ヴェルセルク

 白亜に輝くトライアン・ヴイア空港のロビーを、彼女はエントランスへ向かって、ハイヒールの靴音を響かせながら歩いていた。長い黒髪に大理石の様な白い肌、長身で細身のシルエット、そして、忘れもしない、あの蛇の様なブラウンの眼。

 間違いなかった。

 ワルシャワで、否、それ以前にも様々な舞台の上で何度も見た。見せつけられた。

 ――厭な眼だ。

 白い回廊の中で、鮮血を散らした様な紅いラウンジチェアに座って彼女を見つめるエメラルドグリーンの瞳。その眼は静かな森の暗がりから獲物を狙う狼みたく、鋭い。目の前を悠々と通り過ぎて行く彼女を追って、その碧い眼球が転がった。

 話には聞いていた。彼女がルーマニアに来る、と。

 ポーランドの革命で新政府側のメディア戦略を担当し、ヨーロッパ・ピクニックの成功を世界に喧伝し、ベルリンで反ファシズム防衛壁の崩壊を見届け、ハンガリーで共産党のネガティブキャンペーンを行ってきた“勝たせ屋”と呼ばれる彼女が祖国であるチェコの救済ではなく、本当にルーマニアを選ぶとは……。

 挨拶は済ませておこう、と彼女は身体を起こす。その赤毛の白人女性は、鮮やかなステッカーが幾つも貼られた黒いキャリーケースを引きずりながら歩く長身の女性に、足音を立てずに近寄り、背後から声をかけた。

「次はルーマニアですか? マンシュタイン・ルツィエ」

「へえ、あなたもですか」

 黒いハイヒールが白い床の上で止まった。その蛇は口角を吊り上げて微笑む。

 振り向きながら訊ねた。

「ルーシーで構いませんよ。ゾラ・アンリさん。これからブカレストへ?」

 彼女の湿地で息を潜める毒蛇の様な視線に、ゾラは凍り付いた。底なし沼を思わせるぬかるみへと沈んでゆく様な感覚だった。それでも彼女の笑顔という仮面は剥がれない。狼は慇懃とした目を蛇に向ける。

「ええ。まあ……。ポーランドの時は大変お世話になりまして」

「さて、何のことでしょうか?」

「そして、今回はオーストラリアの放送局を装って入国ですか。随分と友人が多いのですね」

「珍しい生業でしてね。もう引っ張りだこですよ。千切れちゃいそうなくらいです」

「羨ましいです」

 狼が間合いを詰める。「それに、ドイツの再統一に関して、ヨーロッパの統合が先決だとあの女に入れ知恵したのもあなたですよね」

「まさか。何度も言ってますけど、そんなことが可能な訳がありません。私はただの報道関係者、ただの民間人です。たまには政府の方々ともお仕事しますけどね」

「お陰様でこちらは随分焦りました。まあ、一年は遅れたでしょうね」

「でも、壁は壊れた」

「しかし、まだ再統一に至ってはいません。残念ながら」

「あなた方は先を急ぎすぎる。そして、自国の利益しか考えていない」

 彼女は、その瞳を隠す様にサングラスをかけながら、「そのような革命は世界を滅ぼす」

「その言葉、そのままお返ししますね、ルーシー」

「アンリさん。旧時代的な帝国主義はいつか必ず崩壊しますよ。世界中に深刻な後遺症を残して」

 靴音ひとつ。光に溢れたエントランスへとルツィエは、歩み出す。空港の外では、彼女を待つ“チーム”のメンバーが手を振っていた。そちらへ彼女も手を振り返す。

「では。私はこれにて」

「お気をつけて、ドクター・ルーシー」

 ヘイ・ジュードのメロディーを口ずさみながら去ってゆく背中に、ゾラは別れを告げる。昏くその仮面は笑った。

 鋼鉄の翼で空を早駆ける巨大な化鳥の咆哮が、彼女たちの鼓膜を震わせる。


「バルト海からアドリア海まで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中央ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある都市は、全てその向こうにある」

 鉄のカーテン。

 一九四六年三月五日に第六十一代英国首相ウィンストン・チャーチルが演説の中で発したこの言葉どおり、世界が東西に分け隔てられ、冷戦へ突入してから約半世紀が経過していた。第二次世界大戦終結以来、東西冷戦の危険な均衡の中で、スペース・レースやミサイル開発競争のほか、朝鮮半島やベトナムなど様々な戦場で覇権を争い合ってきたアメリカ合衆国とソビエト連邦の緊張関係は、八十年代後半、一人の指導者の登場によって急速に雪解けへと向かう。

 ペレストロイカとグラスノスチ。

 ミハイル・ゴルバチョフが開拓したこの二つの改革路線は、ソビエト連邦並びにワルシャワ条約機構加盟国、そして、世界中に大きな衝撃を与える。それまで正道とされていた保守的な共産主義の行き先は、これにより一変した。この改革を受けて、共産党の一党独裁政権に“占領”されていた国々の世論は急速に改革へ、そして、その先の民主化へと傾く。

 運命の年、一九八九年、ヨーロッパに変革が訪れた。

 発端は、前年の三月に旧ユーゴスラビアで行われたゴルバチョフの演説。ソ連の行く末を決定した、新ベオグラード宣言に始まる。プラハの春以来の“ブレジネフ・ドクトリン”と呼ばれる外交姿勢――社会主義陣営全体の利益のためには一国の主権を制限しても構わないという考え方――を止め、ソビエトは他の社会主義国に対して不干渉――レッセフェール――の立場を示した。この衝撃的な脱線によって、民主化への機運が高まっていた東欧諸国で次々と民主化運動が展開されることとなる。

 最初のインパクトはハンガリーに到達した。

 これにより、オーストリアとハンガリーの国境を封鎖していた鉄条網が撤去される。約五十年の間、世界を分け隔てていた鉄のカーテンの一角が開き、東欧に自由という眩い光が射し込んだ瞬間だった。その後、この光はポーランド、チェコスロバキア、そして、遂には独裁者チャウシスクが君臨するルーマニアへと到達する。冷戦開始以降、冷たい鉄のカーテンの内側で渦巻いていた自由への欲求は止まることを知らなかった。

 この時、ヨーロッパでの影響力を保持しようと画策したホワイトハウスは、西ドイツやフランスを始めとするヨーロッパ各地の諜報員と外交官を動かした。民主化を支持する反体制派の活動家たちに戦闘や煽動の方法など革命に必要な訓練を施す一方で、各種メディアに資金を投入しプロパガンダによって民主化を望む人々の、共産主義政権への不満を煽る。目的は、アメリカの協力で成された革命を起こすこと。この世界が変わろうとする局面で重要な役割を担っておくことで、たとえヨーロッパが統合し大きな力を持つようになっても、ヨーロッパ大陸に於けるアメリカの優位性は保たれる。

 この動きは、先に本格的な革命の真っ只中にあったポーランドやチェコスロバキアにも伸びていた。そして、最後に残ったルーマニアにもCIAの軍事キャンプで訓練を受けた反体制派の活動家が秘密裏に入国し、革命の準備に奔走していた。


 ルーマニア西部の工業都市ティミショアラのホテルにて。

 クライアントへの報告書にペンを走らせながら、ルツィエは自由欧州放送にラジオの周波数を合わせる。各国メディアの、中でも自由欧州放送、BBC、ドイチュベレなどルーマニア国民も触れることができ、統制や検閲を受けない報道は彼女の最も確認すべき成果だった。

 しかし、放送を聞きながら頭を抱える。

「まーた真実味の無いプロパガンダかよー……。どういう編集してんだよー」

「どうかしたんです?」

 呑気な声をかけたのは、ルツィエと同室に泊まるニーナ・チュチュリナ。黒いキャミソールの生地に隠れていない肩甲骨の前でブロンドの髪が揺れている。

 彼女はブラシを片手に癖っ毛と格闘しながら、「ネタ切れですかー?」

「ダーメ、だね。強制移住の件以上のインパクトが無い」

「あのニュースのリアクションは凄かったですもんねー」

「でも、もう延命はできない……」

 すっくと立ち上がり、溜め息をひとつ、ルツィエはベッドに倒れ込む。

「ニーナ、KGBかシュタージと連絡取ってー。ネタくれーって」

「無理でーす」

「もう、グラスノスチって何だったんだ……」

 スピンドクターと呼ばれる人々がいる。

 選挙活動や政治活動、軍事行動などに於いて、対メディア戦略を担う専門家だ。クライアントのイメージアップから、対立候補へのネガティブキャンペーン、政策のパブリック・リレーションズ、軍事作戦の正当性のアピールまで、彼らはあらゆる情報操作を行う。

 何を隠し、何を見せ、何を訴えるか。

 ある事実が、特定の団体や個人に有利に作用するようにスピンさせるのだ。彼らの手の上で、ニュースの形が決まり、それを受けて世論は変わり、世界が動く。そこでは、正義よりも思惑が優先される。或いは、醜い思惑さえも美しい正義に変化する。今や正義や大義が金で買える時代だ。クライアントに都合の良い正義を売ることを彼女は生業としていた。

 今回、彼女が請け負ったのはニューヨークに本部を持つハンガリー人権財団からの依頼。その内容は、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシスク打倒のため民衆の反体制運動を煽動すること、そして、ルーマニアの民主化運動が国際社会の同情を集めること。

 実に簡潔な内容だ。如何にも、あの界隈の住人が好みそうな……。

 しかし、ワルシャワ条約機構に帰属しながらも、ゴルバチョフの改革を無視したチャウシスク独裁下のルーマニアは、未だに厳しい情報統制の中にあった。ルーマニア秘密警察――セクリタテア――の網と密告制度が完璧に張り巡らされていたチャウシェスクの王国で、体制に不利な情報を取り出すことは困難を極める。グラスノスチを拒否したこの国は、それまでのソ連の様な秘密主義国家だった。

 沈黙する部屋にノックの音が響いた。“殺しのライセンスを持つ男”御用達のワルサーPPKを片手にニーナがドアに近づく。癖っ毛の護衛が銃を構えるまで待って、ルツィエが返事をした。

「なーにー?」

「ルーシー、ラングレーからの客が下のラウンジで待ってるってさ。何でも『食事』したいそうだよ」

「てっきりブカレストに行ったのかと思った。まったく、こんな昼間から……。狼って夜行性じゃないの?」

「そうなのか?」

「まあ、いい」

 軽く溜め息をついて、彼女はベッドの上の白いシャツを手に取った。

「直ぐに行く」


 一九四五年五月八日、ナチス・ドイツの滅亡と共にルーマニア王国が崩壊した。

 その後、ソビエト連邦軍の占領下に入る。四七年、皇帝ミハイ一世が退位し、共産党による一党独裁国家であるルーマニア社会主義共和国が成立。コーカサスの南に位置する産油国であり、エネルギー資源に富んでいたルーマニアは、五〇年代後半から他の東欧諸国とは一線を画し、東の盟主であるソ連とも距離を置く独自の外交路線を進んでいた。

 一九六五年、後の独裁者ニコラエ・チャウシェスクが、前代のゲオルゲ・ゲオルギュ=デジから政権を引き継いだ。ソ連の傘下から離脱し、独自の道を歩むチャウシェスクを国民は熱狂的に支持した。一九六八年のプラハの春において、ワルシャワ条約機構加盟国の中で、ただ一人、ソビエト軍のチェコスロバキア侵攻に反対すると、国内だけではなく、西側諸国からもチャウシェスクを支持する意見が聞かれるようになる。

 アメリカは、協力者としてこの独裁者に資金を提供するなど、積極的な支援を行った。これによりルーマニア国民の生活水準は、国土の荒廃と経済の低迷に苦しんでいた東欧諸国とは比べものにならないほど向上する。その結果、“チャウシェスク王朝”とも言われた個人独裁体制の確立に至った。

 しかし、一九八〇年代後半に入ると政策に失敗し経済の疲弊が始まる。尚且つゴルバチョフのペレストロイカをチャウシェスクが拒否したことにより、アメリカを始めとする西側諸国との関係が悪化。命綱だったアメリカからの融資も断ち切られ、社会主義陣営からも疎まれていたルーマニアは完全に孤立する。そして、モスクワとワシントンの両方から圧力がかけられる。

 改革――ペレストロイカ――か、債務の全額返済か。

 ルーマニアは厳しい選択を迫られた。どちらを選んでも、国家の崩壊に繋がりかねない。苦慮の末にチャウシェスクは海外債務の返済のために輸出を強化。国内の需要を賄う分の資源や食料まで輸出する。この飢餓輸出の結果、債務の返済は完了するが、国民の生活水準は著しく低下した。

 しかし、一方でチャウシェスク自身は“国民の館”と呼ばれる豪奢な宮殿を建設し、彼の一族を政府の要職に就け、まるで貴族の様な暮らしを送っていた。飢えに喘ぐ国民を無視するかのような独裁者の政治に対し、国内ではチャウシェスクへの不満が日増しに強くなってゆく。



「八六年のウェンブリー・スタジアムのライブは行きました?」

 その蛇は、血の様に赤いローストビーフに銀色のフォークを突き立てる。赤ワインのグラスの向こうで、対面する碧い瞳が瞬きした。

「丁度、仕事でしてね……。まさか、これからの音楽シーンの変化について探りを入れたいのでちょっとイギリスで活動します、なんて言えないでしょう?」

 赤毛の女はウインクして、「でも、カインド・オブ・マジックは買ったわ」

「ワン・ヴィジョンっ!」

「そう、それそれ! 私もその曲好きなのよ」

 グラスを持ち上げて、ゾラが言った。「私たちも共通の目標、そう、ワン・ヴィジョンに向かって協力しましょうね」

 ワインの様に赤い唇を吊り上げて、ルツィエが微笑む。

「そう言えば、ラズロ・トケシュ牧師へのインタビューを西ドイツのテレビ局に打診して断られたそうですね」

「それが何か?」

「あなた方は、あなた方が思っている以上に信用されていない、ということですよ」

「ですが、少し方向性を変えれば成功します」

「あー……、カナダのクルーが成功したインタビュー。やっぱり、あなた方が動いていましたか」

「お金を出しただけ、ですけどね」

「へえ、怖いですね。政府っていうのは。とても怖い」

「でも、メディアの方がもっと怖い。そうじゃありません?」

「そうでしょうか? 一応、彼らには正義もある。少なくともあなた方よりは純粋です。彼らにあるのはワン・ヴィジョンのみですから」

「それはどういうものかしら?」

「残念ながら金ですよ。あの方々は昔から何一つ変わらない」

 ところで、とルツィエが紙ナプキンで口元を拭って訊いた。

「ひとつ、質問をよろしいですか。何故、ルーマニアなんです?」

「たまたまです。本当なら、私はチェコに行きたかった」

「本当に?」

「何故?」

「もしかして、祖国の国民を騙してまでアメリカ製の民主主義と市場経済を輸出することが後ろめたかったのではないかと」

「それはあなたの理由じゃないかしら?」

「ええ。そうです。私は祖国が自らの足で立つのではなく、アメリカという帝国に組み入れられることで偽りの自由を手にする瞬間を見たくなかった」

 瑞々しく赤いトマトをフォークで串刺しにして、ルツィエが訊いた。

「あなたなら解りますよね?」

「ええ。痛いほど……」

「では、何故、ルーマニアなんです?」

「欲しいのは私の理由? それとも、政府の理由? どちらを言えば信用してもらえますか?」

 蛇の鋭い瞳が、狼を睨んだ。

「お好きな方で」


 その革命は、ティミショアラの街から幕を開けた。

 一九八九年十二月十六日、ハンガリー少数民族系の牧師で反チャウシェスク派のリーダーでもあったラズロ・トケシュ氏の国外追放に抗議するデモが敢行される。

 ホテルの窓から外の様子を眺めていたニーナが呟いた。

「今のところ予定通りですか?」

「そうだね」

 ルツィエはチョコレートを摘み上げて、「いい写真と映像を期待しよう」

「でも、待ってるだけってつまんないですよー」

「いいんだよ。これが私の仕事だ」

「秘密警察相手に派手な撃ち合いしてみたいなー……」

「そういうのは映画の中だけにしてくれる?」

「それより観ましたか、ルーシー! リビング・デイライツ!」

「007? 観てないよ。相変わらず好きだね」

「それりゃもう、ボンドに憧れてこの世界に入りましたからね!」

「やれやれ。ジェームス・ボンドという男はつくづく罪作りな奴だ」

 呆れたような顔をルツィエが浮かべながらチョコレートを口の中に放り込んだ。あたしも、とニーナがチョコレートの箱に手を伸ばす。

 その瞬間、ノイズと共に無線から声が漏れてきた。

「――聞こえるか?」

「はいはーい。ルーシーでーす。どうしたのかなー?」

「デモ隊が予定の進路を反れた」

「あらあら」

 彼女は机の上に地図を広げる。

「ヴェルナー、彼らはどこへ?」

「ミハイビテアズル橋からテスタロッチ通りの方へ向かっている」

「その方向はマズい」

 ルツィエが問い掛ける。「その先には武装したセクリタテアが待ち構えている。デモを先導しているのは誰だ?」

「すまない。ここからじゃ見えない」

「クリスマス休暇のために急ごうって腹か、あいつら……」

「どうする?」

 額に手を当て、少し考えてから、ルツィエが口を開いた。

「そのままでいい。もう手遅れだ。見守るしかない。何かあったら知らせてくれ」

 了解、と返ってきて、無線は空電になった。溜め息をつく。ルツィエの右手がチョコレートを探す。その白い指先をニーナがくわえた。

「お姉ひゃま?」

 指についたチョコレートを舐めながら、「緊急事態ですかー?」

「そうだね。無垢なる群衆は非常に良くない方向へ進んでいる」

「じゃあ、出動ですか!」

 蛇の目付きが鋭くなる。

「もう遅いよ。居るんだよ。セクリタテアの中にもアメリカの犬がね」

 ニーナの口から引き抜いた指を長い舌で舐めて続けた。

「けれど、この局面で市民の血が流れることが、独裁者を追い詰める絶好の材料になることは否めない。必要かどうかは置いてね」

 以前にも、ルーマニア国内で同じようなデモが行われたことがある。しかし、その時は目立った騒ぎが起きなかったこともあり、国民はあまり関心を向けなかった。

 そこから政権転覆を画策する者たちは学ぶ。

 悲劇的な犠牲が支払われなければ、人々の心は動かない。

 いつの間にか、デモの内容はチャウシェスク体制を批判するものへと変わっていた。反抗の印としてルーマニア社会主義共和国の国旗中央に描かれた国章を切り取った旗が振られ、デモ隊は“チャウシェスクを潰せ!”と怒号を上げながらテスタロッチ通りからデケバルス橋へと歩みを進める。プロの煽動家に煽られた市民を、止めるものはなかった。この変化が誰の思惑通りかは、明白であった。橋の向こうでは秘密警察の鎮圧部隊が待ち構えている。

 市民は、彼らに向かって叫んだ。

「暴力では何も解決しない!」

 寒空に銃声が響く。

 デモの最前列にいた市民の躯が宙を舞った。赤い血飛沫が舞う。

 悲鳴が耳を劈いた。

 最初の一発を放ったのが“誰か”は分からない。武装した秘密警察が発砲したのだ。それは威嚇射撃ではなかった。武器を持たない丸腰の市民が、無慈悲な銃弾に次々と倒れてゆく。

 骨の砕ける音がした。冷え切った外気に晒された傷痕からは、溢れ出る血と共に白い湯気が昇っている。大気の冷たい空には音が良く響く。

 辺りは、幻想的な悪夢に包まれていた。

 ――銃撃が始まった。

 その報告を受けた時、ルツィエは頭を抱えて、背中からベッドに倒れ込んだ。銃声と悲鳴は彼女耳にも届いている。西ドイツへ亡命したチェコ人の母を持つ彼女にとって、プラハの春の様な流血は二度と繰り返したくはなかった。それが、同じ国の国民同士の殺し合いとなれば、尚のこと。

 しかし、それでも、この武力によるデモの鎮圧が、チャウシェスクを攻撃するための最高のプロパガンダになることを彼女は知っていた。瀕死の独裁者の喉笛に喰らいついて引き裂くには、十分すぎるほど強力な顎門だった。肉を裂き、鮮血を吐き出す血管を引き千切り、頸椎を砕かれ、喉笛が悲痛な音を上げても尚、その心臓は熱く脈打つことが叶うだろうか。

 細い腕を伸ばして無線機を握る。無表情で彼女は言った。

「武装したセクリタテアと市民の遺体を撮影してくれ」

「了解」

 この民主化デモで起きた虐殺のニュースは瞬く間に世界を駆け巡る。

 世界中でチャウシェスクへの非難の声が上がり、犠牲者への祈りが捧げられた。そして、世界中の人間が理解したことだろう。東ヨーロッパは変革の時にあり、今まさに揺れ動いていると。そのヴィジョンこそが彼女にとっての勝利だった。

 当初、死者は四千人を超えると言われていた。しかし、撮影された映像に収められていた遺体には、古い縫合痕がある者など、明らかに銃撃の被害者ではない者もいた。より残酷に、より悲劇的に、よりセンセーショナルに映るよう、何者かが市内中の病院から遺体を持ち出して並べたのだ。

 こうして、この革命は演出されてゆく。

 かのヴラド・ツェペシュが串刺しにした人間の死体で恐怖の林を作り、オスマン帝国軍の戦意を喪失させ領地を守り抜いたように、いつの日にか、今日の死者も自由への犠牲として伝説を飾る日が来るのかもしれない。その時、真実はどこへ行って仕舞うのだろうか。

 ルツィエはブラウンの瞳に憂鬱な色の空を映した。それは、ただ、黒い空。

 ベッドサイドのラジオは、自分の送った、まやかしの事実を読み上げている。

 ティミショアラで起きた虐殺の、実際の犠牲者は千人程だった。それでも、少なくはない。しかし、崇高な理想を持った革命のための尊い犠牲を払っても、血に飢えたバーサーカーは止まることを知らなかった。


 ティミショアラ事件の夜は、ただ静かだった。

 この異様な静けさは、市民の怒りがこの街に沈澱しているからだろうか。少しでも衝撃を与えたら、爆発して仕舞いそうな、危うい均衡が街を覆っている。それでも、静寂が続くのは、きっと涙が相応しい夜だからだろう。醒める様に白い月の光の中で、それはそれは冷たく映えるものだから。誰もが悲しみを咬み殺して、じっと、死者と対面していた。

 この犠牲によって、彼らの意志が強固になったのは明らかだった。人は流血を前にして、初めて、武器を手に取る生き物なのだろうか。

 月光を遮る小さな陸橋の側で、退屈そうな少女が癖っ毛の髪を指に巻いていた。

 陸橋の下では、蛇が狼と対峙している。

「どうして撃たせたんですか?」

「何のことかしら。今回の件は秘密警察による非道な武力鎮圧の悲劇、そうよね?」

「表向きはそうです」

 ですが……、とルツィエが続けた。「セクリタテアの中にもあなた方の協力者が存在することは知っています」

「それが何か? 私は体制側と反体制側、どちらとも接触しているのよ」

「では、単刀直入に言わせていただきます」

 ルツィエの両眸が真っ直ぐに狼を突き刺す。

「行き過ぎた流血は革命の意義を損なう」

「意義?」

 高く、嘲笑う。「これは喧嘩なんですよ、お嬢さん。あなたは殴り合っているときに、あとどれだけ必要かを秤で計るのかしら」

「でも、この革命に流血は必要なかったはずです。他の旧ソビエトの国も……」

 ゾラが話を遮る。

「バカを言わないでくださる? 血が流れなければこの国の民衆は立ち上がらないのよ」

 ルツィエは語気を強めた。

「だからって六十八年のチェコと同じ悲劇を繰り返す気ですか。また武器を持たない市民を戦車の前に立たせますか?!」

「彼らが自発的にその行動に出たら? 私たちにそれを止める義務はないわ」

「人は、その状況下において効率と合理性を感情的に求めるあまり、より多くの犠牲を強いてしまうことがあります。それを正義と呼ぶのは、理性に欠けていると思いませんか?」

「最もらしいけれど……。それでも正義は正義でしょう?」

 狼の吊り上がった口元に白い牙が覗く。「犠牲者が増えれば増えるほど民衆は怒り、世界は同情を注ぐ。これは必要な犠牲なのよ。舞台を盛り上げるためにはね、プラハと同じように」

「それがあなた方の正義ですか」

「ドクター・ルーシー。あなたは正義の形がどんなものかご存知ですか?」

「正義の形?」

「私は存在しないと考えています。どんな形の正義も存在し得る」

「ふざけるな。そのために、あなた方の正義のために、罪の無い市民が無残に死んでもいいのですか」

「すべての変革は悲劇から幕を開ける。見たくないなら此処で手を引きなさい」

「それが仮にも民主主義国家の言うことですか! あなた方はあなた方が戦っている独裁者や共産主義者と何ひとつ変わらない」

「当前でしょ? 同じ人間なのよ?」

 ゾラが白い息を吐く。「お互い同じ目標に向かう人間同士。もう少し仲良くしません?」

 不敵に微笑む赤い狼を、ルツィエは一瞥した。

「……お断りします」

 彼女が言った。「覚えておいてください。どんなに隠そうと、真実はいつか表に出る日が来ます」

「脅し?」

「いいえ。予言です」

「それは実現するのかしらね?」

「ええ。必ず」

 ルツィエが背を向ける。黒い髪は、月光の縁で艶めいた。

「私は収穫の時に立ち会えないかもしれない。だから、今の内に出来るだけ多くの種を蒔こうと思います」

「マーティン・ルーサー・キング……。あなたは、彼よりもリアリストですよね」

「ええ。だから、私は、未来という理想に賭けます」


 五日後、彼女たちの姿は首都のブカレストにあった。

 一九八九年十二月二十一日。ルーマニア共産党本部庁舎前の広場。

 約十万人の市民の前に、崩れゆく王国の独裁者が姿を現す。それは不安定になった国家を建て直すためのプロパガンダとしてチャウシェスク側が企画した集会だった。自分にまだ影響力があることを見せつけるようとしたのだ。

 白亜のバルコニーの上から彼は国民に訴える。

「ティミショアラで起きた悲劇は西側のスパイが関係している」

 これはルーマニアを陥れるための罠だ。演説の冒頭で独裁者はそう主張したが、聴衆は耳を貸さなかった。賞賛の代わりに罵声が飛び交った。国民の偉大なる父とまで謳われたチャウシェスクの威光は、国民の命を奪った瞬間に立ち消えたのだ。大衆は更に声を張り上げる。

 チャウシェスクは怒鳴った。

「聞いているのか、国民よ!」

 その声すらも、野次と罵声に掻き消える。

 直後、炸裂音が響いた。通りと広場の間で爆発が起きたのだ。何が爆発したのか、負傷者が出たのかは判らない。広場はパニック状態に陥る。

 その光景に、独裁者がたじろいだ。

 この集会での演説は国営ルーマニア放送で生中継されており、パニック状態になっている群集と、それでも止むことがなかった罵声にチャウシェスクが動揺する姿が映し出され、その瞬間、放送は中断する。

 この生中継をホテルの一室で見守っていたルツィエがベッドから立ち上がった。

「オットー、今の録画できてる?」 

「ああ、撮れてるぜ」

「よし。この仕事は終わり!」

 彼女は黒いコートを掴んだ。「いくよ!」

「お姉さま、どこへ?」

「真実を残しに」

 コートを羽織ったルツィエの唇が不敵に歪んだ。

「さあ、みんな武装して。あ、でも外見はジャーナリストっぽくね。それから攻撃された場合の反撃を許可する。あとは何でもいいから撮りまくれ。以上!」

 部屋を出て行く彼女の背中を眺めながら、オットーが呟く。

「久しぶりに本業らしいことができるな」


 革命の只中のブカレストの街は混乱を窮めていた。

 集会はチャウシェスクの独裁に対する抗議デモへと発展。しかし、このデモに対しても治安部隊が発砲。多数の死傷者が出たが、それでも怒り狂った市民は止まることなく、治安部隊と衝突する。国防軍も動員される事態となり、チャウシェスクは国防大臣ヴァシリ・ミレアに対し軍隊による群集の鎮圧を指示する、が、人道に反するという点からミレアはこの命令を拒否した。

 激しい剣幕で声を荒げるチャウシェスクに向かって、彼は毅然と言い放つ。

「国防軍は人民を守るための軍隊であり、守るべき人民に発砲はできない」

「何故だ! 今、ルーマニアは非常事態であり、国家は危機に瀕している」

 強く、机を叩いた。「この事態を治めるのが軍の義務ではないか!」

「国家の危機ではない。これは我々の政権の危機でしかなく、国家は変わろうとしているだけだろう?」

「お前は私に逆らうと言うのか!」

「時代は変わったのだ……。君の信じた理想的で崇高な共産主義という思想は、今や君の存在を認めていない」

 この言葉を聞いたチャウシェスクは激怒し、ミレアを追い返す。孤独な独裁者は、その執務室の窓から革命を叫ぶ国民を眺めて、何を思ったのだろうか。自らの両手から零れてゆく国を眺めながら……。その空虚さは、何色をしているのだろう。


 ――赤い。

 血にまみれた国家の、銃声という悲鳴は恐らく彼の耳にも届いていただろう。

 市街は未だに混乱の真っ只中にあり、そこはあらゆる感情で溢れていた。希望、怒り、渇望、悲しみ、正義感、嘆き、戸惑い、恐怖……。あまりにも鮮やかな光景。最も人間らしい光景。

 誰かが放ったモロトフ・カクテル――火焔瓶――が彼女の傍で燃えていた。ファインダーを覗いていたルツィエが、治安部隊の装甲車に向かってシャッターを切る。辺りを警戒しながら、ニーナが彼女の跡を追う。

「お姉さま、もっと慎重に行動を!」

「ニーナ、地球上で最も凶暴な動物って何か知ってる?」

「えーと、ジョーズ? 鳥?」

「ニーナは映画が好きだね」

 ルツィエが再びファインダーを覗く。「ヨーロッパの動物園でさ、世界で最も獰猛な動物って書かれた檻の中を覗くと、そこには、ぽつん、と姿見が置いてあるんだって」

「それは人間ってことですか?」

「ねえ、聞こえる?」

「何がですか?」

「世界が変わる音だよ」

 ――マシンガンの銃声。逃げ惑う人々の悲鳴。ガラスの割れる音。負傷者の呻き声。戦車の地鳴り。何かが爆発する音。怒り狂った市民の叫び、緊急車輛のサイレン音……。

 政府は国民に銃を向け、国民は政府に石を投げる。

 灰色のアスファルトには、あちこち血溜まりがあって……。

「でも、彼らは何のために血を流すんだろう?」

 ゆっくり、と彼女はニーナの方へ振り返って、「彼らは何のために死んでいくんだろう?」

 これは必要な流血だったのか。

 その解答を得る時、彼らはこの世にはもういない。そんなの、虚しすぎると思わないか。

 ルツィエは担架に乗せられ、病院へと搬送される青年をフィルムに焼き付ける。ブラウンの昏い瞳が、その向こうの共産党本部を見つめていた。

 大臣執務室のドアがノックされる。

「入れ」

「失礼します。モスクワから命令書が届きました」

「私にか?」

「そうです。こちらをご覧ください」

 黒いスーツ姿の男が、ポケットから拳銃を抜き、その銃口をミレアに向けた。

 一発の銃声が響く。

 この音を待ち望んでいた者がいた。ブカレスト市内のホテルの一室で喧騒を聞きながらコーヒーを味わっていたゾラにその音は届いた。

「ドレスデンから入電」

「了解」

 赤毛の狼が笑った。

「ヴィクトル・スタンクレスクを呼べ」

 狼は、暗闇の中で笑った。

「これよりルーマニアに新政府を設立する」

 その後、ヴァシリ・ミレアの死体が彼の自室で発見される。首の頸動脈を撃ち抜かれた姿で。

 翌日、国営ルーマニア放送はこの勇敢なる国防大臣の死を“自殺だった”と報じたものの、誰も信じる者はいなかった。市民の間には、ミレア国防大臣はチャウシェスクに抗議したために処刑されたのではないか、という噂が流布される。否、誰もが粛清だと信じて疑わなかった。この噂は軍部の中にも広まり、このチャウシェスクへの不信感は拡大していった。

 そして、これは軍がチャウシェスクに反旗を翻すきっかけとなる。


 一九八九年十二月二十二日。

 革命勢力の攻勢は、搾取と圧政の象徴である白亜の大統領宮殿にまで及んでいた。既に、チャウシェスク政権は政府としての躰を成していない。これを見て、反体制派勢力は共産党の反チャウシェスク派と共に、イオン・イリエスクを議長とした暫定政権“救国戦線評議会”を組織する。

 チャウシェスクは非常事態宣言を出し、この国家の危機に対応しようと試みるが軍隊が革命勢力に参加したことで、この試みは失敗する。展開はチャウシェスク支持派の治安部隊と国防軍との銃撃戦となり、ブカレスト市内は内戦の様相を呈した。

 正午を回った頃、元国防次官のスタンクレスク将軍の進言により、危機を察したチャウシェスクは妻のエレナと共にヘリコプターでの脱出を図る。この逃亡劇は反体制側に転じた自由ルーマニア放送を始めBBC、自由欧州放送など、世界各国のマスメディアで流される。

 その直後、共産党本部へ反体制派の市民と軍隊が雪崩れ込み、遂にチャウシェスク政権は倒れ、元共産党幹部のイオン・イリエスクが暫定政府の首相を務めることとなる。

 こうしてルーマニアでの民主化革命は成功した。

 しかし、その後、すべての事態を掌握したのは軍と秘密警察だった。イリエスクの演説が始まる三十分前には、共産党本部は軍によって占拠されていた。

 革命派の市民は僅か数時間で主導権を失い、彼らは敗れたのだ。

 華々しいほどの逆転劇である。

 或いは、すり替えというべきか。

 いつの間にか、この革命は市民の手を離れ、各国政府の思惑を乗せて暴走するバーサーカーと化して仕舞っていた。この日の夜、ブカレスト市内各地で反体制派の軍隊と大統領派の治安警察による激しい銃撃戦が発生。再び、多数の死傷者が出た。軍が市民に銃を配り、彼らがチャウシェスク支持派の武装勢力に抵抗した痛ましい結末だった。

 翌、十二月二十三日午後六時、自由ルーマニア放送にて、チャウシェスク夫妻がブカレストから三十分ほど離れたトルゴヴィシュテで逮捕されたというニュースが報道される。

 この一報をいち早く受けたゾラは電話口にルツィエを呼び出した。

「チャウシェスクの身柄が軍に確保されました」

「早かったですね。あなた方は優秀だ。それで、どうするつもりですか?」

「恐らく、簡単な裁判の後で処刑されるでしょう」

「……それで、私にどうしろと?」

「遺体の映像をルーマニアに、ヨーロッパに、全世界に、拡散させて欲しいのです。私たちはチャウシェスクが死んだという事実を必要としています。この争乱を終わらせるためにも」

「解りました」

 その時は、肯くことが彼女の仕事だった。

「場所は追って連絡します」

「ゾラさん」

「はい?」

「最初からこれが狙いだったんですか?」

「さあ、どう思いますか?」

「まあ、いいです」

 ルツィエは受話器を左手に持ち替えて、「映像の発信元は新しくなった国営放送にします。ついでに私の方で撮った鎮圧部隊の映像と、銃撃される市民の映像、チャウシェスクの逃亡シーンも入れます。市民の撮影した映像として」

「良い演出ね」

「では」

 十二月二十五日、トルゴヴィシュテの簡素な裁判所で、ニコラエ・チャウシェスクとエレナ夫人を裁くための特別軍事法廷が開かれた。この裁判で大量虐殺と不正蓄財の罪により彼らは死刑判決を受け、即日銃殺刑が執行される。後にチャウシェスク生存説が流布され、再び国内が争乱状態に陥る事を恐れた救国戦線並びに各諜報機関は、チャウシェスク夫妻の遺体の映像を各国メディアに公開した。

 これは現代に於ける公開処刑である。

 翌日、頭を撃ち抜かれ前屈みに頽れるエレナ夫人と、胸を撃たれ仰向けに仰け反るチャウシェスクの遺体の映像は、ルーマニア国内を駆け巡る。就任以来二十四年間、ルーマニアに君臨し続けた独裁者の最期を国民はその目に焼き付けた。

 一九八九年、こうして世界は変わった。


 国内の街という街で社会主義の象徴だったレーニンの立像が引き倒されている頃、ルツィエたちは首都ブカレストのオトペニ空港のロビーにいた。空港は海外のジャーナリストたちの出入りで混雑している。

 出発の時刻を待ちながら、コーヒーを片手にニーナと談笑するルツィエの隣に、赤髪の狼が座った。蛇は黒い水鏡に自らの瞳を映す。

 ひとつ、重い溜め息をついた。

「あなたの見ていたワン・ヴィジョン。私とは随分違ったようですね」

 赤い唇の蛇はゾラの方を向きながら。

「あなた方の狙いは最初からチャウシェスクの謀殺だった」

「どういうことかしら?」

 ゴルバチョフの“新ベオグラード宣言”以来、アメリカは、東西ヨーロッパの統合に重点を置いていた。

 当初のアメリカの最終目標は、NATOに西ドイツを残留させたままで東西ドイツを統合すること。しかし、ベルリンの壁の崩壊が予測よりも早まったことにより、ヨーロッパからの社会主義国家の完全排斥が最優先課題となる。そこで邪魔になったのが独自の路線を行くルーマニアのチャウシェスクだ。アメリカからも、ソ連からも影響を受けない独裁者は邪魔でしかない。

 ならば、消すのみ。それも、独裁者としてではなく、大悪人として。

 これにはクレムリンの承諾もあった。

「その為の軍事クーデターだったということです」

「軍事クーデター?」

「そうです。少なくともこの革命は市民のものではなかった」

「どうしてそう思うのかしら?」

「現在、政権の中核を担っているのは誰ですか? まさか、共産党と軍の幹部がそのまま繰り上がるなんて予想もしませんでした」

「あれは暫定的な政府ですよ」

「ホワイトハウスによってコントロールされた、が抜けていますよ?」

 つまり、と彼女は続けた。「これは反チャウシェスク派の共産党幹部によるクーデターと、市民の革命が同時に起こり、いつの間にか前者が主流になっていたということです」

「それで?」

「革命の目的は、市民にとっては崇高で素晴らしいものです。その為の犠牲ならば許すこともできるでしょう。誇らしく、その墓前に花を手向けることができるでしょう」

 ルツィエのブラウンの瞳がゾラを睨む。「ですが、彼らがあなた方の目的の手段として使われたのなら、私は許せない。遺族は、もっと許せないはずです」

「お嬢さん、相手が拳を振り上げている状態で握手ができると思いますか?」

 狼が蛇を睨み返した。「世界に平和を与えることは、自らも平和を得ることになるのですよ」

「またそれですか。ゾラさん、銃を突き付けて造り出した沈黙が平和と呼べるのですか?」

「それ以外の平和を知っていますか、ルーシー。もう銃は生まれてしまった。その時から、愚かにも人間は互いの頭に銃を突き付け合って生きている」

 その時の彼女は、どこか悲しげだった。

「プロメテウスから与えられた火は、今や世界を焼き尽くす炎として、たった一隻の潜水艦の中で燻っているのです。仕方のないことに、弱さは敵を挑発し、力は敵を抑止する。これが我々のスタンダードです」

「……方法は他にもあったと思います」

「そう。正義に形はない。でも、もう遅いんですよ」

「平和という理想の下に傀儡政権を作り上げ、経済的な植民地にして支配する」

 ルツィエは溜め息をついた。「何もかも、あなた方の思惑通り、ということですか」

「この事実を公表します?」

「いえ。これは知らない方が良い事実です。少なくとも今は」

 ゆっくり、と蛇が狼に顔を近づける。「だから、買ってください」

「買う?」

「これがあなた方と信頼関係を築ける最良の方法かな、と思いまして」

「その言葉は信頼できますか?」

「ええ。お金さえ頂ければ、私はこの事実をあなた方のマイナスになるような形では使いません」

 ゆっくりと蛇が顔を近づけ、耳元で囁いた。「それとも、サクッと殺します?」

「解りました。いくら欲しいのかしら?」

「六百万ドルで十年間は黙っておきます」

「強欲ね」

「この国から騙し取った犠牲に比べたら、随分と安いものでしょう?」

「ところで、あなたは我々の関与を証明できるのですか?」

「火のないところに煙りを立たせるのが私の仕事です。今まで散々見てきたではありませんか」

 情報は、その信憑性よりも発信源と発信された時期が重要である。

 この陰謀論を十年後にゴシップ誌が掲載したところで、誰も見向きはしないだろう。しかしながら、もしこのニュースが今、BBCや自由欧州放送、CNN、CBSという大手の放送局から流れればその波紋は大きい。

 ベトナム戦争でアメリカは学んだ。

 世論を戦争に向かわせることが簡単であるように、その逆も容易いことなのだ。すべての事実が、そのまま国民の目に晒されることが、どれだけ危険かを……。メディアを掌握すれば、メディアさえ騙せれば、世論というものは簡単に操作できる。

 たとえ、それが、自由な民主主義の国であっても。

「ルーシー、私たちと戦うつもりですか?」

「まさか」

 蛇は口角を吊り上げる、

「ゾラさん。またお仕事できるといいですね」

 ルツィエは立ち上がり、一歩、踏み出して言う。

「またお会いしましょう。それでは」

 黒いキャリーケースを引きずりながら、彼女は搭乗口へと消えていった。


 ヴァレンタイン・デイを間近に控えた二〇〇三年二月のニューヨーク。

 あの巨大すぎる“ブローバック”から立ち直りつつあるオフィス街の一角で、ランチを買いに出掛けたルツィエが一冊の雑誌を手に取った。

 ブラウンの瞳が表紙を眺める。

 第三十四代合衆国大統領ドワイト・アイゼンハワーが、自身の大統領離任演説にて、軍国化してゆくアメリカに対して鳴らした警鐘は何の意味も成さなかった。

 第二次世界大戦のスローガンを、今もう一度問いかけた時、彼らは何と答えるだろうか。


 ――WHY WE FIGHT

   なぜ、我々は戦うのか――


 現在、東ヨーロッパや南米や中東、アフリカ、東南アジアの、アメリカの支援によって民主化を成し遂げた国が、次々とアメリカに反旗を翻し始めている。しかし、自由という正義を振りかざし、民主主義と市場経済を押し売り、搾取を繰り返して肥大化した帝国を止めることはできない。

 今、彼らの最大の敵であるイラクのサダム・フセインを支援し、彼に権力を与えたのは、他ならぬアメリカだったではないか。

 自由という理想では、平和を築くことはできない。

 このパラドックスに気づいている者がどれだけ存在するのだろうか。しかし、この大いなる矛盾こそが、戦争を望むバーサーカーたちにとっては、真の意味での理想郷なのかもしれない。人間の皮を被った狼たちにとっては……。

 これも後遺症か、と開戦の話題一色に染まった平積みの雑誌を眺めて彼女は溜め息をつく。最早、戦争そのものに異議を唱える者は誰もいない。

 ふと、棚の端にある雑誌を見て、彼女は微笑んだ。

 その表紙にはこんな見出しが踊っている。

 ――ルーマニア革命は仕組まれたのか――

 ヘイ・ジュードのメロディーが聞こえた。



 Berserk

 ――美しき理想を纏った狂人たち

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