「飽くなき追求」と「足るを知る」

 Aはひさしぶりに友人のBを夕食に誘うことにした。

 お互いに仕事の日々の合間を縫って時間を裂くのだし、せっかくだから奮発してでもうまい店にしようと考えていた。だがそうした店を探す時間すら取れなくて、さらにはBからの「わざわざそこまでしなくとも」という一言が追い討ちをかけた。結局、二人にとって地理的に都合がいいだけの、ありきたりなファミリーレストランでの食事となった。

 

 ひさしぶりに会ったBは元気がなさそうだった。Aが「どうしたんだい? 昔のハツラツとした姿はどこへ行ってしまったんだ?」と聞くと、Bは「いや、最近はずっとこんな調子だよ」と答えた。

「しかし、そんなふうに覇気のない顔をしていては、毎日が楽しくないだろう」AはBを励ますつもりでそう言った。するとBは、「元気に前進するだけが、楽しい生活じゃないと思うようになってね」と薄笑いみを浮かべて答えた。

「どういうことだい? 元気はあるにこしたことはないじゃないか」Aは疑問をBにぶつけた。

「しかしさ」Bはその言葉の後に一呼吸置いて、それから一言一言をゆっくりと語った。

「僕の元気は、無茶と紙一重だったんだよ。一度崩れると脆い。げんに僕はリタイアを経験してしまったよ」

「え? どういうことだい?」Bの言うリタイアの意味がわからなかったのでAは問いただした。

「Aには言ってなかったっけ。僕は会社を辞めたんだ」

「え、そうなのかい。初耳だよ」

「そうか、すまないな、最近は誰にどこまで説明したかもあいまいでね、以前ほど物事をきちんと覚えようという意欲もなくなってきているし」

 Bがわりと淡々と話すのを見て、Aはかえって動揺が深まった。あれだけ仕事に意欲を燃やしていたBが何にも執着を見せないなんて、ありえないことだとAは感じていた。Bの話は続いた。

「結局、僕のやる気は恐怖が根底にあったのさ。がんばらないと追い越されるとか、自分はこのまま停滞してはいけない、とか。こういう頑張り方は、たとえ成功したとしても満足感がないんだ。今回はなんとか成功できた。しかしすぐに次も頑張らないと、今度こそダメになる。そんな悪循環がどこまでも続くんだよ。達成感。安心感がないんだ」

「ちょっと待ってくれよ」思わずAは口をはさんだ。

「失敗への不安は、誰にだってつきものさ。それに失敗そのものだって、誰だって経験するものだろう? 失敗したらすべておしまいなんてことはないよ。もしそうなら、とっくに俺だって生きちゃいないさ。もちろん君だってそうだ」

 Bはかぶりを振って答えた。「そうじゃない、そういう話じゃないんだよ」

 Aはしだいにいらだちを感じ始めた。「じゃあどういう話だって言うんだい?」

「自分の身の丈を、僕は知ったんだ。そういう話さ。自分にできる努力の量と質の限界、と言ってもいい」

「なんだ、諦めた、ってことなのか」AはさっきまでBを励ますつもりでいたが、今はBに落胆と軽い失望を覚えていた。もう以前のBは死んでしまったのか。目の前のBを見ていると、まるで死期を悟った老人のように思えてならない。

「諦め、か。君らしい言葉だな」

 そう言ってAを見返したときのBの瞳は、穏やかながらも決して輝きを失ったものではなかった。

 AはBの視線に、思わず驚きの声を上げそうになった。

「な、なんだよ、もったいぶった言い方をして。どういうことなのか、はっきりと言ってくれよ」

「ああ、ごめんよ」Bは謝って、それから言葉を続けた。

「つまり”足るを知る”という言葉が、僕にふさわしいんじゃないかってことさ。僕には僕にふさわしい頑張りの度合いがある。僕がもといた会社では、その度を越えていたんだよ」

「でもやっぱりそれは君が会社で頑張り続けることを諦めたとしか思えないよ。僕たちはまだまだ若いんだ。目標に向かって努力しつづけないと、成長も止まってしまうしね」

「それは、君は君にふさわしい努力をしているってことだよ。それなら何も問題ない。君はそれでいいんだよ」

 Aはそう言われて、返す言葉が見つからなかった。少しして、Bに尋ねた。

「うーん……。じゃあさ、君は今、自分に合った目標が見つかっているのかい?」

「ボランティアを始めたよ。家も引っ越した。自給自足も始めたんだぜ。以前のような、仕事に追われる忙しさはないけど、自然とか、地域の人たちとかかわり合っていく忙しさができたよ。利益だとか、成績だとかを追求するより、一緒にいる人たちの笑顔を求めるのが、性に合っているみたいだ。まあ決して楽ではないし、綺麗事ではすまないこともいっぱいある。そういうのはサラリーマンしているのと一緒かもしれないけどね。単に背広や満員電車やオフィスビルとかなんかと相性がよくなかっただけなのかもしれないな……ははは」

 そう言うBの姿は、たしかに疲れてくたびれているようだったが、出会い頭にAが感じたような元気のなさとは、少し違うようだった。

「そうか……。まあそういうことならわからなくもない。心配してよけいなこと言ったな。すまん」

「謝るなよ。別に君の考え方を責めているわけでもないんだ。さ、乾杯して、食事を楽しもう」

「ああ……乾杯」

「乾杯」

 それだけの会話だった。あとは普通に友人同士、食事と他愛ない会話をして、この日のささやかな会合は終った。

 Aは相変わらず、仕事に忙しく、休日にはそこそこに余暇を楽しむ生活を続けている。

 Bがあれからどうしているか、そんなことをふと思うこともあったが、それ以上追求しようとも思わなかった。ただ、それでもあの日の会話を少しは意識しているのか、Aは以前ほど仕事とか、自分がやりたいことに打ち込むことをしなくなった。ほかの人たちが興味を持っていることや活動に目を向けるようになった。すると、思いのほか自分の知らない世界が、自分を取り巻いていることに気がついた。

「なんでもないことで変わるもんだな、色々と……」

 ある朝、Aはそんなことをふとつぶやいて、玄関の戸をくぐった。

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