短い、夏のはじまり
飽和
読み切り
響くサビ前の興奮するギターの音が残り香になった。
一瞬、浮いた声がドラムの音と繋がってまた新しい音が溢れる。
「夏だねぇ...」
何となく歩いて行き着いた、ライブ会場の広場から離れた教室の中で、長い髪を揺らし風に混じった音に耳を澄ましながらこぼす彼女に、僕は頷いた。
夏だ。
くすんだ色のカーテンの先っぽが宛もなく揺れている。
まだ蝉は鳴いていないけれど何処と無く息をすると溺れている様な。
頭が空の色でクラクラする感覚がする。
「どうしようもないくらい、夏だね。」
素直な言葉が溢れた。
彼女は、今の言葉の意味を分かってくれているだろうか。
少し首を傾けた。
「夏が来るのも冬が来るのも、止められないもんね。」
こちらを振り返らずにサッシに肘を着いて外を眺めたままなのを見るに、深く考えている訳では無いらしい。
確かにこんな日に難しいことを考えるのはナンセンスだ、と思い直した僕は、手持ち無沙汰で引いた木の椅子を引っ込める。
代わりに彼女の横に行き、同じ姿勢で外をを覗き込んだ。
一瞬で色彩が飛び込んできて、瞼の上がジンジンと鳴った。
最上階の一つ下の階からは景色こそ普通だったが、青い空が広がっているのがよく分かった。遥か遠くにはちぐはぐな色をした建物の屋根と雲ひとつない晴天が地平線を創り出している。
見渡そうにも、あまりにそれは広い。
「何を見てるの?」
僕が聞くと彼女はゆっくりと片手を挙げて開いた手のひらを前にかざした。
「全部」
なるほど、と納得が行く。
どこか1箇所を見るだけじゃない。
ちぐはぐな屋根も、そよぐ風も、湿った空気も、高い空も。
全部感じてこそ初めて夏を見れる。
広場ではいつの間にか次の曲を演奏し始めたらしい、さっきとはうって変わってアップテンポな曲が聞こえる。
同時に何度も反響を繰り返した他の生徒達の声も聞こえる。
大概は叫んだりした声で、耳にするだけで身をよじりたくなったので、僕はどこか遠くの世界より、目の前の景色に集中することにした。
また一つ風がそよぐ。
長い髪が揺れる。
「なんか、いいなぁ...こういうの...」
そう言いながら腕を崩した。
分かる?
そう言いたげな目で僕の目の中を覗く。
僕は僕の心に触れすぎないように答える。
「ここが、僕達の居るべき場所って言う感じ...なのかな...」
確かめるように僕は見返す。
「概ね、正解かな」
そういってまるで子供みたいに屈託なく笑う。
彼女は感情を隠しはしない。
その純粋さに気付かされる度に、僕は行き場のない不安と焦燥に駆られる。
僕は焦っていた。
きっとこの一年に一度の文化祭がもたらす気まぐれや、夏がくれる勇気も、
今この瞬間を逃したら全部泡になって消えてしまう気がした。
「見て見て、あれ、積乱雲。すっごいおっきいよ」
はしゃいだ声を出して、彼女は、次ははっきりと、僕から彼女の体越しに見える方を指さした。
はっ、として見ると確かに雲ひとつなく見えた空の端っこには今、大きな入道雲が現れた。
まるで小さい頃、何かの祭りの屋台で貰った綿飴みたいに、それは高くそびえている。
「本当だ。積乱雲...」
夏の到来を告げる様なそれに僕は心を踊らせて、思わず身を乗り出す。
「...夏だねえ...」
「うん、夏だ...」
僕らはしばらくその遠くの綿飴みたいな夏の告知者に見入った。
その時一際大きい風が吹き込んだ。
同時に僕の視界が黒くて長い、サラサラしたようなものに覆われ、同時に嗅いだことの無い、良い香りがする。
ふわふわした匂いで頭がクラクラしそうになった。
「あ、ゴメン...」
そう言いながら彼女は長い髪を押さえながら振り向いて目が合い、そして顔を俯かせた。
身を乗り出した僕は彼女に近ずきすぎていたことに、しかし、気付けなかった。
代わりに今の、一連の出来事だけが僕の中で反芻した。
時が止まったように僕と彼女は動かなくなった。
「好きだよ」
気づいた時にはそう言っていた。
気まぐれも勇気もなかった。
ただ、言葉が溢れた。
「...うん」
彼女の耳は赤くなっていた。
何か言おうとしているようにも見えた。
「....あ」
「「------!!」」
遠くでギターが叫ぶ。同時に何人かの声が響いた。
その音が時間を一気に進める。
彼女は驚いて紡ごうとしていた言葉を引っ込めた。
代わりにいつもの様にあの無邪気な笑顔を、まだ固まったままの僕に向ける。
「そろそろ、広場に戻ろっか」
そう言って長い髪を揺らして机の間を縫ってゆっくり歩いていく。
彼女が言おうとしたことを僕は考えて、でも直ぐにやめた。
彼女の笑顔を見て僕はすっかり安心してしまったし、それに、まだ夏は始まったばかりだった。
短い、夏のはじまり 飽和 @hoowa
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