ショートショート 恋わずらい
今よりずっと昔のことだが、クピトとかキューピットとかいう恋の天使がいるという伝説というか、おとぎ話の類のものがあったそうだ。
その天使は弓矢を持っていて、矢尻はハートのかたちをしているとかで、その矢に射られたものは恋に落ちるのだとか。
信じられない。
仮にも天使とあろうものが、人の心を乱すようなことをしていただなんて。
心身病理学が発達した現代では、かつて恋と呼ばれて持てはやされた心の動きが、実際には心身や社会生活に害をもたらす気分障害の一種であると判明している。そして天使は安らぎのシンボルだ。恋の天使など、人騒がせな悪霊じゃないか。
恋が病と確定し、世界じゅうで対策が取られるようになった現在でも、恋患いの患者は後を絶たない。かつては10代、20代が中心だった患者層も今では大きく広がり、もはや世代の差はほぼ見られなくなった。
多くの病原菌やウイルスに対抗できる医学を手に入れた人類だが、恋患いはいまだに全人類を苦しめる難病で、世界各国が頭をかかえている。もっともっと昔に、害とされながら一部の好事家の根強い抵抗によって、根絶が困難だったものに、酒と煙草と呼ばれる嗜好品があった。
それらを根絶するのに成功した例にならい、恋を誘発しかねない異性間交流には段階的に負担や罰則が設けられて入った。
課税に始まり、年齢制限、場所制限、といったことが法律で定められた。
学校教育では恋の危険性を入念に指導し、青少年の啓発を行った。
それでも、人間に男女の差があるかぎり、恋はどこかで発生する。
天使など迷信にすぎない現代に、目に見えないクピトが空を飛び、恋の矢をあちらこちらに放っているとでも?
迷惑なことだ。
告白しよう。
今、私は恋患いに苦しめられている。
動悸が収まらず、何をしていても集中が乱れる。
頭に浮かぶのはとある人の顔、仕草、声、ほかにも、ほかにも……。
ああ、私は病んでいる。
いますぐにでも、あの人のもとに飛んでいきたい。
そして天使の弓矢であの人を撃ち抜くのだ。
なるほど、クピトの気まぐれさは恋が感染症であることを暗示しているのかもしれないな。
そう思うと可笑してたまらない。
もうすっかり変になっているのだろう。
できることならば、私の症例が、恋の治療の研究の一助とならんことを。
2XXX年XX月XX日
※ 心身病理学の権威であり恋患い研究の第一人者でもあった××医大××名誉教授の手記より
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