第14話 微笑、別れ
薄白い霧が広がっている道中を、無心で歩いた。誰が見ているわけでもないのに、ベレー帽を何度も被り直す。そうでもしていないと心が落ちつかなかった。
「ごめんください」
早朝、アーニャの家はまだ明かりが灯っていなかった。彼女の死まで、残り三日と迫った日の出来事である。
彼女の家は一階建てで奥行きもそこまでなさそうだ。ここに二世帯住んでいたことを考えると、あまりスペースはないほうなのかもしれない。
「ごめんください。ごめんください」
何度も何度も扉をノックすると、家の中から「朝っぱらからなんだい」と怒気交じりの声が響いた。
「誰だい。こんな朝早くから」
アーニャは、予期せぬ来訪者に、眉をしかめていた。
「どうも」
僕はお辞儀しながら、無愛想に言った。
「あんた、リリーの?」
「ええ、まあ」
驚いていたアーニャだったが、平静を取り戻すと、大きなため息をついた。
「何のようだい。こんな朝っぱらから。迷惑ってもんを考えなよ、迷惑ってもんよ」
扉にもたれながら、アーニャは咎めた。無理もないが、僕も引くわけにはいかなかった。
「失礼しました。迷惑は承知でしたが、どうしても今日じゃないと駄目だったんです」
「へえ、なんでだい」
今日は花屋が定休日で、リリーがいつもより一時間遅く起きてきて、朝に余裕が出来るから、とは言えなかった。
「まあ、それは色々あるんです」
「なんだい、はっきりしない男だね」
しどろもどろする僕に、アーニャは手厳しい言葉を送る。本当、癖が強い女性である。
「ははん、さてはリリー絡みだね」
勘の良い老婆は、目を光らせた。
僕は乾いた笑いを見せた。
「なんだい、喧嘩でもしたのかい」
どうやらアーニャを心配させてしまったようだ。毒を吐く人だが、結構面倒見も良いらしい。
アーニャは大きなため息をもう一度吐くと、
「入りな。話しくらい聞いてやるよ」
と家への侵入を許可してくれた。
家の中は、思いの他こじんまりとしていた。あまり生活観を感じない。
「そんな見回しても面白いもんはないよ。片付け始めてて、色んなもんを捨てたから」
「片付け?」
「私がいなくなればこの家は空き家だからね。物を置いておいてもしょうがないだろう」
僕は何も言うことが出来なかった。アーニャはこんなにも健康体なのに、本当にもうまもなく逝くのか、今更ながらとても思えない。実感が沸かない。
「なんだい。神妙な顔しちゃってさ。実感が沸かないのかい」
「まあ」
「皆そんなもんだよ。いなくなって初めて、どれだけ大切かを理解するのさ。まあ、あんたに悲しまれるほど何かをしてやった記憶はないけどね」
事あるごとに毒づかれるが、今までほどの苛立ちは感じなかった。
その時、残された数少ない棚の上に、写真たてを見つけた。写真を覗くと、少しだけ皺の少ないアーニャが椅子に座り、その後ろに笑顔の三人が立っていた。左右に、正装を着た仲睦まじそうな男女。そして真ん中には、その二人よりも更に若い男が一人。
「オリバー」
顔を見て、驚いた。まるで鏡を見たような錯覚に陥った。自分そっくりな顔の男。彼がアーニャの孫で、リリーの恋人、オリバーなのだろう。
「その棚は、娘夫婦の結婚のお祝いに買ったんだ。捨てるには勿体無くてね。まあ残していてもしょうがないんだけどね」
少しだけ寂しそうにアーニャは囁いた。
「後悔は、ないの?」
そんなアーニャを見て、僕は堪らず聞いていた。
「あるよ。後悔しかないくらいだ。でももう気にしたってしょうがないだろう?」
しょうがない。確かにその通りだ。
彼女はまもなくこの世から去る。死んだ後どうなるかはわからないが、今この期に及んで後悔なんてしたって、もう遅い。
そして僕には、きっとこの老婆の後悔を払拭させてあげることは出来ない。誰かを救うなんて大それたこと、僕には出来ない。
でも……。
『最後にまた会えて、良かった』
エミリーの最期。僕に言ってくれた言葉を思い出していた。
微笑み。消えていくあの時に彼女が見せたのは、泣き顔ではなく、微笑みだった。
彼女だってこれまで辛い思いをしてきた。後悔だってしてきただろう。でも、最後には笑って逝けた。
……僕には、誰かを救うなんてこと出来はしない。でも、最期のその時、笑って逝けるようにすることくらいは出来るのではないだろうか?
これはきっと、邪な方法だ。真実を知る人からすれば、去る人の心を弄ぶ非道な行いと思われたって仕方ない。
でも、僕にはこれしか術がないのだ。
でも僕のこれは、誰にでも出来ることではないのだ。
僕はベレー帽を取って、ゆっくりとアーニャの方を向いた。
「で、リリーと何が……」
アーニャは僕の顔を見て、固まった。馴染みのあった顔との再会に、言葉を失ってしまったのだ。
「オリバー」
アーニャの頬に涙が伝う。嗚咽を漏らしながら、涙を拭っていた。
「どうして黙ってたんだ」
「ごめん」
記憶がないことには出来なかった。アーニャを悲しませたくなどなかった。
「……いや、取り乱してごめんよ。そうかい、そうかい」
しばらく泣いて、アーニャは微笑んだ。
「リリーのこと、幸せにするんだよ」
「うん」
「また、会おうね」
「うん」
たったこれだけの短い言葉を交わして、僕はアーニャの家を後にした。気分を落ち込ます深い霧は消えていて、大きな太陽がサンサンと輝き始めている。
まるでアーニャの心の苦しみが消えたと伝えていてくれるようで、僕は少しだけ微笑んだ。
二日後。
アーニャは看取り人が集う中、青白く光輝き、逝った。
生前、世間話する時に見せていた、皆に馴染み深い微笑を見せて。
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