舟漕ぎウトナと向こう岸の少女

 ウトナピシュティムという名で呼ばれる大河がある。太古より流れるこの川の名は、人が自身の歴史を残し始めるようになったばかりのころから、文献に残っている。ウトナピシュティムの雄大な流れに、人は時の流れを感じたのかもしれない。

 私の命や心というべきものもまた、人と同じくこの川とともにある。

 私は日がな一日、気の向くままにこの川の様子を観察している。


 川は大陸の東西に伸びる要路を断ち切るように流れている。つまり大陸を西へ東へ旅するものはみな、この川を渡っていく必要があるということだ。

 何度も川に橋を架ける試みがなされた。しかし大河はたびたび氾濫し、橋は無残に流されていった。この時代、治水は人にとってはもっとも重要でありながら、もっとも困難な業であった。

 橋を架けられない以上、川を渡るには舟を浮かべるしかない。

 それで、渡し舟を漕ぐことを生業とする者たちが、川の近くに住み始めるようになった。彼ら自身も決して氾濫に飲まれる危険がないとは言えないというのに。危険と隣り合わせでいながらもなお、川とともに生きる彼ら舟漕ぎたちを、私は興味深く見ていたが、とりわけ私が気に留めていたのは、まだあどけなさを残す一人の少年だった。


 名をウトナという。

 この川の名を一部いただいた、というわけだ。そういえば、かつて私はこの少年の父親に、自分の息子の名をなんと名付けるべきかと、相談を受けたことがあった。きっとそのときに私が思いついた戯言を父親が真に受けでもしたのだろう。それはともかく、ウトナはその父親一人の手で育っていった。

 ウトナは母親の顔を知らない。物心ついたときにはすでに、家族と呼べる人間は父だけだった。そして、父もウトナが独り立ちできるほどに成長するのを待たずして死んだ。その魂はこの川の流れの行くはるか先、世界の果ての向こうにある死後の世界へと逝ってしまった。

 ウトナは父の仕事を継いで舟漕ぎをして生活をしようとした。しかし、ウトナには父のようにうまく舟を漕げなかった。そこでウトナは、父の残したわずかな財産を頼りに、ほかの舟漕ぎに弟子入りして教えを請いながら生活を続け、少しずつ舟漕ぎの腕を上げていった。ウトナは大人の舟漕ぎから見ても感心するほどの熱心さで、舟の漕ぎかたを学んでいった。

 下手だからこその熱心さか、それとも父の仕事だったからなのか。

 それらも理由のうちではあっただろう。が、ほかにも、ウトナ自身が語る奇妙な理由がある。ウトナがたびたび口にする、彼が何度も夢に見ているという一人の少女のことだ。


 ウトナは一人、川岸に立っている。

 すると、川を挟んではるか遠くの向こう岸に、一人の少女が現れる。向こう岸との距離を考えれば、少女の姿をウトナが目にすることができるはずはない。だが、夢の中のウトナには確かにいつも、その少女の姿が見えていた。

 そして、ウトナは少女の声を聞く。彼女がウトナを呼ぶ声を。

 ウトナは舟で向こう岸へ向かう。しかしうまく漕げない。

 やがて向こう岸へたどり着けないまま、目が覚める。まるで川に飛び込んだあとのように、全身が汗でずぶ濡れになっていたという。ウトナは眠るたびにこの夢を見ると、恥ずかしげに話したという。

 ウトナは舟の腕を上げ、向こう岸へとたどり着いて、夢に出てくる向こう岸の少女に会いたいのだと、親しくなった舟漕ぎたちに語っていた。たいていの者は本気にはしなかった。しかしウトナは真剣だった。どうあれ、私はウトナの成長を見守った。


 やがてウトナは一人前の舟漕ぎとなった。しかし、どれだけ仕事の合い間に向こう岸を探しても、夢の中の少女は見つからなかった。当然だ、という気持ちもあった。それでも何度も何度も探し続けた。だが、結局、少女の姿は見つからなかった。

 彼はもう少年ではなかった。大人としての分別を持っていた。少女のことを気にするのは止めることにしたようだ。もともと真面目な男であったウトナは、舟漕ぎとして熱心に働き、少しでも多くの人を川の岸から岸へ渡すことに、自分の人生を費やすようになった。

 その努力は並外れたものだった。少しでも多くの旅人を、安全に、すばやく渡せないものかと、ウトナは寝る間も惜しんで考えた。しかし、ウトナ一人の知恵ではどうにもならなかった。ほかの舟漕ぎにも相談したが、それでもウトナが満足できる発想は得られなかった。ウトナは結論を出した。

 ここで舟漕ぎを続けているだけでは、これ以上の努力は不可能だ。残念だが、しばらくはここを離れるしかない。だが大丈夫だ。ここには腕のいい舟漕ぎがたくさんいる。自分一人がおらずとも現状は問題ない。自分は旅に出て、優れた知恵と技術を探そう。そうすればもっといい舟をつくれるかもしれない。もしかしたら橋を架ける技術を発見できるかもしれない。

 家のわずかな蓄えを元にして、ウトナは旅人となった。私も彼の行く先に赴き、彼の旅を見守った。


 旅は長いものとなった。ウトナは青年と呼べる時期のほとんどをこの旅に費やすこととなった。

 しかし、その旅の仔細を語るつもりはない。彼の困難とその成果については、すでに多くの文献が語っているところだ。私が語るのは、ウトナの語られなかった物語である。

 ウトナの旅は困難なものだった。あてどなく諸侯、諸国をさまよったが、求める技術は見つからなかった。何度も路銀が尽きた。そのたびに飢えや渇きを何日も耐えなければならなくなった。

 それでもウトナは諦めなかった。故郷に引き返そうという思いも、一度として湧かなかった。

 ウトナは路銀を稼ぐためなら、どんな惨めな仕事でも嫌な顔一つせずに引き受けた。仕事のために旅が停滞することになったり、仕事そのものが充実したものであったりもした。ウトナを引き止めたり、故郷へ帰るべきだと促す人も大勢いた。それでもウトナは旅に出たころの志を捨てることはなかった。

 そんなウトナの振る舞いが、本人の思いもよらぬうちに風評となって広まり、やがてウトナへの協力を申し出る者が現れるようになった。その中にはしばしば邪な考えでウトナに近づくものもいた。だが、ウトナはときにそうした濁流をも自分の味方とした。人はウトナの器の大きさにいたく感心したという。

 時は経ち、気がつけばウトナの周りには腕利きの職人や商人や学者、そしてかつての同業である舟漕ぎなど、大勢の協力者たちが集まっていた。誰もが頼もしく、ウトナの志を実現しようという意思にあふれた者ばかりだった。


 ウトナは彼らとともに故郷に戻った。かつてのひなびた舟漕ぎの村は、ちょっとした都市にまで発展した。

 ウトナと都市の住人たちは、次々と川を渡るための手段や、必要な道具などを考案していった。そして、都市を川の氾濫から守るための技術も発達していった。またあるとき、川の氾濫が豊かな土壌をもたらすことが発見され、優れた農地を開発するための計画が立てられていった。こうして発展していく都市には、さらに人々が集まった。都市はますます大きくなった。

 

 そして、さらに歳月は過ぎ……大河ウトナピシュティムの氾濫は人の手によって制御されるものとなり、脅威から恵みへと変わった。人の知恵を尽くしてつくられた新しい船、ついに架けられた大橋、堤防、水門、水道、灌漑、建築……技術の結晶は、都市をさらに発展させた。今や、都市は川のほとりから川の上にまで広がり、一つの国となった。人々からは『水の都』とまで呼ばれるようになり、大陸でも有数の都市国家として栄えた。

 この土地は古来よりシュルパクと呼ばれている。川と同じく、歴史のはじまりからあった名である。誕生したばかりの国家には、その土地の名を借りて、正式に水上都市国家シュルパクと名付けられた。そして都市の君主として、国民はウトナを選んだ。ウトナは国民のために尽力し、よく国を治めた。


 やがてウトナは晩年を迎えた。己が成したことをすべて次代に託して、ウトナは一人静かに隠棲していた。

 彼は満足していた。自分が成すべきことは果たした、と。あとは死を待ち、そして魂となって自分が生涯をかけた川を下り、死後の世界へと行くのみだと、そう思っていた。

 多くの文献では、これ以上ウトナについて語ってはいない。ウトナは川を制し、国を建てた男として、その生涯を閉じた、とされている。

 その記述は間違いではない。記録としても不足はない。

 これから私が語るのは、ウトナという一人の人間についてのことだ。



 たった一つ、ウトナの心には大きな心残りがあった。もはや言わずともわかるだろう。少年の頃に見た夢のことだ。そこにいた向こう岸の少女のことだ。

 私はウトナの生涯を、生まれたそのときからこの瞬間まで、ずっと見届けていた。ウトナの生は私にとってひとときの退屈を紛らわせるのに十分の物語であった。

 だから、その物語の最後にもう一つ、私にしか語ることの出来ない逸話を残すことにしよう。



 ウトナは眠り、夢を見た。

 ウトナの姿は、かつて夢を見続けていた少年の頃の姿になっていた。

 そして、その傍らに。

 向こう岸にいるはずの少女がいた。


「君は……どうして……」

 ウトナはそれだけ声に出して言うのが精一杯だった。

「あなた、あたしのところに来たのね。」

「僕が? 君のところへ?」

「そうよ。あたしは小さいころからずっとここにいた。あなたは時間をかけてここに来た」

 少女はウトナに微笑んだ。

 思わずウトナは少女に叫んだ。

「ずっと、ずっと探していたんだ。ようやく、会えた」

 ウトナの頬に涙がつたう。そしてウトナは複雑な表情を浮かべて少女の肩に触れようとした。

 しかし少女はウトナの手をかわした。そしてこう言った。

「あたしを探す必要なんてなかったのに」

 その一言に、ウトナは思わず声を上げた。

「ずっと君を探していたんだ! 君はずっと僕を呼んでいたじゃないか! こんなに遅くなってしまった。それでもやっと会えたのに……どうして君はそんなことを言うんだい?」

 少女は首を振って答えた。

「違うの。あたしはあなたを呼んでなんていない。あなたはあたしが呼んでいるって、ずっと勘違いをしていたのよ」少女はウトナの目をまっすぐに見据えていた。


 ウトナは全身が凍る思いがした。「勘違い、だって? 君に会うために、僕は夢で何度も君のもとへ舟を漕いだ! 夢から覚めても、何度でも君を探した! それがすべて勘違いだったと?」 

 いつの間にか、ウトナの姿が大人のそれに変わっていた。そのまま見る見る年を取っていく。

「会えないから……叶わないから……諦めて……ひたすらに川のことだけを考え……そして、私はここまで来たのだ。私はとうに諦めていたのだ! なぜ、今になって……うう……」

 ウトナは老いた姿に戻って、全身の力が抜けた姿勢で崩れ落ち、うずくまったまま、うぅっ、うぅっ、と嗚咽も洩らした。その姿を少女は黙って見ていた。

 少しして落ち着いたウトナは、あらためて少女に向き合って告げた。

「……それでも、君に会えたのはうれしい。君がそれを望まなかったとしても。君に言いたいことがあったんだ。でも、それはなんだったのか、今ではもう思い出せない……」

 ウトナは頭を抱えた。しかしどうしても思い出せない。

 そして、なぜか胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。思い出そうとすればするほど、締め付けはひどくなった。ウトナはあまりの苦しさに再び膝を追ってうずくまった。


 私は思案していた。本来はウトナと少女の縁に私が関与することはない。二人が出会い、言葉を交わす機会は与えたが、それ以上のことをする気はなかった。だが、このままではウトナは苦しみの果てに真実を知ることになるだろう。私は、ウトナの生涯にこれ以上の苦しみは不要だと判断した。私はウトナの前に姿を見せることにした。

 そっとウトナの前に立ち、彼の胸に手を当てた。わずかではあるが、彼の胸の苦しみを癒そうと試みる。かすかではあるが、ウトナの息が整う。


 ウトナは体を震わせながら、ゆっくりと私に向けて顔を上げた。

「あ……貴女は……?」

 私はウトナの問いに答えず、少女を指さして言った。

「聞け。娘と汝の縁、その真実を」


 向こう岸の少女は語る。

「むかし、川があばれたときに二人の子どもが飲みこまれた。一人はあたし。もう一人はあなた。あたしのお父さんとお母さんはあたしを助けようとしたわ。でも、だめだった。お母さんはおぼれてそのまま流されてしまった。お父さんも、あたしを助けることはできなかった。あたしが生きていたのはそのときまで。あたしのことはこれだけ」

 少女は少しだけウトナを見つめ、再び語りだした。

「お父さんは、そのとき、流れていくあなたを見つけたの。そして、お父さんはあなたを助けることはできたのよ。だからね、あなたのお父さんは、ほんとうはあたしのお父さんなの。あなたの本当のお父さんとお母さんは、あたしも知らないの」少女が少しうつむく。

「ウトナ、汝の両親は汝と同じ刻、氾濫に飲まれて死んだ」私が少女の代わりにウトナに言った。それを聞いて、少女は顔を上げて、また話し始めた。

「お父さんは、あなたを自分の子どもとして育てた。でも、お父さんもほんとうはごまかし切れなくて、それで、あなたもほんとうは知っていたのよ。あたしのことも、あたしの親のことも」


 少女はそこで言葉を切った。だが、目がウトナに問いかけていた。

 ウトナはすでに真実を知っていたのだ。少女の目はそのことを思い出すことが出来たかどうかとウトナから確かめようとしていた。

 ウトナはただ少女と見つめ合っていた。そしてその目をそらすことができなかった。その事実こそが、少女の言葉が真実だということを語っているのだと、ウトナにはわかってしまった。

 不意に、少女の視線が柔らかくなった。

「でも、それはただ、それだけのことよ。あなたはあたしの夢を見て、その……」

「罪」私は言った。

「そう、罪の気持ちに苦しむ必要なんかなかったの。あたしのところに来る必要もなかった。それだけを伝えたかったの。今まで、辛かったね。ごめんね。今までよくがんばったね。ありがとう」

 少女はウトナを優しく抱いた。

 ウトナは少女に抱かれてむせび泣いた。

 そして、ウトナの涙が枯れたころ、少女の姿はもうどこにもなかった。



 私は落ち着きを取り戻したウトナに言った。「私を知恵ある者はエアと呼ぶ。汝が治めし大河は我の一部。私は世に遍く在る者なり」

 ウトナは私に問いかけた。「貴女は神だというのか。そうか、私はウトナピシュティムにその名を返し、あの流れの向こうへ逝くのだな? あの少女が、そして……父が、いるところへ」

 ウトナの目には曇りがなかった。死に対する諦めでもなく、覚悟でもなく、ただ、死を受け入れている目をしていた。

 私は、ウトナという人の在り方を見て、彼がこれから行く先を定めた。

「汝はまだ逝くべき時ではない。世において汝の肉は滅びるが、人々は汝をあがめるだろう。人々の心に汝は生き続けるだろう。汝はその魂をウトナピシュティムとともにせよ。川となりて汝が築きしものを見守るのだ」

「そうか……。わかった。それは構わない。だが」

「あの娘の魂も、汝とともに在ろう。汝と娘でそれぞれが、川の岸を片方ずつ見守ればよい。では、私はもう去ろう。一つの意思として長く世に留まりすぎた。私は遍く世に在りて、水とともに人の世を見通す者……」

 

 

 こうして、水神エアの加護を一身に受けたウトナ、またの名を聖君ジウスドラは、人としての生涯を閉じた。

 伝説によれば、ウトナは数百年の時を少女と共にしたという。そして、都市国家シュルパクが滅びると、やがてその魂も川の流れに乗って、死した者が逝くべきところへ還っていったという。

 こうした所以があって、ウトナピシュティムの川では古シュルパク生誕祭において、少年と少女が手を取り合い見つめ合う姿をした人形を川に流す風習が、現在も残っているのである。

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