船を待つひと 変わらないひと、変わるひと Long Interview with a Lighthouse keeper




 港町の外れにひかれた古い国道を少し行くと、あっという間に景色は山の中。

 自動車のすれ違いが困難な林道が続く。道の傾斜がきつくなり、アップダウンを繰り返すようになる。しばらくすると、注意していても気づかないくらいにちっぽけな案内表示板が、ぼうぼうの草木に隠れてさびしく立っている。さらに少し行くと、案内表示が予告していたとおり、やはり隠れるようにして目立たない脇道が見つかる。

 脇道に入ってからもアップダウンの連続で、そこに左へ右へのカーブが加わる。車酔いする人にはあまりに酷な道だ。小刻みな山道。しばらく大陸のド真ん中を突っ切るような道しか走っていなかった僕には、結構こたえる。

 脇道に入るまでは森の中だったが、ここからは崖だ。視界の片方は山側、もう片方は谷側。

 やがて谷側の遠くに、海岸線が見えてくる。

 海に近づいているのだ。

 天候は悪くないけれど遠くの景色はかすかにぼやけて見える。海が輝く姿はまだ見えない。

 カーブは続く。木々、崖下、山肌。繰り返し繰り返し、めまぐるしく変わる。ちらりちらりと見え隠れする水平線。

 そうこうして、落ち着ける場所に到着した。

 高台だった。ずいぶん登ったものだ。

 山のゆるやかな斜面に畑が広がり、民家が点々と立っている。

 斜面を下ればそのまま海岸。

 小屋とともに漁船がいくつも見える。

 隠れ里のような漁村だ。

 海岸の両端からは切り立った岬が伸びており、漁村を包み込むように内側に弧を描いている。

 海賊の住み家にうってつけじゃないだろうか。

 僕の目的地は、その岬の片方に建つ灯台。

 この漁村に外からの客が来ることも珍しいだろうけれど、そこからさらにあそこの灯台に行く客なんて、もっとめずらしいはずだ。

 そして僕は、その灯台の主の、最後の珍客だ。



 灯台守の勤務は夜間が主だ。灯台の主要な役割は、夜間の灯火で船の航路や陸地の位置を知らせることにある。自然と、灯台守の仕事も夜のものになる。

 ここの灯台に配置されて以来、昼のうちから灯台に登るのは、男にとってはじめてのことだった。

 宿舎から灯台まではわずかな距離だ。一日の移動はそのわずかな距離の往復になることがほとんどで、一般的な勤め暮らしと比較すると、はるかに束縛された不便な暮らしを、灯台守は強いられることになる。男も何十年と、そういう生活を続けてきた。

 宿舎の裏口を出て、専用の連絡階段を上る。階段の手すりは、塗装があちこちはがれ落ちて、潮風にさらされてさびつき、痛んでいる。男は手がさびで赤黒く汚れるのもかまわず、手すりをつかんで一段ずつ、ゆっくりと上がっていく。

 階段を上がりきると、灯台はもう目の前にある。ちょうど男のいるほうへ影が落ちる時間帯だった。巨大な黒い柱と、男は対峙しているようにも見える。

 玄関というには無骨で飾り気のない、分厚い鉄の扉を開けて中に入る。中はがらんどうの筒になっている。灯塔と呼ぶ部分だ。中心の柱には螺旋階段がとぐろを巻いている。奥には機械室への扉があるが、そちらには用はない。男は螺旋階段を上っていく。

 灯塔にはわずかな窓しかない。家庭用のものよりはるかに頑丈なライトの明かりが、この空間を照らしている。

 灯台の建物そのものは古く、男はこの灯台とは付き合いが長い。しかし、このライトも、階段も、筒の壁の塗装も比較的最近のものばかりで見慣れたものではなかった。男は灯台の行く度にも及ぶメンテナンスにもすべて立ち会っているから、この灯台がどう変わってきたか、すべて記憶している。

 階段を上り切ると、灯塔の屋上、灯ろうと呼ぶ部分の真下にあたるフロアに出る。灯台の光は、この灯ろうにある灯火装置から発射される。灯火装置もまた時代とともに進化し、男が灯台守を始めたころからはまったく別のものになっている。

 灯台は変わっていく。それでも、どんな姿になろうと、男にとって灯台は変わることなく自分の世界だ。

 フロアからは外のテラスに出られる。

 テラスと言っても、ここは観光施設化された灯台ではない。スペースは狭く、安全面の配慮もあくまで業務上のものに限られている。望遠鏡が取り付けてあったりもしない。あくまで監視やメンテナンスなどが目的のスペースだ。

 だが、男は今日に限っては、一人の客のような気分で、このテラスにやってきた。

 昼間にここからどんな景色が見えるのか、確かめたかったのだ。

空は高く青く、太陽は強くまぶしい。

 絶え間なく響く波音は夜も昼も変わらないが、ときおり海鳥の声が混じるのが違った。

 男はあまりの光量に目を細める。それでも、この景気をよく見ておこうとしていた。この音に耳をすませていた。

 ゆっくりとテラスを半周する。パノラマは海から岬とその向こうの山々に切り替わる。この灯台から岬の向こう、村のほうに伸びる一本の道を一台のバイクがやってくるのが見える。

「最後の日に、最後の客か」男は言った。



 僕がバイクを降りると、その男はすでに灯台の前で僕を待っていた。

 ぴしりと整った正装での出迎えだった。

「マノ・エイジさんですね?」

 僕が問うと、男は「はい。ミズコシ・シュンさんですね。ようこそ」と返す。

「普通のお客様なら、まずは宿舎でお茶でも、というところですが」

「普通じゃないので、おかまいなく」

 そうですか、と間野は少し笑って、それであいさつは済む。

 では、と間野はそのまま灯台での注意事項などの説明をはじめる。

 間野には観光ガイドのようなサービス過剰とも思える愛想や丁寧さはない。淡々と、日頃の業務から得た経験から言葉を発している。なめらかなスピーチではないが、内容には無駄がない。

 間野英二はこの国で最後の灯台守だ。

 そして今日は、間野が灯台守を勤める最後の日。

 僕は、その一日にゲストとして立ち会えることに興奮を隠せない。本来、それは失礼な態度なのかもしれないけれど、間野がそういうことに対して無礼だと腹を立てるタイプの人間なら、そんな大事な日に僕のような人間を呼んだりはしないはずだ。

 事実、間野は僕の興奮を察知して、苦笑とともに先ほどからの説明を切り上げる。

「説明が続くのも退屈でしょうから、いきましょうか」

 一目でベテランとわかる風格とは裏腹の柔軟さに、僕はますます興奮を隠せない。


 僕は撮る。

 撮って撮って、撮りまくる。

 灯台を見上げたり、根元のなにげない雑草をクローズアップしてみたり、被写体やアングルは自由自在。

 岩肌、草木、影、鉄扉のノブ、外壁のしみひとつだって、気になることは見逃してやらない。

 シャッターを切り、現実を一枚の写真に切り取ってしまうのが写真家だ。現実をピックアップし際立たせるために使うのが写真だが、使いようによっては醜さを誇張する手段にも成り得てしまう。ときに写真家は気がつかないうちにファインダを覗き、シャッターを切ることの賤しい一面に、無自覚になってしまうものだ。

 そういう意味で、今の僕ははっきりいって賤しい。ミーハーさをむき出しに、灯台というものを丸裸にしてしまおうという気持ちさえ持ってシャッターを切り続けている。

「ミズコシさん、もういいでしょうか……ミズコシさん?」

「えっ? ああ、すみません! もう少し、もう少しだけでやめにしますから」

 やれやれ、と間野の顔には書いてあるだろう。今の僕は灯台とカメラ、二つのおもちゃに夢中な幼児そのものだ。

「それにしても、灯台ってこんなに魅力的だとは、正直ここに来るまで思ってもみませんでしたよ。灯台守の仕事も、やっぱり魅力があるんでしょうね」

「まあ、そうですね……魅力があるから、今までやってこれたんだと思いますが……」

 マノは言葉を濁しつつ、

「……その、どんな取材でも、やはりこういう……スタイルなのですか?」

「ん、ええ、そうですね」

「そうですか……いや、覚悟はしていたつもりですが、正直に申し上げて、たまげました」

 もう30分近く、間野を置いてけぼりにして、灯台の外の風景を撮り続けている。

 僕は話をしながらフィルムを取り替えて、

「じゃあ、そろそろ灯台の中を撮らせてください。わくわくするなあ」

「また、しばらくかかりますか?」

「そうですね」

 間野は大きく取り乱したりはしないものの、少しだけ鼻息が荒くなる。さすがに憤慨しているだろうか。

 ごめん、間野さん、こういうスタイルなんだ。


 それから灯塔の内部や機械室の様子などもあらかた撮影して、僕たちは塔頂のテラスにやってきた。

 僕ははるか崖下から吹きつける風でときどきふらついたりするが、間野はまったく動じることなく立っている。

「昔と比べて、灯台は外見も中身もずいぶんとあっさりしたものになりました」ここに上がってくるまでの話の流れで間野は言う。

「以前は、もっとごちゃごちゃしてたんですか?」

 僕はファインダ越しに遠くの海を見ながら、間野と話をしている。

「まず電源が巨大でしたし、灯火装置ももっと大きかった。あらゆる機器の小型化が進んでいます。ほかにも通信系の機材があったり……ここでは気象観測も行っているので、昔は下の機械室だけでなく、どの部屋にも何らかの機材が場所を取っていました」

「ああ、そういう機械のある風景もいいですねえ。あ、昔の資料写真とかあります? 本業のほうに使いたいんですけど」

「本業、ですか……。それにしても、あなたは楽しそうに撮影をなさいますね」

「楽しいですよ。撮るのが単純に楽しいですし、今日は被写体もいい」

「そうですか……」

「あの、失礼なこと言いますけど、いいですか?」

「どうぞ」

「マノさんは灯台が好きじゃないんですか?」

 わずかな間。

「好きか嫌いかと考えたこともないですね。若い頃の10年間くらいはただ必死で、それからはもう灯台が暮らしの一部ですから」

「なるほど、そうですか……」

 僕はそのタイミングでカメラを降ろした。

 ある程度の枚数を撮って、テラスからの景色も満喫できた。これからはもの言わぬロケーションよりも、もっと最高の被写体にピントを合わせていかないと。

「この眺め、最高ですよね。これが暮らしの一部なんて、すばらしいじゃないですか」

「いえ、実は、私もこうして昼間の海を見るのは、ずいぶんと久しぶりです」

「え?」

「いや、単純な話で、夜勤がほとんどですから。私が見てきたのは暗い海ばかりでした」

 間野の視線が、海のほうを向いた。

「夜、ここに立って灯火を頼りに海の向こうを眺めるのが、私の日課のひとつでした。私には、海というものが、無数の航路で編んだ網に見えます。この大海原に数えきれない数の船が浮かび、航路を行き交っている。海には目に見える標識もアスファルトの舗装もレールもありませんが、それでも決められた路があるのです。交通整理のため、人の都合で決められた路もありますが、海流や風、岩礁など、自然環境によって引かれる路も多くあります。そう、見た目にはどこでも自由に通過できそうな海ですが、実際はそうではありません。船は多くの制限のなかで運行されるものなのです」

「海は見た目ほど広くないし、船も自由な乗り物じゃない、そういうことでしょうか」

「そうですね」

「そこで必要なのが、灯台ってことですか?」

「夜の海には、昼の海よりもはるかに多くの危険があります。とくに陽の光がないことが最大の危険です。灯台はそこに光を向けます。灯台の光は夜間の運航に欠かせない標識です。ただ、技術の進歩によって、船は航海に必要な情報をたくさん手に入れましたし、灯台は人がいなくても運用が可能になってきました」

「灯台守が、必要でなくなってきたのでしょうか」

 間野は僕の問いかけに答えず、頭上の灯ろうを見上げた。

「私のような人間がいなくても船に光は届くようになりました。私は、ここからいつも船のことを考えていましたが、それももう今日で終わりだ」

 そう言いながら、灯火のある場所を見上げる間野。

 これが、この人の船を待つ姿か。

 僕は写真を撮るときの目で、その立ち姿を見据える。

 必要なカットはたったの一枚。被写体は魅力的。あとは僕の技量。

「うん、いい応答だ」僕はつぶやく。「よし。じゃあ、このまま始めましょう」

「なにをです?」間野は問いかける。

 僕は答える。

「取材です」



 この国最後の灯台守、間野英二はぴしりと整った正装でこの取材に臨んできた。推測ではあるが、日頃からだらけた格好はしない人だろう。服装だけ取り繕っても出せない几帳面さが、彼の立ち姿ひとつからもうかがえるのだ。

 船とは切っても切れない関係にある灯台。その灯台の守り手として数十年という間野氏が、自身の思いを語る。


 ――間野さんはこれまでいつも船のことを考えていた。もちろん仕事として当然のことでしょうけれど、間野さんの場合、それだけじゃない、特別な思いがあるように感じたのですが。

「そうですね。もちろん職務として船の安全を考えることは当然ですが、それだけじゃない思いがあると思います。ですが、今日の今日までその思いがなんなのか、漠然としたままなんです。今日、水越さんに来ていただいたのは、そうした自分にもわからない思いを明確にしてもらえるかもしれない、という期待があったからです」

 ――私に作家性というものがあるとすれば、まさに間野さんのおっしゃるような、本人の気づかない内面まで写し撮るという点があるのだと思っています。そこに共鳴していただいた結果がこの取材だとしたら、光栄です。

「こちらこそ、私のような老いぼれを取材に来ていただけるとは思っておらず、うれしく思っています」

 ――『船を待つひと』は話題性や流行とは一線引いたところにありますから、むしろ絶好のテーマを得られたと思っています。ところで間野さんは『船を待つひと』を読んだことはありますか?

「失礼ながら、実は読んだことはありません」

 ――やはり。まあ、この質問は恒例のものなので、気にしないでくださいね。

「水越さんの活動の噂は常々うかがっていたので、今回のご依頼にも快諾させていただきました」

 ―――ではあらためて聞きますが、間野さんにとって、船を待つ、というのはどういう行為だったのでしょうか。

「そうですね、夜の闇の中で……やはり真っ暗な海を見ながら……ここの光が船の運航に役だっているだろうか、無事に陸まで辿りつけるだろうか……そんなことを思いながら、船というものを常日ごろ意識しています」

 ――それは、灯台守としてですか、間野さん個人としてですか?

「どうでしょうか。線引きが難しいところです。私はもう、灯台守としての自分しかわからない、と言えるくらいに長くやってますから」

 ――なるほど。少し話は変わりますが、話の中で、“光”と、そして“闇”という言葉が印象的に感じました。私も写真を撮る人間として、光と闇、そのコントラストを非常に意識しています。灯台守にとって光と闇とはなんなのか、うかがいたいのですが。

「光は灯火の光ですね。ここら一帯は海と山しかない寒村ですから、灯火は最も強い輝きです。その光のほかには闇しかないと言って大げさでないくらいに極端な世界です。その光を守り、絶やさないことが我々灯台守の最大の使命です」

 ――光は守るべき希望、そんなふうにも取れますね。

「ええ、大げさじゃなくそうだと思います。現実的にも、灯台の光は船にとって生命線となりうるものですから」

 ――しかし、希望を守る灯台守の任務は、闇の中での過酷な任務ではないでしょうか。

「その通りです。灯台守は孤独です。大型で重要度の高い灯台はともかく、ほとんどの灯台はたった一人で管理をしてきました。町での人に囲まれた生活から離れて、暗闇にぽつんと建つ灯台にたった一人です。孤独と暇に耐えて、非常時に備えて気を張っていないといけませんでした。我々の頭上には灯火の光がありますが、それは海の向こうの船のための光で、灯台守のためのものではありません。“灯台もと暗し”……実は、この言葉のいう“灯台”は、昔の室内照明を指す言葉で、ここのような灯台とは無関係なのですが……誤用と知りながら、冗談で自分たちのことを“灯台のもと”と皮肉る仲間も大勢いました。実際、灯台守は夜の勤務という以外にも、一般の人に知られていない仕事という意味でも、闇の中の住人と言っていい状況です」

 ――灯台守の過酷さが一般の人々に認知されていない、ということですね。

「そうです。中には精神をやってしまうものもいました。心の病を患うのです。机に並んだ小物を積み木がわりに積み上げて遊ぶ癖がやめられない、といった程度の悪癖がつくのはザラで、日曜大工の趣味がいきすぎて、手作りの椅子や机で部屋いっぱいにしてしまうもの……強迫観念というのでしょう。ひどいものは完全に妄想にとりつかれてしまいます。居もしないパートナーと会話したり、生活道具一式をそろえて共同生活のままごとをはじめてしまうものもいました……。まだ正常でいる仲間の間では、“あいつも闇に飲まれた”なんて言い出すものもいました」

 ――そうした事実も……。

「ええ、結局、灯台守の過酷さも、それでも必要な仕事だったということも知られることがないまま、灯台守という仕事そのものが消えることになりました」

 ――灯台守にも光が当たって欲しい、そういう願いがあるのでしょうか。

「かつてはそういう思いが強くあったように思います。私自身が苦しいと感じていたからです。ですが、今は、自分のことを知って欲しいというより、仲間たちも含めて、灯台守という仕事があったという事実が、何かしらのかたちで残って欲しいという思いがあります」

 ――間野さんは、灯台守という仕事が名残り惜しいですか。

「それも答えるのが難しい質問ですね。灯台の無人化は、本来なら喜ぶべきことですから。過酷な仕事を強いられる人間がいなくなるわけですからね。それでいて、船の安全は確保できるのですから、言うことはありません」

 ――それでも、間野さんにとっては生涯をかけてやってきた仕事ですからね……。

「はい。今はまだ割り切れないでいます」

 ――時間が必要なことだと思います。この取材が何らかの手助けになれば幸いです。私がやっていることも、偉そうにいってなんですが、人々が日ごろの生活で意識しないこと、つまり闇の部分をあらわにしていくことだと思っています。灯台の光が船にとって希望の光となるように、私のカメラの光で、間野さんたち灯台守を照らしていければと思います。

「ありがとうございます」

 ――光と闇という観点で話を掘り下げてみましたが、それを踏まえて、あらためて、間野さんや、灯台守にとって船を待つということをお聞かせください。

「そうですね……船にとって灯台は標識に過ぎません。それでも灯台守は、港で船を待つ人たちとなんら変わりなく、船がやってまた去っていく時間を大切にしています。そして、我々灯台守が船に乗ることがなくても、乗務員や乗客と同じように、船にたいしていろいろな思いを託しています。それは一言でいうと、さきほど水越さんがおっしゃった、希望なのかもしれません」

 ――ありがとうございました。



 数日後の昼すぎ。

 僕はまたあの灯台がある漁村を訪れていた。

 村の海岸そばの小屋に住み始めた間野に会うためだ。

「結局、灯台からも海からも離れられなくて」と間野は言う。

 僕はひとまず書き起こした原稿と、灯台で撮影した間野さんの立ち姿の写真を、間野に見てもらいに来たのだった。

「正直、まだまだ書き直しが入ると思いますが、今のところはこういう内容になっています」

「いやはや、こうしてすぐに持ってきてもらえるだけでありがたいです。文章のことは素人なので内容をどうこう言えませんが」

 僕は間野の言葉に表情を硬くした。視線を少し落とす。言うべきことはここに来る前から決まっていたが、それでも躊躇してしまう。だが、躊躇していることを悟られたくなかったので、勢いで口を開いた。

「……その点なんですが」

「え?」

「『光の下』という小説をご存知ですよね?」

 その一言で、間野の表情もこわばった。

「……はい。知っています」

「ええと、推理小説みたいに回りくどいのは嫌なんで、単刀直入に聞きますけど……『光の下』を書いたのって、間野さんですよね?」

「ええ」

「やっぱり」

「直球ですね。ミズコシさんには驚かされますよ……」

「すみません」

「何をいまさら」

「ははは……」

「それで?」

「ええ、いや、あれって充分すぎるくらいに灯台守の現実が書かれてますよね。それでもあらためて僕の取材を受けたわけって……」

「ミズコシさんならもうご自身の答えを持っているのでは?」

「それでも本人の口から聞かないことには。いちおう僕、記者ですから」

「そうですか。これも記事にするんですか?」

「いえ、記事の内容とは別の、あくまで好奇心です。誓って文章にはしませんし、嫌なら話す必要はないです」

「『光の下』は、最後までお読みで?」

「ええ」

「ならわかると思いますが……あれは私の自己満足です。若気のいたりですよ。実際に売れていない。ミズコシさんがご存知なことが奇跡です」

「いや……僕はけっこう、衝撃を受けましたよ。あの作品がなかったら、今の僕はないと言ってもいい」

「じゃあ、すべてわかっていて、私の依頼を受けて、取材に来たってことですよね」

「そういうことです。別に隠すつもりはなかったですし、場合によっては、このことは確認しないままでいるつもりでした」

「なぜです?」

「え?」

「いや、それを知って、それでどうするんです?」

「あ、いや、別にどうというわけじゃないんですけど……あれだけのものを書ける方がなんで僕なんか……っていう、素朴な疑問ですよ。本当に」

「ご謙遜を」

「それを言ったらお互いさまですよ」

 なんともくすぐったいやりとりになってきたので、お互いに小さく笑って、話題を打ち切った。

 今日はカメラも筆記具もレコーダーもない。あくまで私用というつもりで来ていた。

 見るものも見せたし、聞きたいことも聞けたので、そろそろ、と席を立ったが「なんとも不思議なご縁ですし、もう少し」と言われ、このあとに何かあるのかと好奇心が湧いた僕は、もう少し間野を一緒に時間を過ごした。

 お茶をごちそうになったり、今後の生活のプランについて雑談をしたりしていたら、夕方になっていた。

「失礼、少し早いですが、明かりをつけます。夜目が効かなくなっていましてね」

「え、じゃあ仕事のほうも」

「ええ、軍の介入があろうがなかろうが、どのみち灯台守を続けるのは難しかった。潮時だったんでしょうね」

「そうですか……」

「それより、外に出ませんか」

 僕は間野に付き添って外に出る。間野は薄暗い空の下、ゆっくりとしか歩けないので、僕は彼に歩調を合わせてのんびりと歩く。

 少し歩けば海岸だ。日はすでに見えない。海岸線がぼんやりと明るいくらいで、空にはすでに星が光っている。

 海と星、船と星とは、切っても切れない関係にある。

 海に関わる人間なら、星を見るのはもはや癖と言っていい習慣だ。

 だから、僕も見上げた。

 そこに、一筋の強い光条が。

 もちろん、岬の灯台からだ。

「ちゃんと、働いてますね」

 僕はつぶやく。

「ええ、灯台守が引退しても、灯台は生きています」

「これを見せるために夜まで?」

「この前の取材では、テラスからの灯火しかご覧になっていないので。こうやって遠くから眺めるのも、いいものです」

 そういう間野は、微笑んでいた。

 取材のときには見せなかったおだやかな表情。

 きっと、間野も、こうやって灯台を見るのは、最近になってからなのだ。

 僕たちはしばらく、じっとその光を見ていた。

 カメラがあればファインダを覗いていたかもしれないけれど、今日はそれもない。今、この場は、シャッターの音を鳴らすだけで壊れてしまいそうな、繊細な空気に包まれている。

「たぶん、私は今でも船を待っているんだと思います」間野が口を開いた。

「灯台守として?」僕は思いつきで聞いてみる。

「それは……どうでしょうか」困惑。

「乗客として、あなたを乗せる船を、待ってみませんか?」

「私を……?」

「ええ」

「私が乗る船、ですか……行く先が見つかれば、そういう船が来る日もあるかもしれませんね」

「楽しいですよ、船に乗るのは。豪華客船でナイトクルーズ!」

「私みたいな老いぼれでも楽しめるかどうか」

「では、船から灯台を見る、っていうのはどうでしょう?」

「そうですね、それはいい……。ぜひ、妻と一緒に」

 えっ?

 たぶん、間野さんと会ってから一番、驚いた。

 間野さんは、不思議そうに僕を見ている。

「それは……じゃあ、そのときはお邪魔できませんね……でも、記念写真のカメラマンでよければ、ご指名ください」



Intermission1


 宿に戻ると主人に今夜のメニューを確認する。僕の好みだったので安心。

 それだけ聞いて自分の部屋に戻ろうとしたら、主人から

「お客様宛てに電話がありました」

 との伝言。

 誰からかは、察しがつくので「ありがとう」とだけ言って自室に戻り、ベット脇に置いてある電話から外線につなぐ。

「もしもし、リイア?」

「シュン? また私に内緒で単独取材?」

「ごめん」

「怒る前から謝るの、やめて」

「うん」

「今度も気まぐれ? それとも今回は計画的な犯行かしら?」

「行くとは、前もって言っておいたよ」

「日程は聞いてません。まったく……いつも趣味と仕事を混同してるんだから」

「仕事はしているよ、ちゃんと」

「当然。だからって仕事をしていれば黙って外国に出かけて好きなことをしていいという理由にはなりません」

「ごめんよ」

「だから口だけの謝罪はいい加減やめなさい。何度言わせるのよ」

「ごめ……」

「……はぁ。で、せめて事後報告くらいはしてくれるんでしょうね? ミズコシ先生?」

「しなきゃダメ?」

「当然すぎる。あのねえ……。あなたと私は、作家と担当編集という間柄でしょ? そうよね? そこは共通の認識を持っていただけてると、ギリギリ信じているんですが、先生?」

「あ、ああ、うん。そうだよ。信じてくれていいよ」

「だったら報告、連絡、相談はあなたの義務であり、私はそれを受ける権利があります。義務を怠ることはすなわち職務放棄とみなします」

「……はい」

「では報告を」

「仕事で灯台を取材しました。尊敬している作家さんがその灯台の灯台守でした。以上です」

「作家で、灯台守……ははあ、マノエイジね。ずいぶん古い人じゃない。もう亡くなっていると思ってた」

「噂ではね。でも噂は噂でしかない。だから、確かめに行ってきた」

「でも、あなた、マノのことは充分すぎるほど詳しいでしょ? 生死を確かめるだけの取材だったってことかしら?」

「いや、実際に本人に会って話をすることが大事だったんだ」

「そう……。そうかもね。で、結果は?」

「よかったよ。充実した体験だった。でもそのぶんまとめるのが難しい。相手は人生の大先輩だしね。表現というものの困難さをかみしめているところ」

「へぇ、殊勝じゃない。悪いものでも食べた?」

 悪いものを食べると人がおかしくなるって冗談、誰が言い出したんだろう。

「今夜もいい食事みたいで安心してる」

「そう。でも早めに帰国しなさい。その国は危険よ」

「まあ、たしかに軍が出張って緊張状態だったりもするけど、いまのところは大丈夫だよ」

「違う違う」

「え?」

「その国の食事、生モノが多いのよ? 知らなかった? あなたの嫌いなタコとかね。海の悪魔に食卓で遭遇する前に、さっさと戻ってきなさい。じゃあね」

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