サキュバス
――我々は空を早翔ける鉄の鳥を生み出し、星々の領域まで到達する槍を作り上げ、鋼鉄の月を其処に浮かべた。
古来より神々の領域とされていたその空間に人類が到達した時こそが、我々の文明の最高到達地点だったと言える。幾重にもメッキ塗装された物質社会を謳歌していた我々の前に、前触れもなく、突如として、神々は再臨した。それらを概念に過ぎないと認識していた者たちも、直向きにその存在を信じていた者たちも、等しく、そして惨たらしく死んでいった。流石に、死だけが我々に与えられた唯一の平等だということに絶望する者はいなかったが……。
そして、戦いは始まった。人と神とが刃を交えた闘い、女神戦争。
辛うじて人間は勝利を収めたが、それは絶滅には至らなかったという程度のものであった。文明は崩壊し、かつての英知は消え去った。無数の廃墟が連なる荒廃した世界の中心には、英雄となった新たな女神の巨大な石像が聳えるのみ。しかし、祈る者はいない。人々は各地へと散り、それぞれの都市国家を築いた。その小さな城塞の中で、我々は長い冬の時代を過ごしている。
前時代の亡霊を抱きながら――
夕陽の美しさに導かれて、少し遠くまで来てしまった。雨上がりの静けさと哀愁を誘う風は、嫌いな街並みでさえ心地よく見せてくれる。オレンジ色の空に浮かぶ赤錆びた観覧車は骸骨じみていた。その足元でメリーゴーランドが軋みながら微かに廻っている。錆びついて仕舞った機械仕掛けの楽園の中を甲高い悲鳴を上げながら風が吹き抜けてゆく。雨を啜ったアスファルトには葉脈の様に亀裂が走っている。水溜りは赤い。この世界では、見慣れた光景だった。前文明の墓場とも言えるこのような場所は、この世界の至るところを覆っている。いつ晴れるとも知れぬ暗雲と共に。
かつての色彩を失い、赤錆びて朽ちゆくこの場所は、僕の目にはこの世界そのものに思えた。
彼の隣で翡翠色の眼球を転がして辺りを見回す少女の唇は、この見慣れた光景の中で幽かに震えている。しかし、その瞳は好奇心に満ちていた。怕いもの見たさ、そんな顔をしている。
「こ、小五郎? この場所怖いです……」
「何も出やしないよ。ここはもう死んでるんだ。誰も寄り付きはしない」
「でも……、何か居そうで……」
「何もいないさ。君の大っ嫌いな神様って存在さえ、この場所を見捨てた。いや、この世界をね」
黒い髪の男は微笑する。
「悪魔にとっては楽園だろう?」
「おばけ屋敷は苦手です……」
「なるほど。これで僕の悪魔という存在への見識が深まった」
「正確にはサキュバスですよ」
「そうだっけか。最近、記憶の混濁が激しいんだ」
儚く、彼は苦笑する。「時々、僕は僕の知らない間に、君を理解している気がする。不思議な感覚だ。それがどういうことなのか。自分でも認識できないくらいに」
その夢魔は、オレンジ色の空を見上げて言う。その瞳に、聖母のような温もりを燈して。
「天使や神、そして悪魔は、人間の欲望によって容姿が変わるそうです。或いは、人も、なりたい自分の姿と、あるべき自分の姿の間で魂が揺れるのかもしれません」
「僕には見えない、自分自身のあるべき姿、か」
それは……、と言いかけて、「いや、君に訊いても仕方がないか」
彼は溜息をついた。
「僕は、どちらも手に入れられないかもしれないな」
「ぼくらは万有のうちへと旅する夢を見る。しかし、万有とはぼくらの内にこそあるものではないだろうか」
「それは?」
「十八世紀のドイツ人の詩人ノヴァーリスが『花粉』という詩片の中に遺した一節です。小五郎、答えは貴方の中に既に存在するのではないですか?」
「……悪魔が詩を読むのか」
「人間を理解しなければ、堕落させられませんから」
「怖いな、自分よりも自分を理解している者がいるなんて」
「ある哲学者はこう述べています」
その悪魔は、悪魔らしく淫笑った。「すべての答えは出ている。どう生きるかということを除いて」
「まるで予言者だな。哲学者と悪魔は未来を見ることができるのか?」
「いいえ。私に見えるのは他人の夢だけですよ」
やれやれ、と男は苦笑した。
その時、彼らの背後から声が聞こえた。甲高い風の鳴き声が木霊する中で彼らの耳に届いたのは、確かに幼い少女の声だった。振り返るより早く、はっきりとした声が彼らの鼓膜を震わせた。
「この街に生身の人間とは珍しい。この子も待ち望んでいたことだろう。その鮮血を啜る歓喜の瞬間を」
巨大な斧を携え、目を細めて愛おしそうに彼らを見据えて、黒衣の少女は立っていた。急に風速を増した風が、少女のドレスの裾を揺らす。その少女は斧を振りかざす。外燃機関が組み込まれた鋼鉄の怪物は、威嚇するかのように白い蒸気を吐き出し、刀身を赤熱させる。大気を焦がす灼熱は陽炎となって姿を見せた。熱で歪んだ空間の中で少女は口角を吊り上げる。
「デウス・エクス・マキナ。歯車の女神は汝らの血を求めておられる」
あまりにも唐突に現れたその少女が何者かは判らなかったが、彼女からはっきりと感じられる敵意は男を動かした。
「アナスタシア、持っていてくれ」
右手に抱えていたトランクを傍らのサキュバスに押し付ける。そして、彼の身体を覆う黒いコートの下から、二丁の拳銃を引き出した。銀色の撃鉄を起こす。くるり、と弾倉が回転した。銃口がゆっくりと少女を囚える。
白い蒸気の影で、少女は笑った。
「この街で、まだそんなものに頼っているとは」
黒いローファーが、黒ずんだアスファルトを蹴る。
「こんなものでも意外と頼りになるさ」
「……で、あれば、汝の血は紅いか?」
巨大な鉄の怪物を振りかぶって、黒いドレスを翻し、少女は前へ前と突進する。男は少女に向かってトリガーを絞る。吐出された四十五口径の弾丸は、大気を切り裂き、少女の右肩に食い込んだ。しかし、少女は怯むこと無く、男に接近する。
「何だと!?」
「小五郎! 避けて!」
一歩、左足を大きく踏み込んで、少女は力任せに斧を薙ぐ。鈍く風が鳴いた。身を翻してその刃を何とか避けたが、その熱は男のコートを裾を焦がした。そこへ、縦一閃に斧が振り降ろされる。素早く後退しながらも、男は二発の弾丸を少女に撃ち込んだ。しかし、少女は顔色ひとつ変えず、斧を担ぎ直す。
「どういうことだ?」
銃弾は確実に当たったはずだ。しかし、彼女は血を流してはいない。恐らく痛みも感じていない。似ている。北端の街でマッド・バニーと名乗るふざけた少女と対峙した時と。彼女もあれと同じ前時代の遺物――ロストテクノロジー――だと言うのか。戦時中に開発された天使の生き残りだと……。
どうやら、神はまだ我々を赦していないらしい。
男は、真っ直ぐに少女を睨んだ。
「お前も模造品の天使か」
「私は使徒。ここは歯車の女神が支配する機械仕掛けの街。私たちは女神に護られる。私たちは女神と共にある。そうしてこの街の歯車は廻る」
「素敵な宗教だな」
可憐な少女が、惨たらしい暴力を宿す姿は、確かに、あのイカれた兎に似ていた。
否、それ以上に禍々しさを放っている。無慈悲という言葉を地上に具現化したかのような、氷像みたく美しい、まるで無機的な恐怖を。いつか、この世界の中心で垣間見た、あの女神像の様な――
「鮮血は、何より良い潤滑油となる」
ガラスの様に透き通った紫色の瞳が嵌めこまれた目を細め、少女は唇を歪めた。彼女の携える大斧の刃は、赤から白へとその温度を上げていた。その熱気によって、少女の周囲のアスファルトからは雨が蒸気となって霧散する。
再び、少女は地を蹴った。
黒衣の青年が銃を構えるより速く、少女は間合いを詰めた。しかし、武器が巨大になればその分だけ取り回しは遅くなる。そう簡単には当たらない。男は大斧の斬撃を躱しながらも、反撃の機会を狙っていた。いくら骨格の強化されたサイボーグだとしても、脂肪の塊であるその臓器だけは鍛えることが出来ない。脳は、私たちが思っているよりもずっと衝撃に対しては脆弱なのだ。そこを狙えば彼女を行動不能にすることが可能だ。幸いにも相手は防御など考えずに向かってくる。不死身とは、死への恐怖心が薄れるからこそ不便だ。
少女が袈裟懸けに斧を振り下ろした刹那、男は一気に少女の懐へと潜り込む。その瞬間、男の身体を衝撃が襲った。白く巨大な壁が彼の視界を覆う。次に彼の目に映ったのは、オレンジの空。幾千の星が散って、色を失った世界は、闇に包まれる――
「小五郎!」
悪魔は彼の名を呼んだが、返事はなかった。濡れた地面に伏せる男は沈黙している。
「それでは、貴女の血からいただくとしましょうか」
ゆっくりと、斧を引きずりながら、黒いドレスの女は悪魔の元へと近づいてゆく。
「安心して。痛くないから。勿体無いけれど、一思いに貴女の細い首を焼き切ってあげる」
少女は斧を持ち上げる。オレンジ色に縁取られたアスファルトに、斧を振り上げる少女の残忍なシルエットが浮かぶ。紫色の眼球が冷たく眼前の悪魔を見やる。だが、死神にも似た濃厚な死の匂いを前にしても尚、悪魔は、少し口角を上げて、幽かな笑みを浮かべている。一陣の風がアナスタシアの長い髪を揺らす。ふわり、と影は舞った。
刹那、少女の胸を銀色の刃が貫く。少女の背中から突き刺さった刃は、悪魔の胸元で止まっていた。その刃を追って、悪魔は少女の背後へと視線を移す。
「現れましたか、ラヴェル」
「御機嫌よう、アナスタシア。今日の君も美しいね」
少女の背後で、黒衣の男はウインクする。
「戯言を。貴方の所為で小五郎は少し混乱しているようですよ。ですが、この状況下では感謝しなければなりませんね。お陰で助かりました」
「淑女をお護りするのは騎士の義務でございますから。あ、お代は君の身体で結構」
「お断りです」
「つれないなァ」
男はレイピアを引き抜いた。その瞬間、背後に向かって少女が斧を薙ぐ。咄嗟に男は跳び退いた。
目の前でニタニタと笑う男を睨んで、少女は語気を強める。
「人を挟んで会話しないでいただけますか」
「心臓を貫かれて、まだ動いているとは、どういうことだ?」
血のように赤い眼球を爛々と輝かせる。
「圧縮蒸気の直撃を受けて平然としている貴方も異常ですわね。人間とは思えない」
「悪魔って種族は少々頑丈に出来ているのさ。君と同じようにね」
「それでも首と胴体が切り離されてはどうしようもありません、よね?」
「試してみるかい?」
男は黒いコートを脱ぎ捨てた。
「ええ、是非とも」
少女が斧を構える。
「デウス・エクス・マキナ。歯車の女神は至極の潤滑油として汝の血を望んでおられる」
斧を抱く黒い影が動いた。巨大な斧で地を裂きながら少女は疾走する。そして、男の眼前で、斧を振り上げた。その刃を躱した男のへ向かって、少女は叩きつけるように斧を振り下ろす。その一撃は、大地を砕いた。土埃と、蒸気が辺りを染める中、ふわり、と男は可憐な少女が握る獰猛な大斧の背に舞い降りる。血みたく紅い目を細めて、ニヤリと笑った。
懐から引き抜いた銀色のデザート・イーグル。その五十口径の銃口から放たれた重い弾丸は、少女の身体をその右手に握った凶悪な斧から引き剥がす。吹き飛んだ少女を追って、紅い目の悪魔が跳躍する。宙空で彼は少女の顔面を蹴る。少女は鈍い音を立ててアスファルトの上を転がった。起き上がろうと顔を上げた少女の目の前には、紅い瞳を爛々と輝かせる悪魔と、五十口径の銃口があった。
その悪魔は寒々しく微笑んでいる。
「まず謝ろう。君の端正な顔を蹴って仕舞ったこと。そして、もうひとつ。今から君の顔をグチャグチャにして仕舞うことについても謝らなくてならないね」
その時初めて、少女の目が恐怖に染まった。
「果たして機械の少女の心臓は、その頭を吹き飛ばされても尚、熱く脈打つことが叶うだろうか?」
ゆっくり、とラヴェルは引鉄に指をかける。
「そこまでですよ、ラヴェル。殺める必要はありません」
「どうして? 彼女は造られた存在だ。悪夢は終わらせてあげた方が良い」
「歯車の女神とやらに嫌われたくはないですからね」
「やれやれ、アナスタシア。君という悪魔は、どんな神よりも慈悲深い」
「血まみれの神が存在するのならば、心優しい悪魔が居てはいけない道理はありません」
女神の様に、その悪魔は笑みを浮かべた。
「しかし、その為に背負う業も多いだろう? 俺なら全て断ち切れる」
「人も、悪魔も、神も、あらゆるものが、この世界に接点を持っています。それこそ、そこら中に。今更、その一つや二つを取り去ったこところで意味などないのですよ」
「君にしては悲観的な意見だな」
「ラヴェル。貴方は自分が何者か、考えたことはありますか?」
「無い。俺が悪魔という種族であるということ。それ以外のことはどうにでも変えられる。そんな不確定な要素に縋り付いて悩むよりも、俺は目先の欲望を追いかける」
「貴方らしいですね」
「惚れたかい?」
やれやれ……、とアナスタシアは肩を竦めた。
「まあ、実に愚かです」
「それでいい。多くのことを中途半端に知るよりは何も知らない方がいい。他人の見解に便乗して賢者になるくらいならば、寧ろ、自力だけに頼る愚者である方が救われるさ」
「貴方がニーチェを知っているということに驚きです。誰にでもあるものですね。あるべき自分と、なりたい自分の姿というのは」
「その方が美しいだろう?」
「貴方には似合いませんね。ですが、腑には落ちます」
アナスタシアは黒いコートを拾い上げながら、「ところでそろそろ引っ込んでくれませんか。鬱陶しいです」
「やれやれ。久しぶりに出てきたと思ったら……」
「感謝はしていますよ、ラヴェル。ですが、自らの身体を持たない貴方がこの世界に長くいると消えて仕舞いますよ」
「はいはい。悪魔ってやつは不便だな」
ふわり、ラヴェルは微笑んで手を振る。黒衣の男は再び地に付した。アナスタシアが彼を起こそうと近づいた。
その時、背後から何かを引きずる音が聞こえた。
「デウス・エクス・マキナ。歯車の女神は汝の血を求めておられる」
少女は斧を振り上げる。その斧に火は灯っていなかったが、その質量は女の身体を引き裂くには十分だろう。
「引き際を知らぬというのも不便なものですね。ですが、良い物を見せてもらいました」
悪魔が少女に向けて手をかざす。すると、悪魔の周囲の地面が突如として乾き始めた。大気中に放たれた水蒸気が彼女の掌に集中する。斧を持った少女は目を見開いた。
「何故、貴女が……」
彼女の手から放たれた圧縮蒸気は、一気に大気を駆け抜け、少女を吹き飛ばす。
「水蒸気を圧縮して解放する。その巨大なエネルギーを利用して瞬間的に巨大な衝撃力を生み出し、そこにに力の形を与える。科学とやらはおもしろいですね」
悪魔は淫笑う。
そして、くるり、と彼女は踵を返した。
「さて、小五郎。起きてくださーい。朝ですよー」
Succubus
――夢魔は深層に眠る真理を見るか
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