蝕み、狂わす
第15話 孤児院を探す女性
もう随分と遠い昔のように感じる。
デスクに向かい、パソコンを細目で眺める僕。数日にも及ぶ長時間労働のせいで、疲弊した顔をしていた。
棚には空き瓶となった栄養ドリンクが数本。中身が残っているものがないか探るが、どうやらなさそうだ。大きなため息を吐いて、自販機のある廊下に出た。
不景気で節電だなんだとのたまい、もう陽が沈みきった時間だと言うのに、廊下に光は灯っていない。その中で怪しげに光る自販機は、こじんまりとした空間と相まって少々不気味だった。
「あ」
小銭入れから百円玉を落としてしまった。スマホのライトで足元を照らすも、見つからない。自販機の下に潜ってしまったのだろう。
自販機の下を覗く気には、ならなかった。下を覗いて仮に小銭を見つけても、たかが百円ではないか。それだけの労力をかける意味も。時間も。僕にはありはしなかった。
本当に、荒んだ生活だっと思う。
感情は消え去り、ただ一分でも早く家に帰って寝たいと思う日々だった。でも家に帰っても、結局翌日には会社に行かねばならない。いつしかそんなことを考えることも億劫になった僕は、もうロボットと変わらず、社会の駒となって日々を送っていた。
……もうあの頃には戻りたくない。切に思う。
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朝、鳥のさざめきが聞こえるより早く目を覚ました。僕の日課だ。いつからかは覚えていない。いつの間にかそうなっていた。
「よし」
僕はこの世界に来てからの日課である家事を行うべく、自室を出た。そんなリリーのために、僕は毎朝早起きをしては家の掃除を念入りに行う。これがこの世界に来てからの僕の日課だ。
家主であるリリーには感謝しかない。この世界に身寄りのない僕を、彼女は今日までこの家に住まわせてくれているのだから。
また、この世界で僕のやることは極端に少なかった。彼女の稼ぎは多くはないが、細々と男女が暮らすには十分な稼ぎがあった。
そんな家主のため、彼女が爽やかな朝が迎えられるようにすることは、同居人として当然のことだった。
「おはよう」
「うん。おはよう」
家主の目覚めに、僕は返事を返した。
「いつもありがとう」
「いやいや、それはこちらの台詞だよ」
なんてやり取りをすることも増えた。円満な関係を築けていけていると思う。
そして、最近はもう少し関係が進み始めていた。
「さ、そろそろ行こうか」
「そうだね」
僕は、リリーの花屋の手伝いに赴くようになった。元はアーニャが逝くまでの折衷案のつもりで提案したことだったのだが、いざ彼女が消えて、もう僕が行かずとも彼女は問題ないだろうとなったその日、
『もう、来ないの?』
と涙目で彼女に言われ、今もこうして花屋に通うこととなっている。何故涙目で訴えてきたのかはわからない。ただ、その泣き顔に見惚れて正常な思考を働かせられなくなったのは言うまでもない。こういう時、免疫がないことを不利益だと思わざるを得ない。
まあ正直、とても辛いこと以外、この家主の願いを叶えないという選択肢は僕にはなかった。毎日の店番も、花の陳列も、前の世界でブラック企業を経験した僕にとっては、造作もないことだった。
「それで、その時のあなたったらおかしかったんだよ」
「へえ、そうかい」
出勤道中、仲睦まじく僕らは歩く。話は、オリバーとリリーの昔話。彼女が話して、僕が相槌を打ついつもの流れだった。
彼女はいつもとても楽しそうに昔話を語る。内容はとても些細なものばかりだ。あの時のオリバーが酷かったとか、あの時のオリバーは面白かったとか。オリバーという恋人と、どんな過去を送ってきたのか、そして、オリバーと騙る僕に、オリバーとはどんな人物かを、毎日教えてくれた。
その楽しそうな顔を見ていると、少し心に陰が差した。前も少しだけ感じた。オリバーという男への嫉妬。
そして、もう一つ別の感情も生まれ始めていた。こんなに優しい彼女をおいて何故逝ったのかという、怒りだ。
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この街の気候は、前暮らした世界の街の気候とよく似ていた。湿気が高く肌に襲う不快感を感じる今日この頃、街は南方の海域から北上していく停滞前線によって淀んだ天気が続いていた。
「降ってきちゃったね」
花屋に着くまではおとなしかったのに、昼飯時には、外は少し大粒の雨が止む気配も見せず降り続いていた。
前の世界では、僕は雨が嫌いだった。雨が降るからといって会社が休みになるはずがなく、移動の際スーツが濡れるだけだったから。手入れの手間が増えるだけだったのだ。
しかしこの世界では、雨は嫌いじゃない。雨が降れば花屋への客足も遠のくし、リリーと話す時間が増える。彼女と話している時間は、結構楽しかった。
「丁度いいし、お昼にでもしようか」
「そうだね」
僕達は裏の休憩室で談笑しながらご飯を頂いた。
丁度、その時だった。
「誰かいないのかしら」
突然の来客だった。少し暗めだが、女性の声色だった。
「見てくる」
リリーが表に出るのを見送って、僕は彼女のこしらえたサンドイッチに舌鼓を打っていた。
「いらっしゃいませ。今日はどういったものをお求めでしょうか」
「花なんて興味ないわ」
思わず飲み込もうとしていたサンドイッチが喉に突っかかる。なら何しに来た。
「え、えっと」
リリーの声は明らかに困惑していた。まあ無理もない。
僕は食事の手を止めて、こっそり物陰から表を覗いた。客(?)である女性の風貌は、季節はずれもいいところだった。というより、不気味だ。膝下まであるグレーのコート、革製の手袋、雨で濡れ垂れた前髪。B級映画の悪霊とかでいそうな風貌だ。
「この辺に孤児院はないの?」
「孤児院?」
「ええ、そうよ。どうなの」
女性は、早口で威圧的に捲し上げた。
リリーは明らかに萎縮しているようだった。手助けに入ろうか、迷う。明らかに客ではないしな。
「孤児院はないですね、この街には」
そう思っていたところ、リリーは怯えながら答えた。女性は本当かと言わんばかりにリリーに睨みを効かせていた。高圧的な客だ。
「……そう、ならもういいわ」
観念したのか、女性はそれだけ言って店を後にした。女性の背中は、悪霊とは思えないような哀愁を漂わせていた。
「ねえ、両親が疫病で他界して身寄りのなくなった子供たちって、どういう生活をしているの?」
街に消えていく女性の背中を追いながら、僕はリリーに尋ねた。
「え。ああ……」
僕の言いたいことを察したように、リリーは項垂れた。
「そうだね。この街は孤児院がないから、向こうの教会で保護しているよ」
「そっか」
うー、と彼女は唸った。
「無事に見つけてくれるといいけど」
「この街の人は親切な人ばかりだから大丈夫じゃない?」
「……でも、多分残された時間は少ないよ」
リリーはしんみりと呟いた。どうやら、こういう例も少なくないらしい。
彼女は心配そうに外を見ていた。雨はまだ、止みそうもない。
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