過去作アーカイブ
生坊
ニアミス
めい子は、さびれかけた温泉町の民宿の娘だ。
近所の同年代の友達は、地元での学生生活を終えると、だいたいみんな都会へ行ってしまった。めい子は地元の静かな生活が捨てられず、両親の手伝いをして暮らしていた。近所の年配の人たちはみな親切でめい子をかわいがっており、めい子は今の暮らしを変える気はなかった。
だが、両親は自分の代で民宿をたたむ気でおり、めい子には町を出て就職するか、あるいは結婚を望んでいる。しかしめい子が就職にも結婚にも無関心な態度を取り続けるため、今ではあきらめかけている。
めい子には、なぜ今の暮らしを続けてはいけないのか、わからない。
彼女には、なぜ他人と同じことを自分もしなければならないのか、わからない。
彼女は感じている。私の人生は緩やかでいい。世界ももっと緩やかでいればいいのに。
めい子の眼に映るこの町は、とても緩やかだ。なのに同じこの町の友達はみんな、ここを離れて速いところへ行ってしまった。めい子はそうしたくない。めい子はここの時間が好きなのだ。
ある年の冬、めい子の民宿に住み込みのアルバイトでタクミという学生がやってきた。都会の男の子。前例のないことだった。父は体力の衰えを理由にしていたが、それなら町の中から人を探してくればいいことだろう。
めい子は少し不安だった。私が町から出ようとしないなら、外の人間を呼んでみてはどうかと、両親が考えたのかもしれない。しかしそんなことをいちいち問いただす気にもなれなかった。それに、意識していると思われてはかえって両親の思う壺だ。
タクミは明るく元気でよく働いた。絵に描いたような好青年。両親は早々にタクミのことを気に入り、お客にも気に入られていた。タクミの評判は町にも広まっていった。
めい子はその様子を極力遠くから観察していた。めい子にもタクミは魅力的に感じられた。あくまでバイトと雇い主の娘という距離を保ちつつ、それでもめい子はタクミと少しずつ親しくなっていった。
だが一つだけ、どうしてもめい子にはタクミを受け容れられないところがある。
タクミの速さだ。タクミの活気さはどこかせわしい。噂や評判の広がりかたも早い。あっという間にこの町になじみ、浸透し、浸食していく。それは都会の速さではないか。町が速くなっていく。そしてきっとその速さは、めい子の緩やかさも犯すだろう。
ひと月後ほどして、めい子はタクミが自分に特別な好意を寄せていることに気づいた。なんとなくこうなることはわかっていたが、自分のどこに好かれるようなところがあるのかはわからなかった。タクミみたいな都会の若者が、自分のようなのろまな田舎の女のどこを気に入ったのだろう。どうあれ、めい子にはタクミの好意を受け入れられるはずもなかった。
タクミは遠慮がちに、それでも頻繁に自分の気持ちをめい子に表わし続けた。めい子はそれをかわし続けた。残酷なのかもしれない。しかし、きっぱりと断るような行動も、めい子にとっては速さを必要とする行いで、めい子にはタクミが自分に興味をなくすのを待つことしかできなかった。速く、都会の速さで、自分から離れていってほしい。そう願った。
そうして、気がつけばめい子とタクミは仕事上の会話を除いて、直接口を聞くこともなくなっていった。
それでもめい子の気持ちは落ち着かなかった。タクミの行動が精彩を欠くようになっていったからだ。元気がない。仕事はもちろん丁寧にこなす。だが、機械的。以前のタクミではない。
自分のせいだろうか? いや、そんなはずはない。自意識過剰というものだ。めい子の望んだ緩やかな生活が戻ってきたのに、めい子はまったくうれしくなかった。
ある日、タクミからめい子に、休みの日にどこかへ出かけないかと誘いがあった。驚いた。かつてのような、好意を秘めた誘いなら、めい子は迷いもなく断っていた。しかし、今回はそういう雰囲気は全くなかった。タクミは真剣だった。そして深刻そうだった。
「いいよ」
「じゃあ、少し遠出してみませんか?」
「え……」
「今回きりでいいんで。駄目なら、この近くを歩くだけでもいいけど」
「……うん、いいよ。遠くで」
本当は嫌だった。なのに断れなかったのはなぜだろう? タクミの言葉は穏やかなのに、その奥には確固たる何かがあって、それがめい子に断るのを拒ませた。めい子はこれまで、有無を言わせないような力強い意思を人から向けられたことが一度もなかった。こんなことは初めてだった。それで、抵抗できなかった。
二人で駅に行き、そこから一日に数本しかない急行に乗って市街へと向かった。電車は加速して、窓の向こうに見える家や、木や、人の姿などは見る間に流れすぎてゆく。そしていつのまにか流れていくものは固い人工物ばかりになっている。
電車が止まった。タクミのあとについてホームに下りる。それから改札を抜ける間だけでももう、めい子が一日に会う人数の何十倍もの人が彼女の視界を行き交っていた。めまいがする。その場に座り込んでしまいたい。
タクミはめい子につかず離れずといったくらいの歩調で、それでもめい子をリードするよう務めた。駅を出ると、構内とはまた違った喧騒に包まれる。タクミはなんのつもりでここへ連れてきたのだろう。デートなんて甘いものじゃないことは間違いない。そのくらいは理解できた。
駅から少し歩いて見つけた喫茶店に入り、少しだけ気持ちが落ち着いたところで、タクミは言った。
「別にここまで出てくる必要はなかったんです。ただ、めい子さんの住んでる町からは少しでも離れた場所のほうがいいなって思ったから。疲れさせるようなことをして、すみません」
タクミはそこで一度言葉を切った。だが、軽く息を吐くと、めい子を見つめなおして再び言葉をつむいでいった。ゆっくりと。
タクミは、めい子の家族が、町の人たちが、自分たちを受け入れてくれてうれしかったという。町のおおらかさが楽しかったという。元からにぎやかに動き回るのが好きなタクミは、自分がよそ者であることを忘れて、はしゃぎまわることが出来た。夢のような日々だった。めい子にも他の誰と分け隔てることなく接していたつもりだった。だが、自分はまだ子供だったのだろう。結局、めい子を惑わせ、傷つけていたことに最近になって気づいた、とタクミはめい子に話した。
めい子はタクミに自分の気持ちを直接訴えたことはない。だが傷つけられた、なんて思ったことはなかった。むしろ自分がタクミを傷つけている、と思っていたくらいだ。だが、めい子がなんとか言葉に出来たのは、そんなことないよ、という一言だけだった。タクミはどう言っていいのかわからないというふうな顔をして、話を続けた。
めい子の態度を見るうちに、タクミは自分がよそ者に過ぎないことを再認識したという。そして、自分はこの冬が終わるまで静かに生活をして、そして静かにこの町を出て行こうと決めた、と、タクミは自分に言い聞かせるように告げた。
めい子はどうしていいのかわからなかった。
やっぱりタクミは私から落ち着きをなくさせる。
タクミは私の中にどんどん踏み込んでくる。
でも、そのことが単なる嫌悪感にしかならないのなら、私はこうしてタクミの話を聞いていたりはしないだろう。たぶん。
じゃあこの胸の中がざわつく感じはなんだろう。
この頭の裏側がしびれていく感覚は何なのだろう。
ただ、めい子にはタクミの言葉をきちんと聞いておかなくては、という思いにだけは迷いがなかった。
沈黙が続いた。
タクミは言葉を捜すようにして。
めい子はただタクミを見つめて。
やがてタクミが口を開いた。
「めい子さんにも、僕を見ていてほしかったんです。それで、僕を通して、めい子さんの知らないことを知って欲しかった。めい子さんの知らない場所にも、めい子さんにとって楽しい場所があるはずだってこと。それから、めい子さんが今いる場所にも、めい子さんの知らない楽しさがあるんだってこと」
気がつけば、めい子は目に涙を浮かべていた。そしてただ一言「どうして?」と問いかけた。
タクミはこれまでで一番ゆっくりと、言った。
「僕が、ずっと遠くに置いてきちゃった大事なものが、また目の前に現れたような気がして。でもまた、拾えずにすれ違うしかないんだけど」
めい子は何か問いかけたかったのだけれど、タクミはいつもの速さでハンカチを取り出して、めい子に渡した。めい子はそれで、ようやく自分が泣いていることに気づいた。
これだけタクミが自分の思いを言葉にしても、めい子には自分の思いをうまく言葉にできなかった。ただ、あいまいに、タクミの気持ちは嬉しいということと、タクミには以前のように明るく振舞って欲しいということを伝えた。そして、他愛のない話をしながら、二人で岐路についた。
冬が終わり、タクミは帰っていった。
帰り際、タクミは最後に一度だけめい子に甘えるような態度を見せた。またここに戻ってきて、めい子と一緒に静かにゆっくりと暮らしたいと、タクミは言った。
めい子はタクミが速度を緩めようとするのを許さなかった。タクミはそのまま走ってゆけばいい。めい子は、タクミが走り疲れて休むうちに追いついてみせる、とタクミに言った。タクミは、休まず走り続けて、一周して追いついて、まためい子とすれ違うまで走り続ける、とめい子に言った。おとぎ話のような約束をして、二人は別れた。
めい子は少しずつ自分の生活を変えていった。まず、両親と、これからのことを真剣に相談した。そして、これまでのようなただなんとなくこのままでいたい、という考えでなく、自分が進んで選択した人生として、宿を継ぐことを両親に伝えた。その決心を聞いて、両親はめい子に一つの隠し事を明かした。タクミについての大きな隠し事だった。
タクミは、この町に来る以前、教師に暴行を加えて重症を負わせた罪で少年院に収容されていた。暴行のきっかけは、別居状態となっているタクミの父親を、教師が侮辱するような発言をしたためだという。たしかにタクミの両親には、単に不仲と言うだけでは済ませられない問題があった。だが、タクミの成績が落ちこんでいたとき、教師はタクミを呼び出し、不用意にも「そんなことじゃあお母さんが泣くぞ。それこそなあ、あんな親父みたいになりたくはないだろう」などと口にしたという。
両親とも、社会的にほめられた人物ではないことは、タクミにもわかっている。それくらいの年齢は重ねていた。しかし、それでもタクミは両親を尊敬していたのだ。誰も表立ってタクミのことを悪く言う人間はいなかった。しかし、噂にはなっていたのだ。そのことをタクミは嫌になるほど感じていた。タクミも自分の荒れた気持ちを表に出さないようにしていた。心を閉ざしていたつもりだった。
しかし、胸の奥で膨らんでいたやりきれない感情は、いとも簡単に噴出した。
全身でつかみかかった。胸倉をつかみ、逆手でねじり上げた。教師を下に、タクミが上になってデスクに倒れこみ、全体重をかけてのしかかった。
訂正しろ。
取り消せ。
たしかにオヤジはいいオヤジじゃなかったさ。
だけど、何も関係のないあんたたちが、何様のつもりで他人を侮辱する!
そんな言葉がタクミの頭の中を暴れまわったが、何一つ口からは出てこなかった。代わりに拳が硬く握られ、持ち上がった。
「ダメだ!」どこからかそんな声がしたが、もうタクミには止められなかった。すべては一瞬の出来事だった。
退院後、社会復帰先の目処が立たないでいたところ、タクミの父親がめい子の両親と縁があったことでこの宿のことを知った。めい子の両親は悩みつつもタクミたちの希望を承諾し、経歴を伏せるかたちで受け入れたのだった。
両親はこのことをめい子にどう告げるべきか、ずっと悩んでいたという。両親もめい子も、お互いに向き合うことを避けていた。めい子は、タクミのことにも関心を示さないだろう。そう両親は、自分たちに言い聞かせてきた。それがどんなに異常なことだったのか、めい子は今になってわかった。
一部始終を聞いためい子は、ただただ、自分の見てきたタクミのことを思い出していた。そして、タクミがどんな思いでここに来て、そして別れのときまでをがんばってきたのかを想像した。
たぶん、自分の想像を絶する思いがあっただろう。私には計り知れない思いが。
めい子はあらためて、自分はタクミにもう一度会わなくてはいけないと思った。それはただ会いに行くという意味じゃない。あの人にふさわしい速度が必要なのだ。
めい子の望んだ緩やかな時間。それは、本当は止まったままの時間だったのかもしれない。
そしてその時間は、これから、本当に、緩やかに、しかし少しずつ速く動き出していくだろう。先を行くタクミに追いつくまで、少しずつ。
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