チルドレンズ・ワールド
その街の中心地にある予備校から駅裏に向かう細い路地に、ノンアルコール・バー『チルドレンズ・ワールド』は存在する。
大人禁制。18歳以上は入店お断り。つまりそこは子供の聖域。
大人たちによる理不尽な世界をサヴァイヴする少年少女にとっての、束の間の憩いの場。
と同時に、学校、予備校に並ぶ子供たちの第三の社交場でもある。
子供の社会だって大人と同等に、いや、ある意味では大人以上に複雑だ。
クラスメート間の人間関係の複雑怪奇極まりない相関について論じ合う、各科目の教師の人間性から次回の期末テストの出題傾向について分析を試みる、などの大人も顔負けの高尚なる考証にふける知的層が集まる席もあり。
ありとあらゆる非電源系の玩具を持ち出し、我こそが遊戯王だ、いや我こそは遊戯至高神であるなどと遊びの頂点を極めんとするものたちの席もあり。
他愛もない悪口、ひどいと罵詈雑言、新調した服のお披露目、俳優やお笑い芸人の格付け、などなどすべてを挙げれば枚挙にいとまがない多種多様な話題の数々が、日を変えてあちらの席でこちらの席でと繰り広げられる。
ここでのルールはただ一つ、ドリンクタイムを楽しむこと。
ここがノンアルコール・バーであることの唯一絶対の理由だ。
年齢も個性もバラバラの子供たちがこの社交場にい続けるために身につけなければいけないマナー。ときにはケンカもあるけど、最後は笑顔でグラスを交わすこと。
少年少女たちの手にはみなグラスが握られている。
中でも人気のドリンクは『W・M・A・D』
このバーを切り盛りする17歳のオーナー、サキ姉の自慢の一品だ。
ところが、このドリンクが『チルドレンズ・ワールド』にトラブルを呼び込んだ。
サキが18歳の誕生日を迎えようとしていたころのこと。
18になるということは、同時に『チルドレンズ・ワールド』の卒業を意味している。客であろうと従業員であろうと、そしてオーナーであろうと、18歳以上は『チルドレンズ・ワールド』を離れなければいけない。
これは誰が決めたわけでもない、子供たちの世界に浸透した不文律だった。
だが、
「俺はW・M・A・Dが飲めないこの店なんか嫌だ……」
そう、カウンターに座っていた一人の少年が言い出したのがきっかけで、
「私もそんなの嫌だ」
「あたしも」
「僕もだ」
と、あちらこちらで同じような声が広がった。
サキは「私が卒業してもW・M・A・Dは飲めるよ。レシピは次のオーナーに引き継いでもらうから」とみなに説明するが、それで納得した雰囲気にはならなかった。
「サキ姉がつくらなきゃ意味がないよ……」言いだしっぺの少年がそう言うと、一同はそうだそうだ、とうなずき合う。
サキには薄々わかっていた。子供たちにとってW・M・A・Dとサキは切っても切れない関係になっていること。そしてサキとW・M・A・Dが多くの子供たちの間では一種のシンポルになっていたことを。
だが、同時にサキは知っていた。
子供たちの世界だからといって、甘えは許されないことを。
いやむしろ、大人の分別がない世界だからこそ、より厳しい掟が存在することを。
「おい、テメェらいつまでも甘ったれたこと言ってんじゃねえよ」
部屋のすみから太く張りのある声がした。
サキのほうを向いていた少年少女たちは、一斉に声のしたほうに振り返る。
がっしりとした体躯の青年がゆらりとソファーから立ち上がるところだった。
「サキはもう大人になるんだ。ここにはもういられないに決まってるだろうが。駄々こねてんじゃねえよ」
青年は一同を見渡し、最後にカウンターの言いだしっぺの少年をにらみつける。
少年は青年の迫力にたじろいたが、自分と同じ意見の子が大勢いると思うと勇気が出た。
「……なんだよ、俺はただ思ったことを言っただけだろ。それに同じことみんな思ってるんだ。なにが悪いんだよ」
なんとか言葉にすると何人かが賛同するようにうなずいたが、ほかの多くの子は身をすくめてじっと様子を見ているだけだった。
青年はさらに大声で言った。
「バカヤロウ! そんなこと言ってたら大人につけこまれんだろうがよ! 例外はダメなんだよ!! ルールなんだよ!!!」
負けじと少年は「なんだよ、そうまでしてサキ姉を追い出したいのかよ!!」と言い返したが、それが青年に火をつけた。
「なんだと、このヤロウ!!」
ズカズカと少年に迫る。
「言ってわからねえならなぁ!」
拳を振り上げた。
少女たちが悲鳴をあげる。
さすがの事態に、周りの少年たちが割って入る。
「くそっ、離せ!!」
「お、お前がはやく大人になってここを出ていけばいいんだ!!」
「そうだそうだ!」
「だとぅ!!」
乱闘が始まるかと思われたそのとき。
もみ合いをかきわけてサキが少年と青年の目の前にやってきて、グラスをそれぞれの眼前に突き出した。
「ここの一番の掟は何」
二人が固まっていると、サキはそのまま言った。
「ドリンクタイムを楽しむこと、でしょ」
みなが落ち着きを取り戻したところで、全員の手にW・M・A・Dの入ったグラスが渡る。
「みんなグラスは渡った? それじゃ、乾杯」
元気にとはいかないが、各々乾杯の言葉を口にしてグラスを傾ける。
W・M・A・Dの甘く、だけどほんの少しの苦味がアクセントになり、独特の味わいが一同の舌を包む。冷えた液体が喉を潤す。
グラスを口から離して一息つくと、一同はようやく心から落ち着いた気分になった。
「うまいこと言えないけどさ、みんなには感謝してるし、私はうれしいんだ」
サキはすでに次のグラスを用意しつつ、そう言う。
「私に残ってほしいって思ってくれてることもそうだし、私がもう子供じゃいられないって教えてくれたことも、そう……どっちのこともうれしいの」
サキの言葉にみなが複雑な表情になる。騒動の中心になった二人も、とまどいながらお互いに相手の反応を気にしているように見える。
「大人になるってことがいいことなのか、悪いことなのか、私にはわかんないけど……でも、いつかはここを出て行かなきゃいけないってことは、もうずっと前から気持ちの整理はできてた」
子供たちの一部からわっと声が上がる。嫌だ、と嗚咽を漏らす子供、うつむいて肩を震わせている子供、じっとサキの顔から目を離さない子供。
「その決意がね、このW・M・A・Dなんだよ」
そう言ってサキは用意したグラスを自分の前に置いた。
虹を思わせる鮮やかな色彩のグラデーションを持った、夢のドリンク。
「W・M・A・D……この子のフルネームは、ウェンディ・モイラー・アンジェラ・ダーリング。ピーター・パンに憧れて、ネバーランドにやってきた女の子。でも彼女は大人になるし、ネバーランドにいつまでもいられない」
このネーミングをサキが自分で考えてつけたわけじゃない。サキの先輩である大人の女性からもらった名前だった。
サキに、自分を皮肉ったようなネーミングのセンスはないし、サキは先輩がちょっと意地悪だと思った。
でも、サキは先輩の持つ魅力に憧れた。これが大人の世界か、と思うと今の自分がみすぼらしく思えた。
「先輩にちょっとだけカクテルをごちそうになったわ。そのときはおいしいとは思えなかったけど、なにかワクワクした。それから、ふと思った。きっと私はこの味が好きになる、それと、W・M・A・Dが、今までほどおいしいとは思えなくなる……」
サキの言葉に、ほとんどの子供はきょとんとするばかりだったが、喧嘩をした二人には、サキの言葉に響くものがあるようだった。
「私がずっとここに残っても、W・M・A・Dを作り続けることは、できないんだなぁ、って、そのときわかった」
サキが少しだけうつむいて、軽く息をつく。
だがすぐに顔を上げる。
優しい笑顔になっていた。
「子供の世界はなくなったりしない。でも、子供の世界だってどんどん変わっていくんだと思う。きっとウェンディに負けない素敵な子が、またここにやってくるはずだよ」
サキの話はそれで終わり。
サキがパン、パンと手を叩いて、お開きとばかりに空気を変える。
しんみりとした場は似合わないと、その後はまた笑顔で賑やかな『チルドレンズ・ワールド』に戻っていった。
『チルドレンズ・ワールド』
子供にだって、哀愁と安らぎの場所が欲しくなる。
扉を開ければ、家族もクラスも関係ない、子供たちの世界がそこにある。
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