エキドナの匣庭

イオリミヤコ

リヴァイアサン

 先ず、私が最初に示したことは、神への信仰無き状態――それは自然状態と呼ぶべきか――は“万人の万人に対する闘争”でしかなく、その闘争に於いては、万人がすべての権利を有する。

 其れを以下に証明する。


 彼は丘の上を見上げる。

 其処は、海の見える家だった。

 街灯の光へと集まる虫の羽音が、夜の静寂の中で耳についた。青い光に魅せられ、燃え墜ちた死骸を踏みつける。甲殻の砕ける、乾いた音がした。粉砕された亡骸は丘から吹き降りる生ぬるい風に流れてゆく。千切れた薄羽がくるくると廻った。黒いアスファルトの上には白濁した体液が残るのみ。

 丘の上へと続く登り坂を彼は歩いていた。

 潮騒は遠く。街外れの淋しい石畳に響く靴音はひとつ。彼は件の建造物を見上げた。夜の背景に薄く浮かび上がる青白い巨大な体躯に、とろりと赤い目玉が光っている。ケルトの伝承に名を連ねる巨大な水棲獣の不気味な肖像を見たような気がした。近づくとコールタールのような黒々しい体色の、濡れそぼった体躯が月光に縁取られる。

 怪物の足元、静まり返った洋館の、大理石の敷かれた玄関先に立つと、彼は呼び鈴を鳴らす。月光は、白い大理石の床面を更に白く染め上げていた。漆黒に嵌め込まれた、あの月面の様に。

 鍵を開ける音がした。

 軋む音と共に、真っ白で細い女の腕が、月光と常闇の境界線を超える。豪勢な装飾――不気味な多頭竜やクラーケンや大蛇の姿があった――の施された重い扉はゆっくりと開かれた。

「久しぶりね」

 闇の中から声がした。

 闇が言葉を話したようにも思えた。

「さあ、どうぞ。入って」

 彼女の声に誘われて、彼の爪先が、闇の縁へと消えてゆく。


 シャンデリアの光が淡く照らすテーブルの上にアイスコーヒーを。その脇には甘いシロップと濃厚なミルクを。グラスに纏わりついた水滴は滑り落ちて、メデューサの描かれたコースターに染み込んでゆく。黒く重厚なテーブルで、向かい合わせの彼と彼女。

 ゆっくりと室内の中を見回して、彼は言った。

「随分と古い家に住んでいるんだな」

「不気味でしょう? 遺産なのよ」

「遺産って言うと、君のお父様のかい?」

 彼は頭上の煌びやかなシャンデリアを見上げて、「まあ、確かに古風だけれど、僕は趣が合って良いと思うよ」

「ありがとう。でも、この屋敷は祖父の時代から」

「そうか、なるほど。そう言えば、君のお祖父様も医者だったか。君は三代目という訳だね」

「ええ。そうね」

「最近は、此処に籠もって研究を?」

「ええ。静かだから。あまり人も訪ねて来ないし」

 それに……、と彼女は続ける。

「海が見えるから」

「確かに、晴れた日は素晴らしい眺めだろう。それにしても随分と熱心な研究のようだね。その見せたいものっていうのは……」

「私よ」

 背後から、彼女の声が聞こえた。

 振り返ると、彼女がいた。それは、白い壁にもたれ掛かって、ひらひらと彼に向かって手を振っている。一目では、何が起きているのか、信じられなかった。時が、一瞬、止まったような衝撃を、彼は飲み下す。恐る恐る眼球が転がった。ならば、今、テーブルの向こう側で、妖しく笑いながらグラスの水滴を指でなぞっているものは……、何だ。

 古い空調装置の稼働音が、やけに重く響いた。オレンジ色の光を灯した漆黒の瞳が銀色の髪の間から彼を覗く。

「どうかしら。完璧でしょう?」

「君は、双子だったのか……?」

「いいえ、造ったの。彼女は私自身よ」

 如何にも彼女好みの、悪い冗談だと思った。

 だが、流石に彼女の研究の成果が一卵性双生児の片方だとは思えない。随分と長い間、大学の研究室に現れなかったのだから……。しかし、彼女をクローンだと言うのならオリジナルとの年齢のギャップがあるはずだ。あれはどう見ても彼女そのものだ。有り得ない。それにクローン人間を造るなど、常識を逸脱している。

 椅子から立ち上がり、後ろの彼女を指差し、彼は語気を強めた。

「あれを造ったと言うのか? 君は、自らのクローンを、自分で? 冗談だろう?」

「クローン、ね」

 彼女はコースターの縁を濡れた指でなぞって、「……そうね。今の化学ではそう言った方が正しいのかしら」

「それは、一体、どういう意味なんだ? 彼女は君の妹か姉ではないのか?」

 彼がそう問い掛けた時、テーブルの向こうで俯いていた彼女の唇が吊り上がった。断頭台に押し立てられた魔女の様に、すべてを見透かしているかの様に、空虚に……。

 彼は寒気を覚える。彼女の笑顔はあまりにも、悪魔的だった。

 その微笑みを垣間見た時、巨大な渦に飲み込まれて仕舞うような感覚に襲われた。

「調べてみる?」

 すぐ後ろで声がした。振り返ったそこには、無表情で彼を見つめる彼女の昏い瞳があった。彼女は一本の銀色の髪を指に巻いて引き抜くと、彼の前に差し出す。シャンデリアの光を反射して、その髪は金糸の様に輝いている。

「指紋も提供しましょうか」

 今度は前から……。彼女の滑らせたコースターが彼の前で止まった。

 黒いグラスの中で氷が鳴く。


 十九世紀から着実に進歩を続けていたクローン技術は、植物や両生類などでの応用には成功していたが、一九八一年まで、哺乳類での成功例は一度も無かった。この年、哺乳類の受精卵からクローンを作り出すことに私たちは成功する。クローン化された最初の哺乳類は羊だった。後の、一九九六年七月には史上初の体細胞を使った最初のクローン羊がイギリスで誕生する。この個体はドリーと名付けられ、世界から注目を浴びた。この快挙に続くように、その後も猫や犬、馬、山羊など多くの哺乳動物でクローン作成の成功例が報告される。

 体細胞からクローンを作るとは、一体どういうことだろうか。

 これは人工受精と言うよりも細胞分裂に近い。一般に有性生殖の場合、子は親である雄と雌の遺伝子を受け継ぐ。このため、子は両親のどちらともの遺伝的特徴を持って生まれてくる。体細胞を使ったクローンの場合は無性生殖となり、子には親の遺伝子的特徴がそのまま受け継がれるため、有性生殖のような偶然の組み合わせによる生命の多様性はなく、同じ親から産出された個体はすべて同じ遺伝子特徴を持つことになる。印刷機にオリジナルを入れて大量のコピーを刷るという行為が、生物でも可能となるのだ。

 これを機に、世界中でクローンについての議論が巻き起こった。人間が自然な生殖の轍から外れることへの恐怖と嫌悪は、至る所からアレルギー症状のように噴出した。遺伝子を操作することは自然を人間の都合の良い形に変化させることと同義である、というのが彼らの言い分だ。それは進化と呼んで良いのかもしれないが、クローン技術が生命の長い歴史の中で受け継がれてきた『聖杯』に傷を付けることに繋がると見る者も未だ多い。

 そして、解決しなくてはならない問題が幾つか存在する。


 ――クローン技術によって生み出された人間に人権はあるのか。――


 これは難しい問題である。一言にクローン人間と言っても、オリジナルと全く同じ人間ができるとは限らない。クローン猫の毛の模様がオリジナルと違ったように、受精卵の時点では遺伝子情報のどの要素が現れるかは完全にランダムなのだ。つまり、指紋や虹彩もオリジナルとは異なる場合がある。しかし、これは完全な別人ということではない。オリジナルが存在するからには、それはコピーなのだ。コピーに人権を認めても善いのだろうか。その個体が複製である以上、同じ人間が二人以上存在するという状況は生まれる。この状況を認めることができるほど、我々の社会は成熟していない。

 また、クローン人間を作る目的も問題だ。自らのコピーなのだから、その臓器を移植しても拒絶反応が起きる可能性は殆ど無い。まさに完璧なスペアだ。しかし、それではクローン人間のアイデンティティとはオリジナルの生命維持のために生きることであり、クローン人間を人間であるとするなら、スペアからパーツを取り出すことは殺人行為や人身売買とも受け取れる。何にせよ、自分のためだけに存在する人間を作り出して飼育するというのは、あまり気持ちの良いものではない。この嫌悪感は、やはり強い。この線引きが難しい精神的な問題がクローン技術の進歩を抑止する力となった。

 その一方で、技術面では深刻なエラーが報告される。

 人間の老化は遺伝子の劣化に原因があると言われている。これは、遺伝子の末端に位置し、染色体の塩基情報のプロテクトを担う――人間の場合はTTAGGGの塩基配列からなる――テロメアが擦り切れることにより、細胞の分裂が停止するためだ。つまり、老化を防止するにはテロメアの延長が絶対条件と言える。しかし、クローンによって誕生した個体は、どれもオリジナルと比べてテロメアが短かったのだ。テロメアが短いということは、細胞の分裂回数が少ないということになり、これは必然的に短命であることを指した。クローン羊のドリーも誕生から六年と七ヶ月後には死亡してしまう。たった一例だけを見て言えることではないが、羊の平均寿命が十二年程度であることから比較して、彼は短命であったと言える。他の実験動物でも、クローン技術によって造られた個体はオリジナルよりもテロメアが先天的に短いという欠陥を改良できていない。事実、人間から取り出して培養した細胞はテロメアが短いのだ。これがクローン技術を人間に応用することへの技術的な抑止である。

 理論上、崩壊したテロメアはテロメラーゼ――配列パターンAAUCCC――という酵素を投与することによって再生が可能である。しかし、このテロメラーゼによるテロメアの再合成は、半永久的に老化しない細胞をも作り出して仕舞う。ガン細胞だ。テロメラーゼを過剰に投与され、必要以上に延命された細胞は時として染色体に異常をきたしてガン化する。そう、細胞分裂を繰り返す内にテロメアが短くなるというプログラムは、私たちにとって生きてゆく上で必要なものなのだ。これによって細胞は老化し、分裂を止め、死を迎えることでガン細胞となることを防いでいる。一度、正常な細胞がガン細胞と化して仕舞えば、それは異常な速度で分裂を繰り返し、急速に人体を蝕んでゆく……。

 私たちが永遠の生命を手にするためには、これらの障害を取り払わなければならない。


「信じられない」

 蛍光灯の光に晒された白いカルテを見つめながら彼はそう呟いた。テーブルの上では銀色のマグカップに入ったコーヒーが白く湯気を立てている。彼女は彼の向かい側で顕微鏡を覗いていた。

「DNAも指紋も一致しているなんて……」

「ついでに光彩も私と同じよ」

 そして、信じられないことに記憶さえも共有している。最早、あれはクローンなどと云う代物ではない。これでは……。

「まるで、コピーだ」

「それが欲しかったの。私は、私という存在そのものを愛したかったの」

「自分が何を生み出したのか、君は理解しているのか?」

「ええ。私よ。完璧な私」

「これは、世界を変えるほどの成果だ。だが、それは人間の踏み込んでいい領域じゃない」

「どうして? 何故、化学の進歩に聖域なんてものがあるのかしら。あなたにしては、珍しく感情的な意見ね」

「そう。僕たち化学者は神にもなり得る。だからこそ、化学者は倫理観を失ってはならない」

「倫理観、ね。あなたの口からそんな言葉が聞けるなんて、不思議だわ」

「僕も人間だ。最低限の分別は持ち合わせている」

「人間とは、何なのかしら。思考すること? 言語を持っていること? 感情をコントロールできること? 道具を使えること?」

 人間とは何か。

 それは古代より多くの哲学者たちが挑んできた難問だった。まだ脳の機能が解明されておらず、堅い頭蓋骨の内側に収まっていたそれが脂肪の塊でしかなかった時代。かのピタゴラスは『魂とは人間だけのものではなく、動物にも宿る。』と輪廻転生を叫び、アテナイのソフィストの一人であるプロタゴラスは『人間は万物の尺度である。』と表現した。十六世紀に入ると、デカルトは『吾思う。故に吾在り。』という言葉を残し、パスカルは人間を『人間はひとくきの葦にすぎず、自然の中で最も弱いものである。しかし、考える葦である。』と述べた。人は思考するが故に人であるのだろうか。


 我々は何者なのか。

 何処から来たのか。

 そして、何処へ行くのか。


 一七三五年、スウェーデンの植物学者カール・フォン・リンネが著書『自然の体系』の中で、人間を生物の一種として別の生物とは区別し“ホモ・サピエンス”という学名を与える。

 二十世紀初頭、人間の持つ脳という機関に対して医学のメスが入る頃、フロイトはその脂肪の塊の中に精神――或いは『心』――を見出す。人間の心という機能が、心臓から脳へと移った瞬間であった。ここで初めて、フロイトによって人間以外の動物にも感情というものが存在することが証明された。そう、動物も思考するのだ。人間という存在にこそ許されていたとされるものが非人間にも存在する。ならば人間とは、一体、何なのか。

 その日から人間という存在の定義を人間は改めて考え始めた。しかし、今日までに誰も真理へと辿り着くことは叶っていない。今も、それは永遠の命題として、私たちに深く刻まれている。

 そう、つまり――

「人間が、人間であるための定義は存在しない」

 彼は、力無く呟いた。

 人間の定義を限定すれば、その定義から外れるものは人間ではないという結論を導く。それは、人間ではないのだから駆除して構わない、というような邪悪な思想の肯定にも繋がる可能性を持っている。階級社会や奴隷制度、人身売買、ホロコースト、民族浄化など、歴史から省みても、そのような思想は悲劇しか生み落とさない。それこそ、何もかもを呑み込む巨大な怪物の出現を黙認することになるのだ。

 しかし、そうだとしても、今、目の前に実存する二人の彼女の存在を認めて善いのだろうか。それは、今日までの我々の人生観を根底から覆すことになって仕舞うのではないか。死が人間を動物の領域に留める最後の鎖であるとしたなら、死を超越することは人間をまた別の次元の生き物に変えて仕舞う。

 それは許されるのか。その事実を私たちは受け入れられるのか。

 彼は、その疑問と戦いながらも問い掛けた。

「だが、僕も君も人間であることには変わりないだろう?」

「それならいいじゃない。彼女はすべてを持ち合わせているわ。言葉も、思考も、感情も」

「個体としてのアイデンティティは?」

「私であること」

「それが問題だと言っているんだ。君は、君を造ったんだぞ」

「一卵性双生児と、私たちと、どこが違うのかしら?」

「試験管の中で生まれ、生理電解質と粘性多糖類の混合溶液の中で育ったあれが人間なのか」

「神は六日間で人間を造ったのよ。そして、その肋骨から女性を造った」

 彼女は、ゆっくりと立ち上がり窓際へと歩いてゆく。そして、黒いカーテンを捲って、夜景を灯した黒い鏡を見つめた。長い銀髪の細身の女性がそこに映し出される。

 聖書の一説にはこうある。


『我々を象り、我々に似せて、人をつくろう。そして、海の魚、空の鳥、地の獣、あらゆる家畜、地を駆けるすべてを支配させよう。』

 主なる神は御自身を象って人を創造された。

 主なる神に象って創造された。

 人は、あらゆる家畜、空を飛ぶ鳥たち、海を泳ぐ魚たち、野山を駆ける獣に名をつけた。しかし、自らに合い助けるものは見つけることができなかった。 そこで主なる神は深い眠りの中へと人を落とされた。人が眠り込むと肋骨の一部を抜き取り、その傷痕を肉で塞がれた。そして、人から取り出した骨を使い、主なる神は女を造り上げられた。

 主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。

『ついにこれこそ、私の肉の肉、私の骨の骨。これこそイシャーと呼ぼう。まさにイシュから取られたものだから。』


「創造主の行いと何が違うって言うのかしら。単純に言って仕舞えば、これは細胞分裂と同じことなのよ?」

「君は神ではないだろう。神だからこそ、許される行為もある」

「神になってはならない道理はないわ」

 彼女は問う。「……というより、神とは何なのか」

「概念だよ。時間という概念と同じように、絶対的に見える考え方の基盤だ」

「――概念? つまり、実存しないと言うことね」

 実存はしないが、存在はする。そのような曖昧なものを、倫理や道徳、そして、理性の象徴とするのならば、何故、人は神になろうと思わなかったのか。

 糸車によって紡がれてきた神話というタペストリーを掲げることに、最早、何の意味があろうか。彼らが崇める神というものが、裏返して見ればただの布切れでしかなかったとき、それは伝統的な芸術作品という領域にのみ収まるものではないか。神の存在が人間にとって只の歴史となった瞬間、我々が見据え、謎に挑み、直向きに突き詰めてゆくべきは、人間という種についてではないか。

 彼女は、銀色の髪を細く白い指に巻いた。

「そんなものが必要なのかしら」

「確かに実存はしない。しかし、君は実存しない概念の存在であるべき神になろうとした。それは人間のやって善いことではない。人の運命は神が思考すべき問題だ」

「私たち自身のことなのに?」

「人間だけではない。地球上の生命が平等に死を迎えるんだ。その調和を崩すことは、我々人間には許されない」

「どうして? 人間は地球を破壊するだけの異分子ではないのよ。人間はこの世界の中で唯一、この有機体の塊である星を改良することのできる存在なの。それを神と呼んで、何が間違っているの?」

 これまでの世界が、神という存在に対しての服従であったのならば、人間が望むものを世界として実現させようとし、人間自身が望む形へと世界を変えることが、どうして悪と言えようか。神に反する行為としてそれが咎められるのであれば、ありとあらゆる分野に於いて、得体のしれない恐怖によって制限と抑圧をもたらし、我々を妨げる神の御名は、最早、リヴァイアサン――怪物――の言い換えでしかない。

 秩序のために神や信仰心という概念が生み出されたとしたら、それは今の社会には必要ない。我々が我々のために造り出したものに、最早、神の権威など存在しない。

 何故なら、創造主とは常に我々なのだから。

 ダーウィンの進化論では、人間という種の進化をすべて解き明かすことが不可能であるように、犬という種の進化についても不明な点が多い。古来より、否、人間が存在した頃より我々と共に生きてきたであろう彼らにとっては、人間という存在こそが神と言えるのではないか。 彼らは私たちに寄り添い、私たちに導かれて生きてきた。

 即ち、彼らにとっての神とは人である。

「問題をすり替えるな。我々から理性や倫理を司る神というリミッターを取り外したらどうなるか解っているだろう」

「悲劇、なのかしら。それは……」

「人間は人間であるべきだ」

「もう、素直に言えばいいじゃない。私の才能と、私の成果と、私の愛するもの、そう、すべての私に嫉妬してるって」

「嫉妬? 僕が?」

「ええ。あなたは私のことが好きなのでしょう? 羨ましいのでしょう?」

「そんなわけないだろう? 君はただの同僚で、友人だ……。それ以上の感情は……、持っていない」

「でも、いつも見ていたじゃない? 私の瞳を、私の動作を、私の身体を、私のことを」

 彼女を後ろから抱き留めた。そして、互いに舌先を絡め合う。うっとりと彼女は目を細めた。そして、彼女は妖しく笑いながら言う。

「私としたかったんでしょう? こういうこと」

「僕は……」

「でも、ごめんなさいね。私は私が好きなの」

「……僕は失礼するよ」

 彼は椅子から腰を上げて、鞄を掴んだ。

 軋みながら閉まるドアを見つめながら、二人は微笑み合って、口付けを交わす。


 ベッドサイドは蜩の声に揺らめいていた。ノーブルな黒い下着姿の彼女に、私は白い腕を絡ませて、ブラジャーのホックを外した。するり、と指先がショーツを撫でる。吐息は熱となって、空気と同化した。

 淡い光を放つ電球の下、白い肉体に波打つ肋骨を赤い舌でなぞる。

 みずみずしい光沢を放つ形の良い唇が微かに喘いだ。しっとりと、夜霧のように、汗は白い肌に纏わりつく。長い指が、乳頭を爪弾いた。快感に震える人魚のネイルアートを施した指が白いシーツを掴んだ。

 彼女の体の上で、鎌首を持ち上げた私と全く同じ顔の彼女が微笑む。

「綺麗ね」

 舌は脇腹を通って、臍の方へと落ちてゆく。うっとりと私は目を細めた。生温かい舌の温度は、臍を通って、下腹部へ。敏感な部分に舌先が触れる。

 か細く、甲高い喘ぎ声が僅かに漏れた。

「良い匂い。自分なのにね。自分だからかしら。甘いような、酸っぱいような、それで少し生臭いわね」

 顔を赤らめる自分に私は言う。「あら、恥ずかしいの? でも『人間だけが赤面できる動物である。或いは、赤面する必要のある動物である』とマーク・トウェインも言っているわ」

「そういうことは言わないで……。だって私は私じゃない?」

「そうね。手に取るように解るわ。次にして欲しいことも」

「まだ駄目……」

「嘘つき」

 白く長い指が、体内へと吸い込まれてゆく。冷たい指先が、私の中へと入って来る。彼女が指を動かすと“私”の呼吸が荒くなる。引き抜かれる感触に思わず身震いした。

 彼女が私の腕を掴んだ。

「今の私、とっても人間らしい顔しているのよ」

「……本当に?」

「気持ち良いでしょう?」

「ええ。とっても」

「もっと声を出していいのよ。もっと快感に震えて、愛しい私」

「私だけじゃ恥ずかしいわ」

「もう、仕方ないわね……」

 するり、と指を抜き、粘液が絡まってコケティッシュに艶めく指を指先を舐める。

 美味しい、と微笑んで、黒い下着を脱ぎ、彼女は身体を反転させた。鼻先に当たるくらいの距離。彼女の匂いが強くなる。

「さあ、これでお互い様でしょう?」

「ええ。よく見えるわ。私のいやらしいカタチが」

「いやらしい匂いが強くなったわ。期待してる?」

「ねえ、幸せ?」

「私が一番よく知っているでしょう?」

「そうね」

「だから、幸福を感じているの」

 互いの秘部を舌が這う度に、オレンジ色の光の下に、淫らな喘ぎ声が響く……。


 白いレース生地のカーテンが、風に靡いた。窓の外からは蛙の鳴き声が規則的に流れてくる。彼はコーヒーのカップを持ち上げた。

“唯一、確実な未来の可能性は死である”

 かの哲学者ハイデッガーはそう述べた。

 生物を生物として存続させるものが生命であるとすれば、生命とは永遠のものではなく、必ず終わりが存在する。アリストテレスも『死は一種の希望であって、夢を見ることのない眠りである。』と述べている。

 我々にとって死とは、必ず存在する結末であり、約束された未来だ。それを悲劇と捉えるか、それとも幸福と捉えるか。絶対的な死の存在に比べれば、それは些細な違いでしかない。依って、死後の世界などという報われない者たちが好みそうなポジティブな考え方の一切を私は拒否する。

 また、死という概念についてエピクロスはこう述べている。

『死は、我々には無関係なものである。我々が存在している状態ならば、死というものは存在しない。そして、死が存在しているのであれば、我々は存在し得ない。』

 人間は死を迎えると、肉体が滅び、朽ちて、喪失する。それだけであるのだから。死とはもっと単純なものかもしれないのだ。魂という馬鹿げた妄想は其処には存在しない。

 海へと沈みゆく夕陽の下で顔を曇らせながら、彼は呟いた。

「これは、死の論理すら超越する行為だ」

「死の論理ね。随分とくだらない幻想だけれど、それがどうしたというの?」

「死とは美しく、誰しもに平等だ。君はこの僕らが生物である故の芸術性を破壊している」

「――芸術は破壊の集積である。ピカソの言葉よ。死を芸術というのならば、それを破壊する不死も芸術であることには変わりないでしょう?」

「君は、そこまでして死を否定したいのか」

「いいえ。私は私を愛したいのよ。古今東西で試みられてきた、あらゆる方法でね。その副産物が、死の超越だっただけ。死なないという選択肢が人類にはもたらされた。それだけのことでしょう?」

「それが問題なんだ。こんなことを言いたくないが……。君は狂っている」

「あなたに言われたくないわね。あなたは殺すことにしか興味を持たないじゃない。私の価値観から見れば、それも狂っていることに変わりないわ」

「貧しい者も富める者も、或いは罪人も、安楽死という救済だけは平等に選ぶことができる」

 巻き煙草に火を点けながら彼は言う。「それを最良の治療方法だと言って何が悪い」

「永遠という時間を生きられるほど人間は賢くない。死ねないのならば、死を与える者が必要だ」

 そう、人間が存在する上での、存在すること自体の苦しみを絶望と呼ぶとしたら、絶望とは生きることに値しないということになり、死しか道は残されていないが、その死という選択肢さえも絶たれている状態こそが本当の意味での絶望なのかもしれないのだ。

 紫煙を吐き出す。

 それに……、と彼は続けた。

「人間が人間を殺すのは、極自然な行為だろう」

「ええ。そうね」

 何故、人間を殺してはいけないのだろう。

 人間に、言語や思考などの機能が備わっている以上、私たちは社会の中で生きる生物である。個として生活をするより、群となって生活をする方が食料の確保も生命の防衛も容易だからだ。人は群を形成することで今日まで生き残ってきた。その群がやがては社会を形成する。この枠組みの中で生きる以上、私たちには秩序が必要である。社会性を持つ人間にも欲求があるし、自らを律して生きると言っても理想的ではあるが限界は生じる。お金が欲しい、権力が欲しい、愛されたい、愛したい……。秩序無き社会は、たった一人の身勝手な欲望で見事に崩壊する。たったひとつの亀裂が巨大なダムを決壊させる様に。そう、たった一件の殺人を容認することは、人間という種の存亡そのものにも関わってくる。

 文明が発展するにつれ、経済という概念も確立された今日では、人間は存在している時点で経済活動を行う。人間が増えれば経済は大きくなる。人間が減れば経済は縮小する。この単純なシステムは人間が存在してこそ成立するものであり、その点に於いては殺人という行為は社会全体にマイナスの効果しか生まないのだ。人間の数が減少するということは、私たち人間という種そのものの弱体化を意味する。

 そう、私たちの社会や文明は、恐ろしく脆い。

 もし、誰かが私利私欲のために殺人を犯し、その行為が何の咎めも受けなければ、次々に殺人を犯す者が出現するだろう。そして、殺意は伝染し、後には屍のみが残される。このような悲劇的結末に到達する前に人間が欲望を自制できる可能性もあるだろうが、これまでの人類史を省みるに、そういった希望的観測の一切は捨てるべきである。いつの時代を見ても、謳われる理想は平和だが、あとに残る歴史は残酷である。

 しかし、社会という基盤が存在する限り、殺人が正当化される場合もある。そう、社会を破壊する者に対して、私たちは社会を守らねばならない。戦争がその一例である。また、個人に適用される正当防衛もこれに当たる。他には死刑という制度にもこの合法的な殺人の一例を見ることができるだろう。現状では、私たちの生命を脅かされる状態であれば、殺人を犯しても何ら問題ないのである。

 殺人者を殺人を以て排除する。

 このパラドックスめいた考え方が正しいか否か。議論は尽きなさい。

 これらのルールが作られたのは私たちが文化を持つようになってからの話であり、文明が発展し秩序が確立し倫理や法律が作られる以前は、恐らく、単純に人間は殺しても善いものだった。人間が人間を殺すことは自然な行為であり、逆に、人間が人間を殺さないということは不自然だ。

 神という存在はこの不自然な行為を肯定するために必要だった。

 しかし、宗教の語るくだらない教義では、最早、この世界の抱える命題に応えることは叶わない。彼らの物語では、私たちは既にエデンの園を追われているのだから。


「モラルと理性に禁じられるまでは、恐らく、人は殺してもいいものだった」

 彼女は続ける。「でも、勿体無いじゃない。どうせ死ぬのなら次の命のためにその死という現象を有効活用することが全体の利益になるでしょう?」

「個人には尊厳がある。死が必然だとしても、どういう死を選ぶかは自由だ」

「くだらないわ。そんなことを言っているから何も進歩しないのよ」

「ああ、急速な進歩は望めないだろう。だが、我々は確実にゆっくりと進歩はしている。急ぐ必要なんてないだろう?」

「けれど、人間は好奇心には勝てないのよ」

「君は好奇心で君自身を造ったのか」

「それ意外に何があるの?」

 彼女は自分の右手を見つめながら、「人を殺してみたくて殺した。人間の肉の味が知りたくて食べた。自分という人間を愛したくて造った。それの何処がいけないのかしら」

「手段だ。目的を達成するためには、何をしてもいいという道理はない」

「それをあなたが言う? 延命治療に対して、あれは苦しみを長引かせるだけの拷問だ、と言ってしまうあなたが?」

「実際、そうじゃないか。どうせ死ぬのなら、苦しまない方法を選択するべきだ。死を目前にした人間は、その圧倒的な結末に跪くしかない。すべては無駄なんだ。老化と死は必然なのだから」

「必然的、ね……。人間が老化を克服すれば、死もまた病名となる」

「永遠の生命など、在りはしない。否、在ってはならない」

「どうして?」

「それは……」

「受け入れるべきよ。私が、永遠を実現させる術を見つけたという事実を」

 細胞の劣化を広い意味での老化とイコールで結ぶのであれば、いつしか老化は“病名”となる日が訪れるだろう。

 そして、老化を治療しようという者はこれからも出現し続ける。

 自らの若さと美貌を保つために七百人の処女の生き血を啜り、全身に浴びることで若さを追求しようとしたエリザベート・バートリーの伝説の様に。或いは、錬金術師を雇い莫大な資金と多大な犠牲を注ぎ込み、賢者の石を造り出そうとした王族や貴族たちの様に……。

 古来より信じられてきた不老不死の霊薬は、いつの時代も不気味な色合いで輝き、人々を魅了して止まない。それが幻であったとしても、私たちは不死という夢を忘れることはできないだろう。私たちは、その夢に取り憑かれている。

 その悪夢を永遠と呼ぶのかもしれない。

 しかし――

「くだらない。永遠の命が実現できたとしても、それは苦しみでしかない」

 セバスチャン・シャンフォールはかく語る。

『生きることは病気であり、眠りが十六時間ごとにその苦しみを軽減してくれる。しかし、眠りは一時的な緩和剤に過ぎず、永遠の眠りこそがこの病の特効薬である。』と。

 もっとも残酷な刑罰が死なないことであると謂うならば、死を希望と謂うのならば、生きることはその刑罰に近いのかもしれない。しかし、生きることの意味は容易に見つけられることではない。

「生きることが苦しみであるかどうかは、個人の決めることよ。そうやって全てを決めつけて自らのエゴを押し通すのは賢明ではないわ」

「クオリティ・オブ・ライフか……。前にも言ったが、人間は永遠という時間を生きられるほど賢い生き物じゃない」

 彼女を強く睨んだ。

「それに、君は事の重大さを理解していない。クローン人間は君ひとりの問題ではない。君はパンドラの箱を開けたんだぞ」

「では、問いましょうか。パンドラは何故、箱を開いてしまったのかしらね」

 彼女は嗤った。

 彼は魅入ることしかできなかった。

「あなたは愛を理解できていないわ」

「愛、だと……」

「愛はすべてを可能にするのよ。死者の再生も、永遠の生命も、自らの分身も」

「僕は人間を愛している。だからこそ、僕は人間を救いたい。本人が望むなら、僕は喜んで死を与える」

 そう、今はまだ、私たちは死という運命から逃れることはできない。だからこそ、人は、死に夢を見る。私たちは死後の世界を知らないのだから、それを苦しみからの解放だと思うことで、終焉の恐怖を緩和しているのかもしれない。

 彼は、椅子から立ち上がった。

「苦しみからの解放こそが、人間にできる最高の愛情表現だ」

 彼は、語気を強めた。

「君の愛は間違っている」

「愛の形に間違いなんてものがあるのかしら。……あなたとはいつも意見が合わないわね」

「当然だろう。僕らは人間なのだから」

「でも、今日あなたは“主”の大いなる愛を知る……。新しい愛の形をね」

 彼女は妖しく笑った。その刹那、彼の背中に痛みが走る。もう一人の彼女が、彼の背中に刃を突き立てたのだ。彼の顔が苦悶に歪んだ。黒ずんだ板張りの床に鮮血が流れる。

「何を……」

 そして、彼女が正面から彼の心臓に銀色の鋏を突き刺した。

 乾いた床木が、紅い血を啜る。

 血に染まった鋏の刺さった右胸を両手で押さえながら、彼は膝から頽れた。冷たい床の上、薄れゆく意識の中で、妖しく口角を吊り上げる悪魔の顔が彼には見えたことだろう。


 規則的な電子音が、部屋の中には響いている。白いレース生地のカーテンが揺れた。

 彼は一命を取り留めた。目覚めたときには、彼は肉体を失っていた。しかし、神は彼を生かし、そして、彼は神となった。彼女はそんな彼に優しく微笑みかける。

 残ったのは、生首のみ。テーブルの上に固定されたそれは、喋ることもできず、ただ眼球だけを動かし、瞬きしている。生命維持装置に繋がれた首だけの彼に見つめられながら、彼女は私の首に口付けした。

 舌で私の頸動脈をなぞって、彼女が私の耳元で囁く。

「愛しているわ」

「私もよ」

「ねえ、彼。あのままでいいの?」

「ええ。今、彼は彼の思う神となった。それが概念でしかないというのなら、思考するだけの生命なのだとしたら?」

「それが彼の信仰する神という存在の正しい姿ね」

「概念でしかなかったものを具現化する。これも愛だわ」

「誰もが残酷だと蔑んでも、きっと世界は私たちの行いを祝福してくれる」

「人は新たな可能性を掴んだのだから」

「ええ。神が死んだのなら、また造ればいいのよ。いくつでも」

「そうね」

 人は神を造った。恐らく、その事実は変わらない。そして、自らの手で神を葬った。信仰する神が居ないことを嘆くのであれば、再び、神を創造すれば良い。いつしか私たちの造り上げた神が抑圧と停滞をもたらすリヴァイアサンとなって仕舞っても、再び、私たちは剣を持ち、その怪物を殺せばいいだけなのだ。

 これからは神という名の精神安定剤をただ消費する時代である。

 彼の瞳から、涙が一筋零れ落ちた。縦長の窓から射し込む陽光は、その水滴を光らせている。

 私たちの前に美しき終焉など、ありはしない。



 医療の神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、バナケイア及び全ての神々よ。

 私自身の能力と判断に従って、この誓約を守ることを堅く誓う。

 医術を教えてくれた師を実の親のように敬い、財産を分け与え、必要ある時には助ける。師の子孫を自らの兄弟のように見て、彼らが学ばんとすれば、報酬無しに医術を教える。

 医術の知識を自らの息子、或いは、医療の規則に則った誓約で結ばれている弟子たちに分け与え、それ以外の誰にも教えない。

 自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療を行い、害と知る治療を決して行わない。依頼されても人を殺す薬を与えない。同様に婦人を流産に導く道具も与えない。

 生涯、純粋と神聖を貫き、医術を行う。

 どんな家を訪れるときも、自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく医術を行う。

 医療に関するか否かに拘わらず、他人の生活についての秘密を厳守する。

 この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術とを享受し、すべての人から尊敬されるであろう。しかし、万が一、この誓いを破る時、私は逆の運命を賜ることだろう。


  ヒポクラテス 『誓い』より



 Leviathan

 ――其の怪物は如何にして神と成ったか。

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