目覚まし
少年Sは、朝に弱い。
何か特別な用事でもあれば一人で目を覚ますこともできるのだが、そうでない場合はどうしても誰かに起こしてもらうか、昼も近くなってあたりが騒がしくなるまでは布団を出ることができないでいた。
眠りは心地よい。どうして目を覚まして行動しなければならないというのだろう。こんなに楽で気分がいいことは、起きていてはそうそうない。起きるのはそう、せいぜい食事をしてトイレに行って、あとは汗を流したいときにシャワーを浴びればいい。起きていると、なぜかみんなSを学校へ行かせたがる。大人になったら毎日会社へ行かなければならなくて、お父さんは会社から帰ってくると、いつもくたびれた顔をして食卓について無言で食事を済ませ、それからお酒を片手にテレビを見る。お母さんは何かとバタバタしていて、いつも食卓とか洗濯機とかお風呂とか、家のことでかかりきりだ。起きているってそういうことみたいだけど、どうしてそんな大変な思いをしてまで、起きて動き回って疲れることをするんだろう。僕が子供だからわからないんだろうか、とSはときどき思う。
ある日。その日もSは朝の日が昇っても横になったまま、ときおり薄く目を開けたりあくびをしたりで起きそうなそぶりを見せるのだが、それでも結局寝返りをうっただけで、もう一度目を閉じて眠りを再開してしまう。
どれだけの間うとうとしていたのかわからない。意識があるようなないような、あいまいな意識のなかで、Sはずいぶんと長い時間を過ごしていた気がした。そしてふと、目が覚めた。
いつもの部屋だ。当たり前だった。なのに、Sはどこか自分が今いるこの部屋が、どこかいつもと違っているような、おかしな気分になった。なんだろう。とても静かだった。それがすでに不思議なことだとSは思った。いつもなら、この時間になればとっくに家には両親の生活の気配があるはずだったし、部屋の窓の外からも、車の音だとか近所の人の話し声だとかが聞こえてきてもいいはずだった。
Sは自然と、息を潜めて、じっとあたりの様子をうかがっていた。布団から半身を起こしたまま、その姿勢からぴくりとも動かなかった。その状態がしばらく続いたが、Sの身の回りには何も変化は起きなかった。もう一度、布団をかぶりなおして眠ってしまえば、再び起きたときにはいつもどおりの目覚めがやってくるかもしれない。そう思いたい。そう思う一方で、Sはどうしてもそれを実行に移せなかった。淡い期待の一方で、今眠ってしまって、その間に自分の身に何かが起ころうものなら、自分は一生目が覚めることはなくなってしまうと、そんなことを考えてもいたからだ。長い膠着の末に、Sは体をおそるおそる起こし、片足ずつにゆっくりと力を込めて、パジャマや布団のこすれる音さえ立てないつもりで、苦労して立ち上がった。自分がここにいることが誰かに気づかれたら、きっと自分はおしまいなのだ。誰か、というのが誰なのかの見当もつかないのに、なぜかSには、ある種の確信があった。
Sの自室は二階にあった。Sは廊下に抜け出て、そのまま階段を下って一階の居間の戸を開けた。居間には誰もいなかった。居間からダイニングキッチンも見るが、そこにも誰もいない。それどころか、居間にもキッチンにも、両親が起きて食事を取ったりだとか、居間でくつろいで新聞を見たりテレビを見たりしたような、そんな生活の痕跡が少しも見当たらない。
Sは自分の心臓が高鳴るのがわかった。息が苦しく、はぁはぁと声を立てて息を出し入れしても、ちっとも肺に空気が出入りしない感じがした。
Sは全速力ですべての部屋の戸を開け、中に誰もいないのを確認した。Sはもう家の中には1秒たりともいたくない、といったふうに、なりふりかまわず、パジャマも着替えずに裸足にスリッパのまま玄関を飛び出した。家の前の小道を走り、普段なら交通量の多い通りに出る。案の定、車は一台たりとも走っていない。自転車の通行もない。人っ子一人、出歩いている様子はない。
Sはもう、起きたばかりに感じていたような恐怖はなかった。頭の中は一つの疑問で満たされていた。
「どこへ行けばいい?」
誰もいない世界では、何をすればいいのかもわからなかった。いつものSなら、自分にちょっかいをかけてくる者が誰もいないというのは好都合なことのはずだった。学校や両親に煩わされることもなく、必要なときだけ起きて、ただ一人で好きなことをして、また寝るだけでいいはずなのに。だが、今のSにはわかっていた。そんなのはただの夢だと。自分は一人で生きていけるはずはないのだと。生きるには食べなくてはいけない。食べるものはS一人では用意できない。今、コンビニエンスストアやスーパーマーケットに足を運べば、そこには食料はもちろんのこと、衣食住に関わるさまざまなものが置いてあるはずだ。しかし少年であるSには、ただそれらのものが置いてあるだけでは何の価値もないことだった。道具であれば、Sは自分ですべて使い方を学ばなければならないし、食料は保存食でない限り、すべて自分で調理しなければならない。だが、そんな生存本能に直結する危機よりももっと以前に、根本的な部分でSは自分が一人きりだという事実に恐怖していた。それは本能だった。人は一人では生きていけない。Sは混乱していた。誰もいない、何をしていいのかわからない。どこ? どこへ行けば、人に会えるのか。できれば見知った人に会いたい。しかしそんな都合のいいことはないだろう。そもそもなぜ誰もかれもが消えうせてしまったのか。そもそもの疑問はそこにあるが、しかしそれをいくら考えたところで答えは出そうになかった。
歩き続けながらまとまらない考えをめぐらせていると、目の前に駅があった。駅には電車が停まっていた。Sは迷わず電車に乗り込んだ。
電車は自動運行で街へと昇る。途中、道路の信号機が一つのランプを灯していないことに気がつく。電気が、もう存在しないのだ。これでは街にいたところで、S一人では生きていくことはできないだろう。ではこの電車だけが、Sを運ぶために電気を通してあるというのだろうか。疑問は残されたまま、Sは電車に運ばれていく。
電車の到着した先は空港で、Sは世界中の空を眺めた後、宇宙センターへとたどり着く。
そこには一隻の宇宙船があり、Sへのメッセージが残されていた。そのメッセージの内容は、要約すると以下のようなことだった。
地球のほとんどの人間は地球の破滅を前にして、宇宙へと避難してしまった。あとに残された人のために、一隻だけ宇宙船を残しておく。先に逃げてすまない。これは褒められた行為じゃない、せめて自分たちが後に残る人を見捨てたわけじゃない、ということを形にして安心したかっただけの行為でしかない。
Sは宇宙船に乗る。宇宙船は飛び立ち、大気圏を抜けて地球の重力圏も突破したのち、プログラムされた航路に従って太陽系の向こう、外宇宙に向けて自動運航する。やがて宇宙船は名も知らない惑星に着陸する。そこには先に避難した人がいるかと思われたが、そこにも人はおろか、生命らしきものも見つからなかった。この星からは、地球が大爆発を起こす様がはっきりと見て取れた。これでSは宇宙で一人ぼっちになった。
Sはここまでの時間で成長していた。青年となったSは途方に暮れた。すべてをあきらめて眠ってしまおうか。そうすればここまでのことも、これからのことも、すべて夢の世界のできごとにしてしまえるだろう。しかしそれでどうなる? これまでのことはまるで夢のようなできごとだ。しかしじっさいに夢の世界に逃げ込んだとして、何かが変わるだろうか? 夢であろうとなかろうと、Sは一人きりだ。それならせめて、一人なりにこれから先を生きる努力をしてみよう。もともとSが自分で選んだ結果なのだ。みなが生きるために動いている間、Sは動かず眠っていた。その分の遅れが出ただけの話だ。時間は無知な子供だろうと容赦はせず、万人に等しく流れる。先に行った人に追いつくには、その分の速さと努力が必要だ。そうしないのなら、相応の生き方がある。Sがどういう道を選ぶかはわからない。しかしSは今こそ、本当に目が覚めた心地だった。
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