶ月の間、ずっと拘留されて、毎日取り調べられてみろ。嘘でも喋る」
「じゃあ、シカゴで起きた三件と、ブラック・ダリア事件とジョーゼット・バウアドーフ殺しは全部同じ人間の仕業ってことか?」
「可能性はある。だが、ジョセフィン・ロスとフランシス・ブラウンの殺人は違う犯人かもしれない。すべての事件は、証拠があるようで無いんだ」
「それ、載せてもいいか?」
「好きにしろ。でも、俺の名前は出すなよ」
「解ってるさ、親友」
「こういう時だけ都合がいいな」
「それが新聞屋って奴らさ」
ウインクひとつ。彼は財布から二十ドル札を取り出した。
彼はその線で記事を書き始める。ブラック・ダリアの記事がマンネリ気味で消化不良を起こしかけているこの頃には、最高の劇薬だった。
しかし、彼の上司は出来上がった原稿をゴミ箱に投げ捨てる。
「ジョーゼット・バウアドーフの記事は載せられない」
「何故ですか!? 最高のネタですよ!」
「お前は俺をクビにしたいのか!」
「……どういうことですか?」
ジョーゼットの父親であるジョージ・バウアドーフと、彼の新聞社のオーナーであるハーストは友人だった。ハーストの立場としては、友人の娘の醜聞が暴かれることを許容できなかったのだ。
この後、ブラック・ダリア事件の報道は一面から外れ、事件自体も沈静化してゆく。そして、その後は何の進展もなく、ブラック・ダリア事件は迷宮の中へ姿を隠して仕舞った。
事件から四十年が経過した現在となっては、ブラック・ダリア事件の真相を究明することは、恐らく不可能であろう。当時、全米を震撼させ、様々な話題を呼び、今も尚、犯罪史に深い影と、それに準ずる魅力を放ち続ける猟奇殺人事件の実像が永遠に見ることができない。
恐らく犯人にとってあの事件は、自身の集大成だったのではないだろうか。
当時、脚光を浴びていたシュルレアリスム溢れる前衛芸術家のマン・レイの作品に“ミノタウロス”というものがある。腕を雄牛の角に見立てて上にあげた女性の上半身の写真だ。彼がそこにインスピレーションを受けたとしたら。そう、彼はメスを使い、ブラック・ダリアの美しい身体をカンバスにして、彼の生涯で最高の傑作を生み出したのだ。
そして、新聞という媒体が彼の作品を発表する舞台だった。何故なら、そこはどんな美術館よりも人の目に留まる場所であったのだから。
「つまり、ブラック・ダリア事件は新聞によって作り出されたと?」
「あの時代の新聞に真偽なんて関係なかった。まあ、今でもそうだが、人間はセンセーションを求めている。だから報道も扇動的になる」
財布から二十ドル札を出して、彼はテーブルに置いた。
「私が払いますよ」
「いいんだ。せめてもの罪滅ぼしさ」
彼は立ち上がった。
「私は、これまで多くの人を欺いてきた」
そう言い残して、彼は店のドアを押した。
人は自ずと人間の価値が平等でないことを知る。しかし、私はその輪っかから外れたくて、観測者であろうとしている。ジャーナリストとやらも、そういう生き物なのだろう。
稀代の小説家マーク・トゥエインはこう述べている。
“新聞の中で、唯一信頼できる事実が書かれているのは、広告である。”
Minotaurus
――欲望と絶望の螺旋迷宮
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