船を待つひと 〈サンディ〉とルラ Forgotten Siren

E tu dice. "I’ parto, addio!"

T’alluntane da stu core,

Da sta terra de l’ammore,

Tiene ‘o core ‘e nun turna?


 - Torna a Surriento



 イジン街の外れの小さなレストランバー「ナヴィーオ・ダ・ルア」で、サンディは今夜も歌っている。

 かつては海の男たちを誘惑する魔女サイレンと呼ばれて多くの海の男を魅了してきた彼女だが、今ではその歌声に耳を傾けるのはわずかな常連客くらいだ。

 それでも、歌う彼女は十分に魔女の名に相応しい魅力がある。彼女はもう若くない。だからこそ、その魅力はより奥深いものとなって魔女の名を引き立たせているように僕は思う。

 妖艶、という言葉がぴったりだ。

 今の彼女の歌声は浅瀬から船員たちに誘いかけるような甘いささやきではない。もっと広く深いところから水面まで響いてくる呼び声。船を丸ごと包んで異界に飲み込んでしまうようなメロディ。

 彼女の歌うステージ以外は明かりも落ち、暗くなった「ナヴィーオ・ダ・ルア」の店内は、そのまま海の底に沈んでしまったよう。そんな雰囲気を、僕は楽しんでいた。


 やがて歌が終わる。まばらな拍手。僕はその音で海の底から浮上する。

 満足そうに笑顔を向けるサンディ。サンディを照らしていたスポットが落ち、店内の照明が灯る。舞台のようだった雰囲気が店本来のそれに戻ると、彼女はカウンター席に座る。

 カウンターの向こうでは、店の主人がステージの最中から変わることなく黙々と仕事としている。年はサンディより幾分上だろうか。サンディが席に着くと、声かけも目配せもなしに、彼女の前にグラスを置いた。サンディもまた、はじめからそこにグラスがあったように手に取って、その中身を口にする。グラスにそっとつく唇。そこにつたう液体。扇情的な仕草もあまりに自然だと色気よりも美しさが際立つのだと、彼女を見ていると思う。グラスを置いて薄く一息ついた彼女の瞳が、幾分潤みを帯びたような気がした。

「こんな私でもね、たった一人だけ、心に決めたひとがいたんだよ」

 彼女はそうささやいて、話を始めた。



 サンディがまだ無名だった頃。

 そもそも彼女は<歌姫>サンディではなかった。サンディはあくまで芸名。彼女は駆け出しの酒場歌手、ディーだった。


 イジン街のある野木坂の港町には、凄腕の漁師サンと陽気な相棒ルラがいた。彼らをはじめとして海の男たちは夜になると酒場に繰り出し、酒の酔いと女のもてなしを楽しみ、互いに武勇伝を語り、腕っぷしを競いあい、取り巻きはそれを賭事にして賑わったりした。

 ディーの歌は店のBGMに過ぎない。彼女の声に意識を向ける男はいなかった……ただ一人、サンを除いて。

 彼はじっとステージで歌っているディーを見ていた。周りの喧噪でディーの歌なんてきちんと聞こえているはずもないのに、ただ歌う様子を見るためだけにそうしているようだった。笑顔でもなく、ただ顔を向けているサンに、ディーは始め、戸惑った。だが歌い終わるといつも控えめだが丁寧に拍手をくれるサンに、ディーも親しさを覚えるようになった。

 はなしをしてみると、サンのほうも最初は緊張や照れくささで、ただ遠くからディーの歌を聞いているのが精一杯だったのだとわかった。


「船乗りとしても漁師としても有能、船の上じゃ右に出るものなしって評判だったんだけどね、人付き合いとなると、てんで奥手だったの。船を降りたら、ほかの男たちのバカ騒ぎにも加わらないで静かにしている質だったようね。まあ、わたしもそのころは似たようなものだった。ほかに出来ることがなかったから歌を歌っていけれど、人前に立つのは苦手だった。彼のたたずまいには自分と近しいものを感じたわ。サンはエースだったし、すごい人には違いないんだけれど、当時の私は彼からすごみのようなものは感じなかった。そうね……家族が出来たみたいに思っていたわ。彼は男たちから尊敬を集めていたけれど、いつも寂しそうだった。男たちのムードメーカーだったのは、ルラのほうだったわ」


 賑やかな海の男たちの間でもとりわけ陽気で世話焼きなルラは接する者みな愛するような男だったし、彼もまた、皆から愛称のルラで呼ばれて愛されていた。寡黙で孤独を好むサンの才能に惚れて、それを周りに宣伝したのもルラだった。

 そんなルラがサンとディーの二人が親しげに話をしているのを放っておくはずがなかった。


”サンとディーねぇ……。サン、お前、そのサンっての、呼び名だろ?”

”ああ、そうだ。それが?”

”正式には?”

”サンドロ”


 サンはルラの畳み掛けるような質問にも静かに答える。

 ルラはそのままディーのほうにも言葉をかける。


”だよな。んで、お嬢さん、ディーだよな”

”あ、は、はい”

”あんたは?”

”え、あ、っと、サ、サンドラ。……です”


 ディーが顔を真っ赤にしてしどろもどろに答えると、ルラはにやぁっ、と顔をゆがませて、


”サンドロにサンドラ! 双子の兄妹みたいだな! 二人ともサンディだ! はっはっは!”


 そういって両腕をがばと広げてサンドロとサンドラの肩をつかみ、寄せ合い、笑う。ディーは思わずぎこちなく、だけど悪い気分じゃなく、笑った。サンは終始表情を変えなかった。


 もともと引っ込み思案で、どちらかといえば賑やかな場所にいるのは苦手だったディーを、ルラはサンといっしょに引っ張りこんで、談笑の場に加えたりした。落ち着かなかったし、何を話していいかわからなかったが、ルラはさりげなくこちらに話題を振ったりしてくれたので、少しずつだが、その場にとけ込むことができた。


「思えば、あのとき、あのはじまりの頃が、一番楽しかったかもしれないわね。ささやかな幸せのようなものに浸っていられたのもあのときくらいだったわ。でもね、そういうものはいつまでも続いたりはしないものよ」サンディは吐息を漏らす。「恋も、平和も、温もりも、永遠を望む歌は多いけれど、それは現実には叶わないから、人の望みだから、歌われるのかもしれないわね」


 しばらくは3人、家族のような関係でいられた。

「それも、長くは続かなかったわ」

 人の思いは、ままならないもの。

 思い、思われて。惑い、惑わされて。



 引っ込み思案だったディーは、いつしかルラに憧れを抱くようになっていた。

 自分もあんな風にみんなと輪を作って笑いあいたい……いや……ルラのようになれたら……私も人を引きつけて、人の中心に立つような、そんな人間になれたら…………私は……私は。

 それでも、サンドラは、サンドロの仲立ちがないと、ルラに話をしたりはできなかった。サンディ、サンディと呼んで親しくしてくれるようになってもなお、ルラはやっぱり、漁師たちのムードメーカー。その笑顔はサンドラのためだけに向けられるものじゃない、それがサンドラには寂しく思えた。


”ないものねだりなのはわかってる……だけど……”


 ディーは毎夜、仕事を終えて帰宅する前に、イジン街の坂を下りて、港に近い砂浜に下りるのが習慣になっていた。 水平線の向こう、東から太陽が昇り、漁から戻ってくる船はその光に照らされて、影絵のように見える。


 ディーはサンの帰りを待った。


 海の上での彼がどうすごいのか、ディーは知らない。海から上がった彼は、いつもディーの歌を聴いてくれるし、話せば返事を返してくれる、気楽に相談のできる数少ない相手だった。それに、サンとディー、二人でサンディというフレーズは思わず効果を生んだ。

 今ではサンディの名は猟師たちのヒーロー、そして漁師たちのマドンナとして、海の男たちの間に広まっていた。

 だが、二人が自分の力だけで人気を勝ち取れるはずがない。二人の才能を開花させたのはルラだ。サンには船乗りと猟師としての優れた腕があったが、ルラがいなければ彼は孤独なままだった。その才能はほかの猟師たちからは嫉妬の対象にしかならなかったかもしれない。

 ディーには、自分に歌の才能があるかどうかは今でもわからなかった。街の酒場じゃ誰もディーの声を真剣に聞いてはいない。BGMだ。

 ただ、サンだけは真剣に聞いてくれていた。彼は私を褒めた。しかしときに厳しい意見もくれた。ルラは人の個性を宣伝する力はある。だけれど、人の力を冷静に見ているのはサンのほうかもしれない。 ディーは、自分がサンディの名に恥じない歌い手になるにはどうすればいいか、サンに意見を求めた。


”君の才能は本物だよ、ディー。サンディの名前は僕よりも君にふさわしい。”

”でも、私の歌声じゃあ、ルラは振り向いてくれないわ、サン”


 ディーがそういうと、サンは少し沈黙した。だが、彼はらしくない笑顔をつくって、


”………………大丈夫だよ。自信を持つんだ”


 と、そう言った。

 ディーはそんなサンの笑顔と声に、一瞬、目の前が真っ白になった気がしたが、しかしすぐにまた胸が締め付けられるような感じがしてうつむいた。


”自信なんて……どうすればいいのか”

”そうだな……僕にも歌手としてどう自信をつければいいのかはアドバイスできないが、自分の仕事でなら話せる。僕は確かに人に注目されるのは苦手だ。ルラのようにはできない。でも、僕は僕に自信を持っている。人に誇れる。恥ずかしくないものを持っていると言い切れる”

”……サン。そうね、あなたは凄腕の船乗りで、漁師だものね”

”違うよ、ディー。そうじゃない。はじめからそうだったわけじゃないんだ。最初からうまくやれる人間なんていないんだ。僕には船しかなかった。漁しかなかった。だから続けた。それしかないんだ”

”そう、かしら”

”そうだ。もちろん続ければ失敗することも多い。辛いこともある。でもそれから逃げないこと。そうすれば、きっとディーの歌のすばらしさにたくさんの人が気づいてくれる”

”まだ、よくわからないわ。実感が持てないよ……”

”とにかく行動するんだ。くじけそうになったら、いつでも僕に頼ってくれ”

”……わかったわ”


 ディーがうなずくと、サンは彼女の肩を強くつかんだ。


”大丈夫、君はルラに追いつける。いや、逆にルラが君をまぶしく思うくらいに、輝けるさ”


 そういって精一杯の笑顔をつくると、サンドロは背中を向けて、漁の後かたづけに戻っていった。


「若かったわ。私だけじゃない、サンも、ルラも。ああいう頃って、自分たちの住んでる場所だけが世界のすべてに思えるものよね。今思えば、ルラにこっちを向いてもらうのに、ほんの少しの勇気があればよかったのよ。私の意気地のなさと、サンドロの気持ちに気づいてあげられなかった鈍感さが、ボタンを掛け違える結果になったの」


 サンドラは歌手として正式にサンディを名乗るようにした。自分が生まれ変わる決心を名前に託したのだ。同じサンディとして、サンも彼女の才能を海の男たちに積極的にPRしていった。次第にサンのポジションはマネージャー的になっていく。表舞台で客を引きつける歌手サンドラと、裏で彼女を支えるサンドロ。まさに二人でサンディという一つの存在となっていった。

 ルラもはじめ、二人を喜んで支援した。物静かでどこか退いた性格だった二人が積極的になっているのが嬉しかった。だが、すぐに二人の様子が気がかりになり、つい口を出してしまった。


”サン、おまえ、ちょっとばかりディーに入れ込みすぎじゃないか?”

”……どういうことだい”

”そのままの意味さ。おまえは船乗りだ。漁師だ。それを忘れちゃいないかって言ってるんだ”

”忘れてはいないよ。だから、歌手サンディは海の連中を楽しませることを追求している”

”だから! それが、ちょっと軸がずれてきてるんじゃないか、って言ってるんだよ。おまえが海にいなくてどうする。なんで同じ海の人間を喜ばすことなんか考えてるんだよ”

”同じことさ。漁だよ。これは。餌を巻いて、網を張って、収穫する”

”……何言ってる。サン。どうしたんだよ”

”ルラには関係のないことだ。これはディーと僕の問題なんだ。口出ししないでくれ”

”おい!”


「二人のやりとりを直接聞いたわけじゃないけど、そんなやりとりがあったってこと、あとでお客さんから聞いたわ。私のことで男二人が言い争うなんて、女冥利につきるじゃない? ……なんてね。そんな冗談は今だから言えること。あのころは、なんでサンがこんなあたしなんかに身を捧げるようなことをしたのか、ぜんぜんわからなかった。でも、私によくしてくれるサンを突き放すこともできずに、結局、甘えていた。見る人が見たら、グズグズの関係って言うんでしょうね」



<サンディ>の飛躍は目覚ましいものだった。

 イジン街の場末の酒場歌手は、あれよあれよと言う間に野木坂の名物歌手になり、より公の場にも活躍の場を広げていった。その歌声は夜の男たちの慰みとしてだけでなく、より多くの人の心を震わせるものとして評判を呼んだ。

<サンディ>の周りには多くの人が集まった。最初は戸惑い、どうしていいかわからなかったが、


”自信を持て”


 その思いだけは失わないようにして、向き合った。

<サンディ>の歌ではなく、ディーの女性としての魅力だけに興味を示して近づいてくる輩も後を絶たなかった。ディー自身は小柄で頼りなげな風貌でありながら、その歌は酒場仕込みの男を誘う愛らしさと妖しさがあり、そのギャップがまた、<サンディ>の魅惑的な個性だったからだ。そんなときはサンをはじめ、かつての酒場に集った漁師仲間たちが、身を挺して彼女を守った。


 男たちを従え、さらに男を誘う、そんな印象の<サンディ>には、その実力から<歌姫>の肩書きがつく一方で、<魔女>という呼び名も、ささやかれるようになっていった。歌手としての人気が高まる一方で、その人気に反感を持ち、敵意さえ持つ人間も確実に増えていった。


「気に入らない相手なら無視をすればいいのに、とよく思ったわ。でも、人の感情ってつくづくややこしいものだってことも、薄々わかってきていたわね。憎い相手ほど無視できないものよ。そしてその憎さはもともと持っていた好意の裏返しであることも多いわ。そういう憎しみのほうが、単純な反感よりもやっかいなものよね」


 そこまで言うと、サンディは少しせき込み、言葉が続かなくなる。せき込みつつ、ごめんなさいと言って顔を僕からそむける。

 発作のようなものだろうか。なかなか咳きは治まらない。何かするべきだろうかと腰を浮かせようとしたとき、マスターが水の入ったグラスと小さな紙包みをトレイに乗せてサンディの側に置いた。薬だろうか。マスターは紙包みを開き、あとはサンディの様子を見るようにじっと動かない。

 サンディは紙包みの口もとに持っていき、そしてグラスの水をゆっくりと飲んだ。サンディが一息つくのを待って、僕は「大丈夫ですか? 続きは後日にしますか?」と声をかけた。

 サンディは「いいえ、かまわないわ。ごめんなさい」と言い、「ちょっとはしゃいで話をしてしまったわ。いやね、年甲斐もなく」と笑みを向けた。「もう少しで終わるわ」



 今、サンディは、いや、ディーはかつて求めていたものを手に入れていた。大勢の人が私を振り向いてくれる。人々の輪の中にサンディはいる。歌姫としての成功で、彼女は自分の力に強い自信を持つこともできた。

 ただ、それらはすべて、ルラを振り向かせるため。自分がルラと対等になって、ルラに認めてもらうため……。


「なんていう遠回りかしら。でも、人に憧れるっていうのは、そういうことかも。恐れを伴うの。近づきたいって気持ちと、不用意に近づいてはいけないって気持ち。アンビバレントな感情が同居するのよ」


”ルラ、お元気? おひさしぶりね”


 サンディはスケジュールの隙間を縫って野木坂のイジン街へ戻ると、あの酒場でルラと会った。サンも一緒だった。店は貸し切りにして、3人だけの会合にした。


”俺はあまり久しぶりな気はしないな。街のあちこちでその顔、見かけるんでね”


 そういうルラの顔は、幾分やつれて線が細くなっているように見える。大柄な体つきは相変わらずだが、以前はもっと仕草や動作の一つ一つに逞しさや相手を包むようなオーラがあったように思う。


”で、両手にあまる男が寄ってくるご身分のあんたが、今さら俺に何のようだ?”


 ため息とともにルラは言う。昔のルラはこんな突き放す物言いをする人間ではなかったのに……サンディは時間の流れを感じた。


”そんな言い方しないで頂戴。ルラ。ほかの男なんてどうでもいいの。私、あなたに会いたくて来たのよ”


 サンディは自分の胸に手を当てて、震える声を抑えつつ言った。


”……よく言うぜ。よりによって俺にそう言うのか。お前、<魔女>の呼び名は本当だったわけだ” 


 ルラの声にはサンディを拒絶する響きしかない。


”どういうこと? ルラ、どうしてそんなこと言うの?”

 サンディは全身の震えが止まらなかった。いつもの自信はどこへ行ってしまったのだろう? 今の彼女は歌姫サンディではなく、酒場歌手、小娘のディーに戻ってしまっているようだった。


”お前の後ろに控えてる男、今どう思ってこの場にいるんだろうな。なあ、サンディ”


 ルラはかつて見せたことのない歪んだ笑顔でそう言う。


”いや……サン。お前、サンだろ。痩せたしツラはずいぶん変わっちまったが、面影あるぜ”


 サンディは少しだけ後ろを振り返る。サンは表情を変えず、自分の存在を殺すように静かに立ったままだ。


”サン、これで満足なのか。こいつはお前のことなんてどうでもいいようだぜ……なあ、俺にはやっぱりわからんよ。お前が船に乗らなくなって、いろんなことがすっかりつまらなくなっちまった。残念だ”


 ルラはため息をつく。


”お前も俺も、そこの魔女におかしくされちまった”


 そういって、ルラは言葉が続かなくなったのか、サンを見ていた顔もそらし、床を見つめるばかりになった。

 サンディも、言葉がなかった。今、目の前で起きていることが、ルラの言っていることが、まるで頭に入ってこなかった。

 呆然としていると、”……ディー”と背中に声がかかった。サンだ。


”これが答えだ”


 サンはじっとこちらを見ていた。しかし、その瞳にはディーの姿は映っていないのではないか……そう思えるくらいに、誰に話しかけているのかわからなかった。


”今の君は、ルラよりも、ずっとまぶしい。いや、はじめからそうだ。ルラを追いかける必要なんてなかったんだよ、ディー。僕たちはサンディだ。こんなところは僕たちにはふさわしくない。もういいだろう、帰ろう”


 ディーはサンとルラをかわるがわる見た。自分を挟むようにしてルラとサンはいる。だけど、どちらも自分のことなどいないよう……むしろ、自分は邪魔者という気さえする。

 サンディは思わず二人のどちらからも一歩後ずさった。

 するとルラが口を開いた。


”サン。お前、最初から俺のことが気に入らなかったのか。そういうことなのか”

”ルラ……いや、ルイス。君こそ目を覚ますんだ。僕ははじめから仲間とかそういうものに関心はなかった。最初にそう言ったはずだ”

”お前まだそんな子供みたいなこと言ってんのかよ。人が人と協力し合わないでなにができるんだよ”

”小さい世界でのなれ合いに染まるのを協力とは思わない”

”てめぇ……”

”ディーにはもっと大きく広い世界があることを知ってほしかった。最初の扉を開いてくれたのは君だったよ、ルイス。そこは感謝している。だけど、ディーには君がゴールではあってはならなかった。そして僕も同じだ。この小さな街のいち船乗りでいる気は、最初からなかった。ルラ。君も僕に捕らわれるのはよせ。僕は別にディーのせいで何かを見失っているわけじゃない。すべては僕自身の意思でやっていることだ。ディーが僕のことをどう思っているかは、問題じゃあない”

”お前がそこまでガキだったとは思わなかったぜ……お前の、いや、お前らのせいでイジン街はすっかり変わっちまった。ここは俺たちの数少ない住みかだったんだ。それが今じゃよそ者連中の観光地だ。自分たちの収穫よりも連中の落とす金のほうがおいしいなんていって、いまじゃほとんどの漁師が船を捨てちまった。動いている船は遊覧船くらいだ。いいかサン。俺たちには誇りがあった。故郷を捨てるしかなくなって、なんとか居着いたこの街で、自分たちの力で生きていこうっていう誇りだ。だがほとんどの人間がそいつを捨てちまった。もうここは俺たちのイジン街じゃない。<サンディのいた街>。それだけの意味しかない。誰も俺たち漁師になんて見向きもしない。すべてお前たちがしたことだ!”


 ルラはそう言い切ると肩で息をしながら全身を震わせてサンをにらみつける。

 だがサンはそんなルラに表情一つ変えずに言う。


”言いたいことはよくわかったよ。ルラ。やはり子供なのは君のほうだ”


 瞬間、ルラの目から怒りの輝きが消える。呆然としたまま”なんだと……”と小さくつぶやく。

 サンはそれが気づいていないふうに、言葉を続ける。


”小さいプライド。小さい世界。僕ははじめからそんなものに縛られる気はなかった。君が僕に期待を寄せていたのはわかっていたが、それは君だけの都合だ。僕は、ディーにもそんな小さなものに縛られていてはいけないと思っただけだ”


 サンディは、いや、ディーは自分がサンのこともルラのこともまったくわかっていなかったのだと思い知った。そして、このままではルラとサンの二人が本当に引き返せない一歩を踏んでしまう……そう直感した。


”だからそれもてめぇ勝手な都合だって言ってるんだろうが……”


 ルラの声が再び怒りにふるえる。


”そうだ。すべては自分の都合でしかないんだよルラ。ほかの漁師たちが船を捨てたのも同じだ”


 サンの声は穏やかだ。

 そうだ、とディーは思った。昔、自信がなかった私を励ましてくれたときと同じ声だ。サンは本当に昔から変わっていないのだ、と。


”……やめて”


 ディーはのどから絞り出すようにそう言った。

 だが、それでもサンは話すのをやめない。


”誰もが自分の都合でしか動けないんだ”

”……やめなさい……”


 ディーは、自分がサンディであることを思いだそうとした。男を操る歌姫にして魔女のサンディ。


”漁師たちのふがいなさに憤って、僕たちにそれをぶつけるのも、君自身の都合でしか”

”やめなさいサン!”


 サンディは毅然と言い放った。サンはすぐに言葉を止めた。


”それが私が会って話すと決めたお相手に対する態度かしら。失礼が過ぎるわ”


 サンはサンディーの言葉にすぐ一歩退き、サンディとルラの二人に対して深く頭を下げる。


”ごめんなさいルラ。本当にごめんなさい”


 サンディもまた、ルラに対して深く礼をする。


 ルラは強く握りしめた拳に怒りを残しつつも


”……もう行けよ。お前らのことはよくわかったから”

”ええ、そうするわ。ルラ。あなたに相応しい女ではないって、私もよくわかったわ”

”ディー……”

”ルラ、あなたが大事に育てた友情を、私が壊してしまった。多くの絆が失われてしまったのね。すべて私のしたこと。私にはもうあなたに会う資格すらなかった”


 そう言うと、サンディはサンのほうを振り返る。


”サン。あなたも本当はやさしい人。すべては私の思いを深く理解して、尊重しているからなのよね。ありがとう。でも、もう私のお守りはいいの。悪者にならなくてもいい。一人ですべてを背負わなくていいのよ”


 サンはただ沈黙していた。


”私は、自分の力でやりなおします。そしていつか、あなたたちに相応しい女になったら……そのときには会ってもらいたいわ……じゃあ”


 そう言うとサンディは、サンとルラの返事を聞かずに店の玄関の戸を開ける。

 ルラもサンも、彼女が扉の向こうに消えるのをただ見ていた。


”追わなくていいのかよ”


 ルラはそうポツリを言うと、


”……これからだ”


 サンは言った。


”サンディはこれからだよ。もう、僕も君も、彼女には必要ないようだ”

”どこまでも勝手だな”

”ルラも自由になるんだ。もう僕たちのことは……”

”もう言うな。俺だけが未練タラタラみたいに言うんじゃねぇよ。だがな、俺はこの街と、海と、船だけは捨てねえ。絶対にだ”

”……そうか”

”俺はいつまでもここにいる”

”わかった”


 サンもまた出て行く。そこにためらいはない。


”だから……もしまた……”


 そこから先は声にならなかったが、ルラはそれで良いと思った。



「私が店を出てからのくだりは、もちろん後で聞いた事よ。当時は、まだ二人のことがわかってなかったわね。人間の思いがどれだけ深いものか、まるでわかっていなかったわ。これで二人とは永遠にお別れ。そう思っていたもの」


 そう言うとサンディはカウンターの向こうのマスターに目配せをする。

 マスターはすぐに奥から女性もののオーバーコードを取ってきて彼女に渡す。


「話は終わり。魔女(セイレーン)サンディのデビュー秘話というところかしらね。退屈でなかったかしら?」

 僕がそれを否定すると、

「どんな記事になるのか、楽しみにしているわ」

 と彼女は言って、席を立った。



 僕はマスターに訊ねた。彼女はあれからルラやサンに再会したのか? と。

 マスターはこう答えた。

「私にはお答えできません。カウンターの向こう側には立ち入らない。私のような生業のものの鉄則です」

 しかしサンディは店側の人間だし、マスターはサンディと親しい間柄のようだけど。そうマスターに言うと、

「さすがによく見ていらっしゃる。しかし……そうですね……あえていうなら、この店でのことはすべて夢のようなものとお思いください。この店が提供できるのは、一夜の夢です。夜が明ければ消えてしまう。おとぎ話の魔法のようなものです」


 なるほど、海から来た魔女に、魔法にかけられた、というわけだ。話のすべてが彼女の魔法、男を惑わすまやかしなのかもしれない。

 まったく表情を変えず、黙々と仕事をするマスターの口から思わぬロマンチックな言葉が出てきたことに感心してしまい、僕はそれ以上の追求をやめた。もともと自分の疑問に対する答えはある程度、推測が立つし、そこを強引に聞き出すことは、せっかくの夢を、魔法を台無しにしてしまうだろう。

 カウンターの向こうには一人の小柄な女性と二人の男性が写った写真が飾られている。

 それだけを記して、この文の締めくくりとする。

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