ウロボロス

 暗い。

 落ちて仕舞いそうなほど暗い。

 足が竦みそうなほど暗い。

 吸い込まれる様なほど暗い空を眺めている。瞬く星も、輝く月も無く、吸い込まれそうなくらい、黒い空。頭上に存在する奈落。人はそれを只の闇だと言う。けれど、その闇が堪らなく美しいのだ。そんなことを言っていた。何故美しいのか、僕は理由を尋ねる。すると、いつも決まった答えが返ってきた。


 ――これが空の色だから。


 それ以外の答えを知らないかのように。否、知らないのだ。僕らは此処で生まれた世代なのだから。白い雲が浮かんだ光輝く青い空というものを、僕らは小学校の理科の教科書の中でしか見上げたことがない。

 いつからだろうか。それが当たり前になったのは。

 昔は、本当の空を知っている人も多かった。昔と言ってもそれほど大昔のことではなく、ほんの一昔前。そう、半世紀前の噺だ。しかし、時の経過と共に貴重な証言者は老いて死を迎え、本物の空が頭上に存在し、その純真な青さを知る人も現在では極僅かとなって仕舞っている。空を知らない子どもたちは、真っ暗な孔を見上げて言うのだ。

 アオイソラ。

 それは御伽噺だと断言していいのかもしれない。

「本物の空を見たくない?」

 僕の隣で彼女がそう訊く。

 琥珀色の瞳が上を向いていた。少し高い鼻筋の、その先にあるのはあの闇。真っ白な肌を非常灯が緑色に縁取っている。

「どうやって?」

「きっとあるはずなんだよ。外部への扉が」

「無理だよ。上の方は汚染が酷いし……。それに、行くためには許可が無いと」

 僕がそう言うと、彼女は何も言わなくなる。

 そして、小さな溜め息をつく。それが、夢の無い答えだということは、僕も解っていた。けれど、彼女を傷つける答えだということは、まだ知らなかった。二人きりの空間に後味の悪い沈黙が広がる。暗い『天井』を見上げながらこの会話を交わすのが、僕らの囁かな日常だった。彼女には冷たく言ってしまうけれど、僕にだって本物の空を見たいという気持ちはある。彼女は青い空が見たいと言うけれど、僕は眺めるなら夜空の方がいい。まだ幼い頃、両親に連れられて行ったプラネタリウムの満天の星空は、今も鮮明に記憶している。それは昼間に見える偽りの星たちだったとしても、紛い物の空だったとしても、あの時の僕は、世界を美しいと感じたのだ。

 あの星たちの無限の、無数の輝きを、僕は忘れ得ぬだろう。

 白く、細長い腕を天井に翳した。彼女の悲しげな瞳が、か細い指先を映す。

「見飽きたんだ。絵も、写真も、映像も、プラネタリウムも……。確かに、どれも綺麗だけれど」

 ――結局、それは人の創り出した美しさにすぎないんだよ。


 まだ僕たちが学生だった頃の美術の時間。彼女は空の絵ばかりを描いていた。青い空の絵ばかりを。真っ白なキャンバスに、青い絵の具を塗りたくって。白い雲と青い空。彼女の描くその絵が、あの空が僕は好きだった。堪らなく、青かったから。それは、溶ける様に。吸い込まれそうな、空。

 ある時、実際に空を見たことのある年輩の教師が彼女の描いた空を眺めて、本物にそっくりだと褒めた。それを聞いた彼女は嬉しそうに微笑んでいた。でも、その後、僕と彼女だけになった教室で、彼女は自らの絵を破り捨てた。

 こんなのフィクションでしかないんだよ――

 悔しそうに微笑んで。パラパラ、と青い空の断片が白い床に散らばった。冷たく白い蛍光灯の下では、どんなに青い空も只の紙でしかない。

 この真っ暗な天井の遥か上。そこに彼女の夢が在るのだろう。

 空と云う夢が。ヴィジョンではないリアルが。

 上層へと続く階段の踊場。薄暗いこの場所に、二人で並んで座って、彼女と語り合った。この場所が好きだ、と彼女は言う。空の匂いがするから、と。

 見上げれば、緑色の非常灯に薄く浮かび上がる、幾重にも折り重なった鉄の階段が存在する。その先は闇の中へ消えていて知ることができない。この階段を昇った先に空は存在しているのだろうか。ふと、隣の彼女を見る。彼女は琥珀色の瞳に闇を映していた。永久に続くかのような、途方もない闇を。

 昔、地上には緑が溢れていたと謂う。信じがたい噺だ。彼女が見つめる闇の上、僕らの頭上に緑色の大地が広がっていたなんて……。

 それこそ御伽噺――フェアリー・テール――のようなものだった。

 

 モニターの青い光に晒された暗い部屋に置かれた。碧い地球の断片。

 水槽の中で優雅に泳ぐ熱帯の色彩を纏った魚たちを見つめながら、彼女は微笑んだ。

「昔はこんな世界があったんだよ」

 光合成によって水草は酸素を生み出し、酸素によって魚たちは生き、魚の出したアンモニアや排泄物を微生物が分解し、それを水草が吸収する。そんなサイクルが幾つも連なって、昔の世界は構成されていた。長い進化の歴史の中で精巧に、着実に積み重ねられた奇跡とも言える生命の循環。ウロボロスに象徴される再生と破壊の輪っか。

 しかし、人はその輪っかを破壊する術を手に入れた。

 そして、惜しみなく、駆使した。

 すべてを灼き尽くす原始の焔は僕たちから世界を奪い去った。

 すべてを破壊する原子の光は僕たちから自由を奪った。

「でも、もうこれはここだけにしかないんだろうね」

「そうかもしれないね」

「ねえ、知ってる? 汚染された水は青く光るんだって。詳しくは知らないけどさ。この世のものとは思えないほど青く……」

 彼女が南国の色彩に微笑みかける。「綺麗に、ね……」

「知ってるよ。その水の中じゃ僕たちは生きられないってことも」

「夢みたいな噺だよね、水槽の中の世界はこんなにも綺麗なのに」

 そう言って、銀色の髪を指に巻く。無機的な白い天井が威圧的に僕らを隔離していた。そこが彼女の仕事場だ。無表情で、退屈そうにデスクに向かう彼女に、僕は紙コップに入ったコーヒーを差し出した。彼女のか細い指先が、それを掴む。

 ありがとう、と短い返事。

 地表に住まうことが困難になると、人類は地下に潜り、穴を掘り始めた。

 生き延びるための、種を残すための、たったひとつの逃げ場を求めて、ただ直向きに。彼らにはそれしか選択肢はなかったのかもしれない。しかし、それが齎したのは暗い空。地下六万九千七百二十六フィートにまで達する巨大な穴。その最下層では未だに更なる地下への掘削が行われている。きっと、昔の人類から見れば、夢みたいな噺なのだろう。それこそ、御伽噺のような。

 人類は地球の深奥に新しい空を見出だそうとしている、なんて……。

「見たかったな……、青い空」

 アオイソラ、という言葉を最近の彼女は口にすることが増えた。何故だろう。その言葉の中に切望と、一握りの諦めを感じる時がある。

 そんな彼女に僕は、慰めのような言葉をかけることしかできなかった。

「いつか二人で見よう。目の醒めるような青い空を」

 小さく彼女は頷いた。


 彼女が倒れたのは、それから暫く経ってからだった。

 仕事中、大量の血を吐いて彼女は病院へと運び込まれた。銀縁の眼鏡を曇らせ、医者は告げる。余り長くはもたない、と。それを聞いた時、僕の中に絶望が広がった。彼女が患ったのは、人類が地下のシェルターに籠もって、暫く経って発症したまだ治療法の無い病。そう告げられて初めて、彼女が死ぬんだって自覚した。

 いつからだろう。いつから、隠していたのだろう。

 気がつけない程、彼女は嘘が上手かったのだ。そう、思いたかった。

 そう思うことでしか、自分を許すことができなかった。彼女が倒れてから暫くは、いつもの日常に戻ろうとしても、彼女のことを思い出す度に、涙が溢れた。

 真っ白な空間に横たわる彼女は痛ましいほどに美しい。白いシーツの上。点滴のチューブが躯中に刺さり、人工呼吸器からは弱々しい吐息が漏れる。琥珀色の瞳は閉ざされたまま。無機質な電子音が、無表情な彼女の鼓動を伝えている。

 それから何度、僕が病室を訪れても彼女は無機的に横たわっているだけだった。

 白くか細い手を握って、彼女の顔を見つめる。


  ――夢みたいな噺だよね。青い空なんて。


 彼女の言葉が僕の中に満ちていく。そして、溢れて、零れ落ちた。ポタリ、ポタリ、と。それは真っ白なシーツに斑点を描いてゆく。いつだって、彼女はそれを望んでいたはずだ。僕が諦めていただけなのかもしれない。彼女の机の上には、いつも青い空の絵が飾られていた。バラバラになったはずの、あの空が。いつも僕が諦めさせていた、彼女の夢。

 けれど、僕は彼女と一緒に居られるのなら、空なんて無くて良かった。それが、空を失った僕らに与えられた小さな幸福だと思っていた。

 人工呼吸器の中の、薄紅色の唇が微かに動いた。

 空が見たい、と。そう告げたような気がする。僕の中の何かが、軋みながら外れ、真っ白な床に転がった。カラン、と乾いた音を立てて。

 僕は彼女を抱きかかえた。

 白いシーツで彼女を包んで、走り出していた。

 困惑する医者や看護師の制止を振り切って、病院から飛び出す。振り返ることなく、複雑に入り組んだ居住区の中を駆け抜けた。この腕に彼女を抱いて。

 そうやって、僕らは空を目指した。闇へと続く階段を駆け上がった。いつも彼女と二人、夢を語り合ったあの暗い踊場から、飛び出して。

 この先に青い空が在ると、そう信じて。


  ――誰も見たことがないんだよ。だから、誰かが確かめなくちゃ。


 そう、本当のことなんて、わからない。

 一歩、踏み出す度に甲高い金属音が響く。息が上がる。そして、躯が重くなる。額に滲む汗が頬を伝って落ちた。どれだけ昇れば、地上に辿り着けるのだろうか。この先に在るはずの空を、僕らは見ることができるのだろうか。

 そんな自問自答の中で、幾度もくじけそうになる脚を、彼女の思い出が支えてくれた。

 上へ上へと上がる度に、空の匂いが強くなる。そんな蜃気楼を垣間見た。これまで僕らが想い描いてきた幻視の空ではなく、彼女が復元してきた追憶の空でもない、実像の空がこの先に存在する。そう思うと、鼓動が早くなった。

 非常灯の緑色の光を何度も通り過ぎてゆく。

 どれだけ昇ったかなんて覚えていない。しかし、はっきりと空気の流れを感じた。

 見上げた先に小さな光を見た。夢中で駆け上がった。その一点の光を目指して。

 遂に、僕らの夢が手の届く場所に、すぐそこに見える。

 この階段の終わりに、扉があった。あの光は、その小さな窓から洩れていた。古い鉛の扉の隙間からも、微かな光が零れている。抱きかかえていた彼女を背負い、呼吸を整えることも忘れ、頭上の扉を押した。重く重厚な扉は鈍く軋みながら、光を広げていく。さらさらとした砂のようなものが、隙間から落ちて顔に掛かる。それを振り払って、そして、一気に扉を押し開けた。


  ――私に空を見せて。


「見えるかい?」

 彼女は答えない。何も言わない。

 背負っていた彼女を大地に下ろす。僕らの空だった場所に。緑色の天井に。彼女の瞳は閉じられたままだった。彼女を覆う白いシーツが風に靡いている。

 僕は再び空を見上げた。

「君の見たがってた空だ。蒼い空だよ。雲もある。太陽だって……」

 風が躯を通り抜けていく。微かな陽光の温かさを初めて感じた。絵にも、写真にも、映像にも、プラネタリウムにも無い、温度を。

 それは今まで暗い穴の中で生きてきた僕にとって眩しすぎるものだった。

「見たいって言っただろう。なあ、二人で見ようって」

 今、願うのは彼女の瞳が開かないこと。僕の腕の中で安らかに眠る彼女が、二度と目を醒まさないこと。それが偽りの空でも、彼女の記憶の中にそれを留めて起きたかった。

 どうか、夢は夢のままで……。

「空って、どうしてこんなに綺麗なんだろうな」

 つくづく嘘が下手だな、と自分を笑った。

 視界に広がる空。

 蒼い空なんて、とっくの昔に失われていたんだ。それこそ、御伽噺になって仕舞ったんだよ。

 でも、確かに空は存在した。その事実さえあれば、僕にとっては十分かもしれない。僕はこの事実を伝えなければならない。それが僕の仕事だ。風にも匂いがあって、大地は暖かくて、世界はこんなにも光に溢れていて……。教えられていたほど、この世界は恐ろしくない。

 深く、息を吸い込んだ。

 初めて見た空。

 それは灰色よりも黒に近い雲で覆われた、僕らの夢。


 Uroboros

 ――生命の理は深淵にて廻る

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