労働にとんかつはいかが

Dr.龍蔵

平衡に達するとき

 動的平衡という用語がある。これは互いに逆向きの反応が同速度で起こるために見かけ上は反応が進んでおらず反応系全体として平衡に達している状態を指す。正しい例ではないが、千人乗っている電車から五百人が降りて同時に五百人が乗車すると停車前後で人数の移動がないのをイメージするとわかりやすいかもしれない。

 腎臓内科の仕事はまさに動的平衡を維持する点にある。つまり食事や点滴で投与する栄養素と透析で除去する老廃物を調整し、人体の内部環境のバランスをとる。学生時代、腎臓内科の病棟でこの陰に潜んで患者さんの内部の循環を補助する仕事を私は職人を見つめる目で眺めた。

 僕は研修医四ヶ月目で夏休みをもらった。自分の志望していたはずの診療科である腎臓内科のローテーション中に夏休みをもらうことの意味についてここで深く追求するのはやめておく。要するに労働者(そう僕は労働者なのだ)であるはずの僕の内部にはっきりしない迷いと怒りがあって「休めるときは休みなさい」と言う上級医に甘えてしまったのだ。労働者であると自覚しているから、上級医が僕の胸中を察していたとしたら僕の恥ずべき点がもう一つ増えることになる。命を削って病院に従事してきたおエラ方に言わせれば「つべこべ言わず勉強して働け」ということだ。もっとも、目下僕の問題は「つべこべ言う」ことではなく患者に怯えながら「うじうじ迷っている」点なのだが。早い話が現在、僕の動的平衡が保たれていないのだ。

 ところで今年の夏休みは素晴らしい時間だった。初任給で家族に国府津のうなぎをご馳走し、余った時間は読書に当てた。アウシュヴィッツやシベリアの労働者の体験記である。到底自分の境遇と重ね合わせる代物ではない。病院の中で目を向けるべき対象を明確にするためだ。

 しかし明日からまた一日の大半を職人の集う病棟で過ごすと思うとやはり気分は落ちていく。アウシュヴィッツは遠すぎる。そこで夕食をとんかつに決めた。好きな食べ物を訊かれたときに僕は決まってとんかつと答えることにしている。実際、とんかつと聞くと直前の食事に関係なく気分は高まった。渋谷に評判の店があるのは知っていた。雨は降っていなかったが、空が重かったので傘を持って家を出た。

 目当ての店は明治通り沿いの地下に構えていた。中はとんかつ屋にしてはもったいないと言えるほど広く、その上コロナ第二波のために客が少なく地下とは思えない空間の拡がりがあった。僕は奥のテーブル席に通された。隣の席とは敷居で隔たれて人は見えなかったが、女三人がすでに食べ終え長居しているようだった。

 とんかつはロースで頼むことにしている。脂が多すぎるという理屈が僕にはまだ解らない。注文してすぐにところてんの小鉢が置かれたが、これは生魚が混じっているような嫌な臭いがした。隣はうるさく騒いでいて、どうやら三人のうち一番舌の回る女がアイドル活動をしており月収一千万のホストに通い詰めているらしいことがわかってきた。

「キャバクラはお金もってるおじちゃん達相手だからいいけどさ、私達そんな金ないじゃん。こないだもうお金ないって言ったら真面目な顔で風俗店紹介してきて、マジ頭にきてもう縁切るって言ってやったわ。でも結構いるらしいよ、そうやって風俗で働きはじめる人」

 僕はとんかつにソースをかけない。ソースはキャベツの方に垂らして、とんかつには塩をまぶす。せっかくのとんかつがソースの味に負けてはいけない。とんかつ一切れにぴったりなキャベツの割合をはかっているあいだも、アイドルの甲高い声が耳に入ってくる。

「その日はじめて飲んだ子だったんだけど、私アイドルやってるんですーって言ってきて、へーそうなんだって流してたのね。そしたらあかねさんが来てさ、私のこと渋谷のアイドルXXXだよって、えーーーってなってた」

「その子何歳?」

「二十」

「はー、いまだにそんな下の子と飲んでんのかよ」

 とんかつはイマイチだった。低温で揚げているのが売りらしいが、衣がしっとりしすぎていた。僕が席を立ったとき、女達の話に終わりの気配は感じなかった。僕は生臭いところてんだけ残して店を出た。

 明治通りから一本入った路地の駐輪場で食後の一服をふかした。

「おい、あんた、看板が見えねぇか」

 僕と同じくらいの男が自転車から降りて目の前に立っていた。肩からショルダーバッグをかけて大きな箱を背負ってるところからするとおそらく流行りのデリバリーサービスのアルバイトである。最近よく見かけるこの連中はリュックのサイドポケットにペットボトルやタバコを挿しこみ、なかには人混みをイヤホンをはめてすり抜けていく者までいた。それから僕はこの会社のサービスを使う気にならない。この男もイヤホンを付けている。男の背後に禁煙の札が下がっている。僕は男をじっと見つめる。「なんだよ、きもちわりぃな」と言って男は去っていった。この間、僕の内部は妙に静かでありながら、脳裏には昨日読んだ本の表紙の顔が浮かんでいた。余計な光を拒絶し、決して未来を語ることのない冷徹な眼が僕を見つめていた。タバコはまだ手元で煙を吐いている。

 駐輪場を出ると雨が降っていた。僕は持参した傘を開いて、気分よく駅へ歩きはじめた。

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